(総No.3

2003825日発行

日本郭沫若研究会事務局

810-8560 福岡市中央区六本松4-2-1

九州大学高等教育総合開発研究センター武継平研究室

TelFax(092)726-4651  E-mail: yanzipin@rche.kyushu-u.ac.jp

研究会ホームページ: http://web.rche.kyushu-u.ac.jp/~guomoruo/

 

             

目  次

 

 

郭沫若記念館のこと・・・・・・・・・・・・・・・・藤田梨那

郭沫若と谷崎潤一郎・・・・・・・・・・・・・・・・劉 岸偉

劇的な=u屈原」との再会 ・・・・・・・・ ・・・垂水健一

郭沫若と天満佐の天麩羅 ・・・・・・・・・・・ ・・齋藤孝治

短編小説「鼠災」をめぐって(2)・・・・・・・・・ ・岩佐昌ワ

郭沫若と「中日友誼蓮」・・・・・・・・・・・・・・ 武 継平

詩の対訳コーナー・・・・・・・・・・・・岩佐昌ワ・新谷秀明

会員研究活動報告・お詫び・編集手記・・・・・・・・・・・・

 

郭沫若記念館のこと

 

   毎年の夏、語学研修のために、学生たちを連れて北京に行く。研修の合間を縫って、北京をあちこちと見学する。私はいつも見学の初日に学生たちを北京にあ る郭沫若記念館に連れて行く。北海公園の裏の静かな一角にある記念館は昔風の邸宅で、かつて宋慶齢が居住していたこともあって優雅な作りになっている。中 には郭沫若の著書や写真、かつて使っていた文房具などが展示されている。今年も行くことを楽しみにしていたが、肺炎SARSのために語学研修が中止となっ た。実に残念である。

   郭沫若記念館はかつて郭沫若が生前に自宅にしていたことは言うまでもない。私は幼少のころ、天津に住んでいたが、毎年北京に遊びに行くといつもここを尋 ねた。勿論母に連れられてである。ここで祖父や他の親戚と会ったりした。会う場所はいつも正面の母屋の応接間であった。食事は右奥の食堂でみんなで取っ た。ある時親戚の某氏が祖父に揮毫をお願いしたところ、快く承知して、応接間の隣の部屋に席を移して、私たちの見守る中、毛沢東の詩を書いた。七十を過ぎ た祖父は筆を持つ手が少し震えていたが、一旦筆を紙に下ろすと非常にしっかりした調子ですらすらと筆を運んだ。

い まこの応接間は閉鎖されている。見学者は窓越しで中を見ることができる。昨年の夏に尋ねていったとき、記念館の方はわざわざこの応接間を開けて、中に入れ てくれた。中の様子、飾っている画も、置かれているソファも机も椅子もみな二十数年前のままであった。子供の頃見慣れて、何とも思わなかったこの部屋は、 いま私にいろいろな往事を思い出させる。かつて一緒に談笑した祖父も母ももうこの世にいない。二十数年前この部屋を出てから、祖父が辿ったのと同じ道を私 も辿って、日本にやってきた。それからはただ無我夢中で勉強した。その間、祖父を思い出すことがあっても、この応接間を思い出すことはほとんどなかった。 いまこの部屋の真ん中に立った私はタイムスリップしたように忘れた昔の風景を思い出して、静かな感動を覚えた。

  郭沫若の故郷四川にはまだ尋ねたことがない。いずれそのうちに行こうと考えている。しかし四川に行っても、北京の記念館ほど感動を覚えないだろうと思う。   

(藤田梨那)

 

谷崎潤一郎の上海交遊ー郭沫若との出会い

 

 耽美派の旗手谷崎潤一郎は、戦前二度ほど中国を訪れたことがある。生涯唯一の外遊として、彼の創作に何らかの形で痕跡を残したのだろうか。大正七年(1918) の満州・中国漫遊について、ドナルド・キーンは、「数編の旅行記を生んだが、谷崎の文学に深い影響を与えるには至らなかった。むしろ漁色が主な目的だった ように思われる」と突き放して見ているが、あながち酷評とも言えまい。その旅行をきっかけに、「蘇州紀行」「西湖の月」「天鵞絨の夢」「鮫人」などの作品 が生み出された。文壇にデビューして以来、谷崎に見られる文体の特質、つまり荷風のいう「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」「全く都会的たること」「文章の 完全なること」という個人色がこれらの作品にも一様に現れてはいるが、生まれて初めての海外体験は、作家がすでに朧に抱いている「幻想の中国像」ーその文 体の形成にも陰を落としている「支那趣味」を確かめる以上のものにはならなかった。

