水前寺の歴史−後藤是山ゆかりの地を訪ねる

後藤是山記念館〜『鳴龍』青年会館(熊本市総合体育館内)〜夏目漱石大江旧居〜熊本洋学校教師ジェーンズ邸

 

後藤是山記念館

 

後藤是山とは・・・

雅号をつける理由は?

「是山」という雅号は新聞社に入社後、「新聞人は雅号を持たねば人交わりができぬ」と言われてつけたものです。名前だけでどのような人物か判断されていた時代、是山と名乗ることで人物に重みを持たせていました。若い頃、他社の記者達はその文章と雅号から老成した人物を想像していたそうです。

後藤是山(ごとうぜざん)は、明治19(1866)大分県久住町生まれ。本名は後藤祐太郎。生涯ジャーナリストの精神で、新聞記者としてだけではなく俳人としても活躍した人物です。熊本日日新聞社の前身である九州日日新聞社に勤務していました。また郷土史家としても功績を残し、『肥後国誌』の編纂や『肥後の勤王』の刊行などを行いました。熊本の文化発展に尽力し、昭和26(1951)熊本県近代文化功労者、昭和31(1956)熊日社会賞、昭和46(1971)勲五等瑞宝章、昭和54(1979)熊本名誉市民にそれぞれ選ばれています。

『肥後の勤王』の内容は?

『肥後の勤王』は大正2年の冬から翌年の夏まで約120回に渡って九州日日新聞上に連載されたものを、訂正し増補したものです。勤王とは、天皇親政を実現しようとした思想のことで、尊王とも言います。肥後の勤王には肥後のみではなく薩長の情勢なども述べられており、勤王運動の経過や志士の生涯と勤王史の関係が描かれています。


 

是山の生涯

是山は、明治42(1909)に熊本日日新聞社の前身である九州日日新聞社に入社し新聞記者となりますが、理想の新聞社と現実の新聞社の違いに幻滅してしまいます。そんな是山の気持ちを知った山田珠一社長の計らいで、明治44(1911)に東京の国民新聞社に一年間記者修行に行くことになりました。そこで是山は徳富蘇峰や与謝野晶子など著名な文化人達と出会い感化を受けます。熊本に帰り編集を任せられるようになった是山は文芸欄の拡充に努力し、東京で知り合った著名な人物達を紙面に登場させ人々を驚かせました。与謝野晶子には明治45(1912)の正月の九州日日新聞紙面を飾る懸賞短歌の撰者とその歌の題を決めてもらうことを依頼しています。

 

徳富蘇峰とは

文久3(1863)生まれの新聞記者、歴史家で熊本県水俣市出身。本名は猪一郎。父と共に熊本に出て漢字を学び、後に熊本洋学校に入学します。明治20年に民友社を設立して『国民之友』を創刊、青年層を中心に圧倒的支持を得ます。明治23年(1900)には『国民新聞』を発刊し、「平民主義」を主張する言論によってジャーナリズムをリードしました。国民新聞社に記者修行に来た是山の資質を見抜き、文芸方面に進むよう助言した人物でもあります。


与謝野晶子とは

明治11(1878)生まれの歌人で評論家。本名しょう。堺女学校補習科卒業後、関西青年文学会に加わって詩歌を発表。明治33年(1900)に与謝野鉄幹の東京詩社社友となり『明星』に短歌を掲載します。同年来阪した鉄幹を知り、翌34年家を捨てて上京、妻を離別した鉄幹と結婚。その激しい恋心と若い女の官能をうたいあげた第一歌集『みだれ髪』は同年8月に刊行されて一世を驚倒、眩惑させました。是山とは短歌の師弟関係にありました。

このことがきっかけで面識ができた与謝野晶子との交流は続き、大正7(1918)には与謝野鉄幹・晶子夫妻に熊本を案内しています。当時の九州日日新聞社社長の小早川秀雄と旧友であった与謝野鉄幹は熊本を旅したいと小早川を頼って手紙を出しました。しかし小早川は病気を患っており、申し出を受けることが困難でした。そこで、歌をたしなみ晶子とも面識がある是山に代役を頼みました。代役を頼まれた是山は11月半ばから旅行の計画を練り始め、1127日、島原から船でやって来た夫妻を三角で迎えたのでした。この時是山は鉄幹と初めて対面します。夫妻は熊本には34日し、その後博多へ向かいました。


そして昭和2(1927)、是山は俳句雑誌『かはがらし』を発行します。





またこの年には、是山の自宅である淡成居が完成しています。淡成居という名は徳富蘇峰が名付けました。蘇峰が初めて草庵を訪れたとき、淡成居は一木一石無い状況でこれを見た蘇峰は、東京に帰ったら苗木を送ると言います。その後、230本の苗木が蘇峰から送られてきました。全て鉛筆程の小さいもので桜と紅葉の2種類の苗木でした。その中に一本、何の苗木なのか植木屋に見せても分からない物が交じっていました。とにかく特殊な物だろうと思った

是山は一本だけ特別扱いをして小石で周囲を囲み植えます。そして翌年春、芽が出てくる頃になるとそれは銀杏の木であることが分かりました。

 

大正7年、与謝野夫妻の熊本旅行の内容は?

