梅が咲き誇り、日増しに春の足音が近づきかけていた3月8日の水曜日。我々は、熊本県に対して地位保全を求める仮処分を熊本地裁に申請しました。 時計の針がちょうど正午を知らせたその時刻に、シンシア・ワージントン、サンドラ・ミッチェルを筆頭とする我々、“熊本県立大学外国人教員を守る会”のメンバーは、熊本市京町の熊本地裁前に集合。ありがたいことに、我々の活動をずっと応援、そして支えてくださっている松野信夫弁護士、東俊裕弁護士、寺内大介弁護士や原田正純熊本学園大教授もお忙しい中、駆けつけてくださいました。 さあ、いよいよ“決戦”のスタート!です。 昨日までのポカポカ陽気とはうってかわっての小寒日より。「世間の風当たりは冷たいからね」という神のお知らせなのか、あるいは、「背筋を伸ばし、ピシッと気合を入れて立向かいなさい」という叱咤激励なのか、寒さが体の心まで冷やします。たくさんの報道陣がカメラを向ける中、我々は2列に整列。「今日は寒いね〜」とやわらかい口調で口火をきりながらも、はっきりした日本語で今回の申請の意気込みを表すシンシア・ワージントンと、サンドラ・ミッチェル。「外国人であるからということだけでこのような不当な差別が許されるのか!我々は断固としてこの問題に立向かいます」と力強い口調で宣言する代表の花田昌宣教授。 熊本に教員として就任して以来、様々な差別に耐えてきたシンシアとサンドラを始めとする熊本在住の数多くの外国人教員達を、本当に我々は“守る会”という名の通り守ることができるのだろうか?任務を全うすることができるのだろうか 普段はもの静かな花田代表の熱い正義感に満ちた一言一言が、寒さで冷えきって いた体に“喝”を与えてくれたのでした。 春はもうそこまで。“勝訴”という“春”の便りが届くまで私たちは戦います! [目次] 1999年 3月31日 2000年 2月15日 [目次] 今回のお客様は『東俊裕弁護士』です。 あれは10年前。マリアが東弁護士と最初にお会いしたのは小学校の講演会でし た。そして、月日は流れて2000年。偶然にもこの“守る会”を通じて、劇的 な再会をするとは・・。
〜質問を終えて〜 優しげで暖かで、そして熱く輝く東先生のまなざし。取材を終えた今でも私の胸 に生きずいているような気がします。裁判などの面においても、これからの守る 会においてキーパーソンとなられるであろう東弁護士。熱いお力添えお願いしま すね。
[目次] 佐藤マリア・エリザ
私は現在、大学に通っていないが、なぜかこの会に参加している。 私の父はドイツ人である。父は現在、本国で暮らしている。母は、熊本在住であり 、この守る会に命をかけている人だ。 私は、最初、わけがわからず、イマイチこの会に興味を持っていなかった。 しかし、そんな私も、なぜか、この会にハマリつつある。 父の影響もあるだろう、少なからず。 そもそも、“外国人教員”という言葉になぜか私は、不快な気持ちを覚える。 差別用語的だからだ。 私の顔立ちは、いわば“外人”。 幼い頃から、この言葉に敏感であった。 日本で暮らす限り、私はこの言葉に惑わされ続けるのだろう。 ココだけではなく、日本に住んでいる私や、私に父のような人間は、きっとこの 言葉にさぞかし、苦しんでいる事だろうと思われる。 日本人も日本からでれば、“外国人”というレッテルをはられるのに・・・。 島国の根性というのはおそろしいものだ。 つくづくそう思う。 そんな不快な気持ちが、私のトラウマになっている。 思うに、日本人の大半が“英語ペラペラ”に憧れを持っているのではないか? その“憧れ”が“悔しさ”になっているのではないか?とも思う。 ココは火の国・熊本。ココに住んでる人は、だいたい“肥後もっこす”である。 誰しも、ココにいる人達は、少なからずそういう部分を持っているはずだ。 それがどうした? どうしたも、こうしたも、この会が戦っている相手は、“肥後もっこす”である 。ズバリ言えば。 外国人教員の方々は、皆、ココ、火の国・熊本を、愛しているのだ。 日本人が余生を「南フランスで暮らしたい」「NYで送りたい」と考えるのと似て いる。 そんな外国人教員の方々が、住み良い熊本に永住できるように、私も彼等と共に 戦いたいと考えている。 [目次] 〜編集後記〜 中本幸子さんからバトンタッチして、バージョンアップした今回の守る会Newspaperは、いかがだったでしょうか?近頃の守る会は、若い女の子も続々 登場し、ますます活気的な雰囲気が漂っています。まもなく桜の花が色ずく季節 ですね。先の見えない外国人教師の方々に、せめて熊本城の桜をご満悦していた だけたらと願いを込めながら、この新聞を作りました。次号も乞う期待ください ませ。ごきげんよう!(佐藤マリア) [目次]
2000年6月14日更新 |