 一回目の中国旅行から八年経った19261月、谷崎は再び海を渡った。一月あまりの上海滞在中、何度か中国の文化人に会っていた。郭沫若との面会もその時だった。内山完造の計らいで、内山書店の二階で初めての顔つなぎの会が開かれた。

 

  私 が店へ這入って行くと、ストーヴの前に、黒背広を着て眼鏡をかけた一人の青年が腰かけていた、それが郭沫若君であった。丸顔の、額のひろい、柔和そうな円 な瞳を持った人で、癖のない硬い髪の毛がパラパラに突っ立って、一本一本ハッキリ数えられるように頭の鉢から放射している。やや猫背であるせいか、その体 つきに老成人と云うところが見える。 

――(「上海交遊記」)

 

 そ の後続いて「頬の豊かな、おっとりと太った鷹揚な紳士」がやってきて、日本文学の翻訳家の謝六逸であった。内山は郭沫若を謝にも引き合わせた。「党派を異 にする二頭目は、此の機会に初対面の挨拶を交す」という谷崎の言葉は、いかにも事情に疎い者の観察ではあるが、それなりに面白い。その日の会合に顔を出し た者に、田漢や欧陽予倩などもいた。散会となった後、谷崎は郭沫若、田漢を誘い、滞在中の一品香ホテルに帰って、夜遅くまで語り合ったという。

  この旅について、後に谷崎は「上海見聞録」や「上海交遊記」の中に感触を書き留めている。そしてその後に「支那趣味」の作品をぱったりと書かなくなったの も興味深い。谷崎の中国観に大きな変更を迫り、幻想趣味の文学を放棄するに至らしめたものとは何か、一品香ホテルでの田漢、郭沫若との対話が、作家にとっ て一つの大きな転機になったのではないか、と西原大輔さんが推測している(「谷崎潤一郎と中国」東大に提出した博士請求論文)。西原さんの論文審査に関 わった筆者にとって、これは意味深い指摘の一つだった。もっとも「上海交遊記」に記録されている対話を読むかぎり、田漢、郭沫若の語った中国社会の現状が 谷崎の中国認識を改めさせるには迫力があったものの、作家の創作の深層心理にどういう影響を及ぼしたのかについては分からない点も多い。

  思えば「支那趣味」の作などはステレオタイプ(概念化)の産物である。幻想の「支那」を描くことは、当時の谷崎にとってとりもなおさず「西洋崇拝」の代償 行為だった。晩年の谷崎は古典世界に立ち戻り、日本的伝統の美を見いだした。『細雪』を書く際、彼は「概念」よりも自らの「直覚」を信用した。身のまわり の現実を、日常の細々、建物、食器、土地の言葉の抑揚、着物の趣味、女たちの表情や動作などを手に感触が伝わるように描くことによって、西洋を相対化する 視点を手に入れたとともに、国家主義の亢奮を拒む心の拠り所にもなった。 

 1955 12月、郭沫若は中国科学代表団を率いて日本を訪れた際、帝国ホテルで谷崎と数十年ぶりに再会した。127日の「朝日新聞」によれば、二人の対談は三 時間にも及んだ。なめらかな日本語を操り、時にユーモアを交えた郭老の侃々諤々と対照的に谷崎は終始相づちを打つ程度であった。「政治空間」の懸隔がもた らした落差であろうか。それとも「文学」について二人の思いがあまりにもかけ離れていたからだろうか。作家の胸中を推し量り、朝日の記事を読み終えた後も 筆者はしばらく空想に耽っていた。

                           (劉岸偉 東京工業大学)719

 

 

 

劇的な=u屈原」との再会

                       