一日目は阿蘇を訪問。阿蘇神社に参拝し、夜は万下温泉に一泊しました。そこでは短歌会を開催。短歌会は翌晩の熊本の旅館でも開催されました。また、県立図書館では文芸講演を開き大盛況に終わります。そして熊本を出発する前夜は小早川主催の歓迎会が行われました。夫妻の旅は私たちが想像するような観光目的の旅ではなく、歌人としての充実した旅であったことが分かります。

是山は昭和15(1940)12月の『かはがらし』の巻頭に「公孫樹」と題する小文を掲げ、蘇峰から送られて今に至った由来を記しました。ちなみに公孫樹とは銀杏の別名で、孫の代に実がなる樹との意があります。これを見た蘇峰から是山の元へ折り返し手紙が届き、別紙に七言一首の詩が添えられていました。是山はこれを詩碑として銀杏の木の下に建立しようと思い立ち、翌年上京する際 に蘇峰を訪ね石碑の広さに合わせて字を書いてもらいました。

金峰蘇岳夢相牽 きんぽうそがくのゆめにあいひかれる

不見故人経幾年 いくとしへたかひとゆえみえず

聞説君家銀杏樹 きみのいえのいちょうのはなしをきく

亭亭直幹欲冲天 みきがまっすぐにてんたかくのびてそびえることをほっす

是山詞宗莞政 老蘇七十八

昭和17(1942)8月に建立された石碑は現在も蘇峰から贈られた銀杏の木の下に変わらず存在します。樹齢80年以上を誇る銀杏の木も石碑の隣で天まで届くかのようにそびえ立っています。


『東火』の内容は?

毎月一回一日に発行され、定価は当時の百円。東火抄というコーナーでは、一般から応募された俳句を是山が選び掲載されていました。他にも消息を伝えるコーナーや、句会で詠まれたものを紹介する会報コーナー、俳句研究コーナーなど俳句好きには堪らない雑誌だったようです。

9(1934)、山田珠一社長が急死したことにより九州日日新聞が再び政治記事重視になると、是山は折からの社内問題もあって新聞社を退社します。記者生活25年でした。しかし記者を退いても是山の活動は変わらず、その後昭和19(1944)に『かはがらし』を『東火』に改めます。この俳句雑誌は昭和2年から60年余り、戦時中の厳しい数年をのぞき一度の欠号もなく発行し続けたそうです。そして昭和6164日、享年99歳で是山は亡くなります。あと4日で100歳を迎えるところでした。是山は生涯こたつを使わず、茶の間の囲炉裏で客人をもてなしていたそうです。人に対する好き嫌いは外に表さず、訪ねてくる人は初対面でも滅多に拒む事はなかったといいます。話好きであり何より聞き上手で、知らない話には並々ならぬ好奇心を持って聞きとめ、天性の記憶力の糧としたそうです。

 

 

 

入館料 高校生以上200円、小中学生100

開館時間 9:3016:30

休館日 月曜日、年末年始(12/291/3)

所在地 熊本市水前寺2丁目610

電話 (096)3824061

駐車場 若干有り

記念館には、是山の作品や与謝野夫妻の色紙や短冊はもちろん堅山南風の書画や葉書など数多く収蔵されています。また記念館に隣接する淡成居では、紹介したように蘇峰から送られた銀杏の木や詩碑、是山の筆塚などを見学することが出来ます。

ここでは紹介出来なかった是山の魅力を是非記念館に足を運び感じて下さい。淡成居とその庭は特に見応えがあり楽しめます。

 


 

 

『鳴龍』青年会館(熊本市総合体育館内)

 

熊本を愛した南風

故郷である熊本を片時も忘れなかったという南風は、毎朝熊日を読むことが日課だったといいます。水前寺の水で傑作を描きたいというのが南風の念願でした。また帰郷するたびにビル化されていく熊本に失望したと言って、親しかった星子敏雄熊本市長を困らせたといいます。