  四十余年ぶりで、郭沫若の戯曲「屈原」(須田禎一訳)を読み返した。私が最初にこの戯曲に出会ったのは大学で演劇を楽しんでいたころだった。脚本を探して、手にした一冊が「屈原」。上演を念頭に何度も読んだ。
  「人はなぜ、主人公の運命が幸福の絶頂から不幸のどん底に突き落とされるのを見に劇場に行くのか」という問いは、ギリシャ悲劇以来のものである。演劇を見 て涙を流し、その運命が自らの身の上に起こらなかったことに安堵する心地よさをカタルシス(浄化)だと説明されてきた。そのためにはドラマの展開は分かり やすくなければならず、一つの事件が、一日の間に、同じ場所で繰り広げられこと、という「三一致」の法則もある。
  「屈原」の戯曲は、ほぼこれに沿っている。舞台は戦国時代の楚の国。懐王に仕えた屈原が、王の寵姫・南后鄭袖に陥れられ、職を追われる一日を五幕の悲劇に まとめたものだ。南后が「めまいがする」と屈原の胸に倒れかけたところへ、王がやって来る。そのとき突然、南后は「はやく放して」と騒ぎ出し、怒った王は 屈原の職を解くなど、シェークスピアを思わせる劇的な場面が続く。
 学生演劇の脚本選びは理屈が先行して、ドラマの面白さよりテーマを重視する。しかし演劇はドラマチックであることが観客を引きつける。私は劇的な=u屈 原」を強く推したが、上演は実現しなかった。理由の一つは、味わい深いが、長い台詞をこなせる俳優に事欠いた。二つ目はセリフの後のト書き=B「やや機 嫌を損じて」とか、「すっかり気を取り戻して」のように演技への難しい注文が多い。演出と俳優に厳しい制約になる。そんなことが脚本選択の前に立ちはだ かった。しかしこのたび戯曲「屈原」に再会して、演出家や俳優に勝手な解釈を許さない作者の厳格な姿勢に改めて気が付き、作品の質の高さを思い知った。
  ところで、私が何のために「屈原」を読み返したのかといえば、中国の「児童節」を調べていてのことである。日本の「こどもの日」は屈原が汨羅江に身を投げ た旧暦の五月五日の「端午の節句」に由来する。中国は六月一日。屈原の命日が児童節に結び付かない理由を探していて、屈原に関する著作に何かヒントはない かと思いついた。いろいろ読んだが結局何も分からなかった。分からなかったが、日本に屈原に親しみを感じている人の多いことに気が付いたのは収獲だった。 郭沫若が日本に留学していたことと少しは関係があるのだろうか。               (垂水健一)

                                    

 

郭沫若と天満佐の天麩羅

 

 留日時代、郭沫若さんが日本そばやうなぎをよく口にしていらっしゃった、という逸話はつとに知られていますが、このたびは天ぷらについてのエピソードをご紹介したい、と思います。

 皆さんもご承知の通り郭さんは市川に蟄居しておられた頃、田中慶太郎さんが経営する本郷の文求堂で中国古代文字に関する本を九冊ほど上梓されました。

 当然、文求堂を訪ねる機会も多々あったわけですが、その時たびたび食べられたのが、「天満佐」という老舗の天ぷら屋さんの天ぷらだったのです。

 この天満佐は文求堂から本郷通りを東大の方に向かい、本郷三丁目の交差点を右折して春日通りに入り、ちょっと行った右側の路地沿いにありました。

 大正121923)年の創業で、他の天ぷら屋さんのものよりひと回り肉厚のかき揚げや、築地の市場で直接仕入れた新鮮な魚をふんだんに使った天ぷらが評判でした。

 もっともお値段の方は若干高くて、近くの東大や、一高の学生には縁遠い存在だったようです。

 そんなことでもっぱら利用するのは近辺の本屋さんや商店の経営者などふところ具合がある程度、裕福な人達に限られざるを得ませんでした。

 文求堂の田中さんもその一人だったのです。

 面倒見がよい上に郭さんに好意を抱いていた田中さんは訪ねてくる郭さんをこの天満佐に誘いました。

 元々、天ぷらが好きだったのか郭さんは天満佐で出された天ぷらがとても気に入ったのです。

そのことを目ざとく気付いた田中さんは以後、郭さんを天満佐に連れて行くのが慣例となりました。

 座るところは奥座敷か入口脇のカウンターと様々だったようです。

 時に文求堂の「郭沫若番」であった田中さんの二男震二さんや一高で中国文学・哲学を教えておられた長澤規矩也さんを同行することもありました。

 天満佐はまた昼食時、天ぷら弁当を出しておりましたが、これも郭さんの好みだったそうです。

 文求堂訪ねる際、郭さんは前もって田中さんや震二さんい電話を掛け「○○日、お昼にお伺いしますので、天満佐に弁当を頼んでおいて下さい」と依頼することがありました。

 長澤さんによりますと、郭さんは文求堂を訪ねて食事をする時、天満佐以外のものは食べなかった、といいます。

 それほど天満佐の天ぷらが気に入っていたのでしょう。

 ところで天満佐は延々と今も営業を続けています。

 取材もありますので先日、電話で所在地などを確認して妻と足を運びました。

 驚いたことには、調理や下働きはかなり年配の女の方二人で賄っておられたのです。いろいろお尋ねしましたが、結論的にいいますと郭さんとの絡みについては、すべて初耳とのことでした。

 それでも文求堂や田中さんがお得意さんだったことは存じていらっしゃいました。

 往時を偲んで天ぷら定食を食べましたが、とても美味でした。

 パンフレットの類はなく、「お好きな方はどうぞ」と多少無愛想な感じがしました。

 それもこれも創業以来八十年という老舗のプライドからでしょうか。

 ちなみに土・日・祝日はお休み。地下鉄丸の内腺本郷三丁目駅から徒歩5分です。         (齊藤孝治)

            

 

短編小説「鼠災」をめぐって(2

 

 「鼠災」は短編小説といってもわずか2 千字余りの小品で、筋というほどのものはない。「主人公の気持ちの描写が作品の全てだ」と言ったけれども、その気持ちにしても、例えば、初め腹を立ててい たのが次第に平静になっていくといった程度で、何か感情の起伏があるわけではない。主人公は初めから終わりまで不満、不快、不機嫌のままである。

 読者は、しかし、この作品を読んで、主人公について様々な情報を得ることができる。彼、方平甫は日本の国立大学に学ぶ医学生である。年齢は26 7歳、民国3年に日本に来て、これまで6年、高等学校からこの大学に進学したのが一昨年、小説の冒頭にこれが「去年の111日」の出来事だと書かれてい ることから、それが1918年だと知れる。1ヶ月48円の官費を受け取っているが、家族3人で暮しているため生活は窮迫している。妻は日本人で、牧師の 娘。4年前に「自由結婚」し、そのため双方の家族、友人から見捨てられている。住んでいるのは海に近い漁村の一角、魚臭い匂いにつつまれた2階建て。と いっても人が住めるのは2階の一間だけ。妻はよくヒステリーを起こし、彼の方も妻や息子に当たることがある、等等。この小説は冬服を鼠に齧られるという不 愉快な事件に触発されて思い起こすさまざまな事柄を通して、主人公がどういう人物であるかを紹介する作品だ、と言ってもいい。

 この作品は郭沫若の書いた身辺雑記的小説の最初のものである。前回も書いたが、武継平(『異文化の中の郭沫若―日本留学の時代』九州大学出版会、2002 12月)によれば、郭沫若にはこれに先だって書かれ(16日付け)、発表され(124日「学灯」)た「かれ」という作品があり、これが郭沫若の「初 期小説の主流だった「自叙伝小説」の原型」だという。私は「かれ」という作品を発掘した武さんの努力を多とし、彼の言う「原型」説は理解するが、「かれ」 を「小説」と認めていいかどうか疑問に思うので、「鼠災」が郭沫若の身辺雑記的小説の最初期の作品だという判断は変えないでおく。