堅山南風とは・・・

堅山南風(かたやまなんぷう)は、明治20(1887)年熊本県生まれの日本画家です。本名は熊冶。後藤是山との出会いは、是山が新聞社に入社した明治42(1909)以降に熊本あるいは東京で出会ったと思われています。友情は終生続き、是山が主宰した『かはがらし』や『東火』の表紙には南風の絵が50枚ほど寄稿されました。南風は大正2年(1913)、文部省美術展覧会(文展)で『霜月頃』が事実上の最高賞である二等賞を受賞し、無名の画家から華々しいデビューを果たしました。以後、横山大観に師事し、大正3(1914)日本美術院再興に参加、大正13(1924)に同人となります。昭和33(1958)には日本美術院理事となり、昭和3941(19641966)にかけて日光東照宮薬師堂天井画、『鳴龍』復元に従事します。その後、昭和43(1968)に文化勲章を受章。昭和44(1969)には熊本名誉市民に選ばれています。

 

どうして龍の絵が鳴くの?

天井と床などのように互いに平行に向き合った堅い面がある場所で拍手や足音などの短音を発したとき、何回も反射が規則的に繰り返されるため特殊な音色で音が残ることがあります。この現象が鳴龍の正体です。劇場やホールでは音響状態を阻害する要因となるため、平行壁を無くしたり、壁に凹凸をつけたりする対策が採られています。

『鳴龍』復元事業

『鳴龍』とは、日光東照宮薬師堂の内陣天井に狩野栄真安信(狩野探幽の弟)が、将軍の命により21歳の時に完成させた絵です。この龍の頭の下で、天井にすみついたハトを追い出そうとして手をたたいたとき、ブルブルと奇声を発するという現象が発見されたといいます。以後、一般にも開放され全国的に鳴龍として広まったためこの名があります。しかし薬師堂は昭和36年(1961)に火災によって焼損してしまいました。

そしてその復元が昭和39(1964)11月、日光本地堂審議会より南風に依頼が来ます。昭和40(1965)9月から下図に取り掛かり、11月いっぱいで出来上がりました。

南風は復元を依頼されていてもあくまで自分なりの龍を描くことにこだわっており、雲煙の中に凄まじい形相の龍を描こうとしていました。しかし審議会からは狩野栄真安信が描いていたオリジナルの龍を求められます。そのため、従来と同じ場所に龍頭を置き、裸の龍のデザインとなりました。

デザインについては妥協した南風ですが、彩色については妥協しませんでした。鳴龍のバックの色は本来黄土で塗られていましたが、南風は龍に魂や気品を出すため金泥を塗る意思を固めます。この件で一度は管理事務所と揉めましたが、南風に全て任せるとの判断が下されたのでした。

本描きが始まったのは昭和41(1966)43日。厚さ4.5cmの檜の板にヤニ止めのために全体に液を塗り、その上に丹、黄土を下地として塗りつけてから胡粉を15回程塗り重ねたものを生地とし、そこに下絵を置いて転写し絵が描かれました。縦5.6m×横16.5mの大画面なので画面を汚さないように中腰で描くかなりの労働でした。

そして727日に絵は完成します。鳴龍の音響に関しては早稲田大学名誉教授の佐藤武夫博士の指導のもとに、東大生産技術研究所の反響効果の応用技術によって蘇りました。

この鳴龍を栃木県まで行かずとも熊本で体感できる場所が青年会館です。昭和55(1980)に南風の遺族から下絵が熊本市に寄贈され、昭和61(1986)に談話ホールの天井に設置されました。下絵と言っても本物に引けを取らない、縦5.4m×横15mという大きさで天井高は7.5mもあります。南風が描いた龍の迫力を是非体感してください。

鳴龍の下で手を叩くとどのような音がするのでしょうか?

 

入館料 無料

開館時間 9:0022:00

休館日 月曜日(但し月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始

所在地 熊本市出水2-7-1

電話  (096)3851010

駐車場 有り

 


 

 

夏目漱石大江旧居

 

『草枕』や『我輩は猫である』で有名な夏目漱石の第3旧居は水前寺公園の東側に隣接しています。漱石は熊本に明治29(1896)、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師としてやって来ました。この旧居は漱石の3番目の家で、明治30年〜明治31(18971898)まで住んでいました。元々は大江村にあったのを今の敷地に移築したのです。ですから「大江の家」とも呼ばれています。

漱石の13回忌にあたる昭和3(1928)には漱石の夫人である鏡子と娘婿の松岡譲が熊本を訪れ、後藤是山が2人に同行し漱石の思い出の地を辿ったことがありました。第五高等学校や市内に点在する漱石の旧居、あるいは『草枕』の素材となった前田案山子邸などを巡っています。

大江旧居は昔ながらの温かみのある木造建てで、縁側にはいくつもの資料が並べられています。残念ながら中に入ることはできませんが、縁側のガラス越しがら見える部屋の様子からも漱石の当時の暮らしぶりが窺えることでしょう。また、玄関近くの小窓からもこっそりと中を覗くことができるので、別の視点から部屋を見ることもできます。