 私小説を論じた平野謙の名作「私小説の二律背反」(いま新潮文庫『芸術と実生活』による)によれば、私小説が「一般化し亜流化した」のは「大正八・九年ころ」だという。つまり1919 年から20年のころ、純然たるフィクションではなく、実態は作家の自己告白や自己暴露にほかならない私小説が文学表現の一つの型として確立したというわけ である。ただ平野は私小説が「一個の文学理念として全文壇的規模において採りあげられ」るのは「大正十二・三年以後のことに属する」、「大正八・九年度に はまだ私小説は文壇の主流たり得なかった」と書いているけれども。郭沫若の「鼠災」は、作家の分身にほかならない方平甫が貧困とたたかう生活を描いている という点だけでなく、普通なら公にすることをはばかるような妻に対する不満やらを文字にしたという点でも、同時期に一般化した自己告白、自己暴露の文学と いう私小説の型に従った作品といっていいだろう。

  郭沫若は処女作の「髑髏」について「欧州の旧式の小説の体裁を採用した」と述べ、次の「牧羊哀話」は「朝鮮に舞台を借りて、排日の感情を朝鮮人の心に移 し」「全体の筋は専ら僕の幻想から出た」ものだと書いている(「創造十年」)。つまり処女作時代の彼にとって、小説を書くというのは非日常的な物語の世界 を作ることだった。従って、「鼠災」のような作品は、彼の小説観に大きな変化があって初めて生まれたものだといわなければならないが、その小説観の変化を もたらしたのが、当時の日本文壇で一般化しつつあった私小説だったといえるだろう。郭沫若がどういう日本作家の作品を読んでいたか私はまだ知らない。しか し、「鼠災」を読む限り、彼が私小説から小説の概念を学んだと考えないわけにはいかないのである。

 さて、ところで郭沫若はなぜこのような小説を書いたのだろうか。さまざまな理由を思いつくことができるが、ここでは、彼が「学灯」の読者たちに「郭沫若」という詩人の正体を明かそうとした、という解釈(思いつき)を書いてみたい。

 郭沫若の新詩が初めて活字になるのは1919 911日である。『時事新報』副刊「学灯」に掲載された自分の作品を見て「言い知れぬ陶酔」を感じ、「大きな刺激」を受けた彼が、それをきっかけに 「詩の創作の爆発期」を迎えるというのは有名な話で、それは「1919年下半年から20年の上半年」まで続いた(「創造十年」)。この時期、彼の詩作品は 次々に「学灯」に掲載されていく。「郭沫若」という名前は草創期の中国詩壇に轟き始めるといっていいだろう。勿論「学灯」の読者数は知れたものであったろうし、「詩壇」と言っても狭い空間に過ぎなかっただろうが、しかし、新詩を書こうとする文学青年たちに「郭沫若」の名が印象付けられはじめたことは間違いあるまい。彼ら「学灯」の読者たちに「郭沫若」という人物の輪郭を知らしめること、それが「鼠災」執筆の動機だった、そのために私小説という形式が選ばれた、というのが私の解釈(思いつき)なのだが、どうであろうか?

   (岩佐昌ワ20038月)

 

 

郭沫若と「中日友誼蓮」

 

 スイレン科多年草で日本のどこにでもありそうな蓮の中に「中日友誼蓮」という品種があるということをご存じだろうか。それはいつ、どこで生まれたのかということについては次のようなエピソードがある。

1963 104日、中日友好協会の創立大会が北京の全国政治協商委員会の大講堂で厳かな雰囲気の中で開催された。これを機に東京大学の大賀一郎教授は阪本祐二 という人と共に日中友好を祈願して中日友好協会名誉会長に選ばれた郭沫若氏に大賀蓮の実100粒を贈呈した。中国科学院長を務める郭は同科学院植物研究所 に指示を出し、この100粒の日本蓮の実を中国各地で栽培させた。そして2年後、日本の大賀蓮はついに中国で開花した。武漢植物園では、1965年大賀蓮 を同植物園に元々あった中国古代蓮と交配した。成功して生まれたのが「中日友誼蓮」と呼ばれる新種の蓮である。

 さて、これに先立つ1962813日『人民日報』に「古蓮開新花」という題で郭沫若の詩が発表された。原作に拙訳をつける形でまずここに記しておく。

 

        原作          拙訳

 

一千多年前的古莲籽呀,  千年前の古蓮の実よ、

埋在普兰店的泥土下。   普蘭店の土に埋もれていた。

尽管别的杂草已变成泥炭, 他の雑草が泥炭に変わってしまい、

古莲籽的果皮已经硬化,  古蓮の実の皮がすでに硬化したけれど、

但只要你稍稍砸破它,   その皮を破って池に播けば、

种在水池里依然迸芽开花! 相変わらず芽を出し、花を咲かせるのだ!