緑に囲まれた敷地の中で、漱石のことを考えながらゆったりした時間を過ごされてはいかがでしょうか。

 

入場料 無料

入場時間 3月〜11月は7:3018:0012月〜2月は8:3017:00

休業日 無休

所在地 熊本市水前寺公園22-16

 

 

 







熊本洋学校教師ジェーンズ邸

夏目漱石旧居の隣に位置するこの洋風な建物は「熊本洋学校」といって、またの名を「ジェーンズ邸」と呼ばれています。元は明治4(1871)年に現在の第一高等学校に開設されましたが、明治9(1876)に起きた神風連の乱で廃校になり、その後ここ水前寺公園に移築されました。

熊本洋学校は、西洋医学を身に付ける医師の養成、洋学を深く学んでもらうという目的で設立されました。実は熊本で初めての西洋建築物でもあるのです。

この洋学校で教鞭を執ったのがL...ジェーンズです。彼は明治4〜明治9(18711876)まで熊本に住み、熱心に教えていました。授業内容は文学、化学、測量などで、全て英語で教えていたそうです。成績が悪い生徒は退校させる厳しい教師だったそうですが、誠実で生徒達の意思を尊重し、信頼も厚い人物だったといわれています。後藤是山と馴染みの深い徳富蘇峰はこの洋学校に通い、L..L..ジェーンズの感化によってキリスト教に入信しています。








熊本は赤十字の発祥の地といわれ、熊本洋学校がその舞台となっています。西南戦争で激戦地となった田原坂では多くの負傷者が出て、佐野常民が熊本洋学校で救護組織の「博愛社」を設立させました。この博愛社が後に日本赤十字社に発展していったのです。

ジェーンズ邸では当時の面影を残したまま、数多くの資料が展示されています。

 










入館料  高校生以上 200円、小・中学生 100

開館時間 9:3016:30

休館日  月曜日(但し月曜日が祝日の場合は翌日)

所在地 熊本市水前寺公園22-16

電話 (096)3826076

駐車場 有り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

*  後藤是山記念館

*  『是山小話』 後藤是山[] 後藤狷士 1990年出版

*  『そのころ 後藤是山遺文』 後藤狷士[] 後藤狷士 1996年出版

*  『肥後の勤王』 後藤是山[] 矢貴書店 1943年出版

*  『東火(昭和3812月号)』 後藤祐太郎[] 東火社 1963年出版

*  『日光鳴龍』 堅山南風[] 日光東照宮 1956年出版

*  『南風・燃えつきて九十三歳』 堅山久彩子[] 求龍堂 1982年出版

*  『アメリカのサムライ : L.L.ジェーンズ大尉と日本 』 フレッド・G.ノートヘルファー[] 法政大学出版局 1991年出版


 

後藤是山年表

 

年号

主な出来事

1886

明治19

68

大分県直入郡久住町にうまれる

 

 

 

1909

明治42

7

九日に入社

 

 

 

 

1911

明治44

2

東京の国民新聞社に記者修行に出る

 

 

 

徳富蘇峰・与謝野晶子に出会う

 

 

 

 

1918

大正7

1127

与謝野夫妻に熊本を案内

 

 

 

 

1925

大正14

 

是山ら、南風の日本美術院同人推挙の祝賀会を行う

 

 

 

 

1927

昭和2

 

同人誌「かはがらし」発行

 

 

 

淡成居完成 ※蘇峰よりイチョウの木をもらう

 

 

 

 

1928

昭和3

 

漱石十三回忌の折、漱石の妻・娘婿に熊本を案内

 

 

 

 

1929

昭和4

 

与謝野夫妻と鹿児島にて一日旅

 

 

 

 

1931

昭和6

 

与謝野夫妻と久住を旅する

1932

昭和7

 

与謝野夫妻と熊本を旅する

 

 

 

1934

昭和9

 

九日退社 ※25年間の記者生活

 

 

 

 

 

 

9

与謝野邸を訪ねる

 

 

 

 

1942

昭和17

 

淡成居に蘇峰に詩碑建立

 

 

 

 

1944

昭和19

 

「かはがらし」を「東火」を改める

 

 

 

 

1950

昭和25

 

淡成居に是山の筆塚建立

 

 

 

 

1956

昭和31

 

南風が熊本県近代文化功労者の表彰を受ける

 

 

 

※多忙で帰郷出来ぬ南風の代わりに是山が代理を果たす

 

 

 

 

1986

昭和61

64

是山他界 ※あと4日で100歳の誕生日だった