 

普蘭店というのは店の名前ではなく、中国大連普蘭店市のことを指す。1952年普蘭店西泡村で千年前の泥炭地層から大量の古代蓮の種子が発掘されて以来すっかり有名になった観光地である。そこから出た化石状態の蓮の実は中国科学院で炭素測定をしてもらったところ、最古は千二百年前のものだということが分かった。

実を言うと、この普蘭店では二〇世紀の初頭から少量の古蓮の実がすでに出土していた。例えば1918年孫文が来日した際、普蘭店で出土した古蓮の実を当時日本財界の有名人だった田中隆氏にプレゼントしたことがある。孫文は九州山口と特別な縁があり、福岡では玄洋社員で炭鉱を経営していた平岡浩太郎氏や安川敬一郎氏などから革命資金の援助を受けただけでなく、山口の長府を拠点として海運業で巨万の富を築いた田中隆という人物とも親交があった。1918年の初夏、日本に亡命した孫文は下関の阿弥陀寺の料亭・大吉楼で友人の田中隆氏に会った際、普蘭店で出土した珍しい蓮の実の化石を4粒贈ったのである。おそらく孫文はその黒光りを放つ蓮の実の化石が再び発芽するなんて思ってもみなかったのであろう。

時は経ち、田中家で大切に保管されていた中国の古蓮の実は四男田中隆盛氏の手に渡った。彼は古代ハスの研究者、東京大学農学部の大賀一郎教授が1951年千葉市の東大厚生農場で縄文時代の地層から蓮の実を発見し、そしてそれを発芽、開花させることに成功したことを知り、1960年に家宝の中国古蓮の発芽育成をハス博士大賀氏に依頼したのである。2年後、その4粒の普蘭店古蓮の実のうち1粒が見事に発芽し、そして開花した。この蓮は孫文から贈られたことに因んでまもなく「孫文蓮」という名が付けられた(花弁の先端に残るほのかなピンクは、あたかも妃が酔うごとき色であることから、酔妃蓮とも呼ばれる)。

この話は中日友好交流の美談として関係者たちの間ではよく知られている。中 国古蓮の実の化石が日本ではじはじめて命を吹き返したことが北京にいる中国科学院院長郭沫若の耳に入り、千年前の化石の中に閉じ込められた命が甦ったこと に感動した郭沫若は「古蓮新しい花を開く」という詩を作ったというわけである。しかし、それは日本で生まれた「孫文蓮」であって、前に紹介した「中日友誼 蓮」のことではない。

武漢植物園で作り出された新品種の「中日友誼蓮」の実は1966年やはり郭沫若を通して10粒日本に贈られてきた。元々大賀蓮は2000年前の蓮の実から栽培されたものだが、武漢植物園の中国古代蓮が河南省の鄭州の「仰韶文化遺跡」から出た5000年前のものか、それとも大連普蘭店から出た千年前のものかは知らぬが、いずれにせよ1000年前の蓮の実からつくった品種であろう。武漢植物園で生まれた「中日友誼蓮」は現在日本各地で株分けされ、主に唐招提寺、名古屋東山植物園、吹田市千里万博公園などに植えられている。ちなみに「孫文蓮」は一つの記念すべき品種として田中隆氏の出身地だった下関の長府庭園へ根を下ろし、毎年観光客の目を楽しませている。

嘗て2000年前の蓮の種子を栽培することに成功し、「世界最古の生命の復活」として世界的に注目された大賀一郎博士の記念石碑(和歌山県美浜町大賀池の側にある)に「蓮は平和の象徴なり」の9文字が刻まれている。郭沫若が「孫文蓮」と「中日友誼蓮」などに深く関わったのもまさに平和のためにほかならない。

わたくしの知っている限り、日本の都道府県の象徴としての花はいろいろあるが、蓮の花が指定されたところはいまだにないようだ。都道府県でなくても、その下にある市の花あるいは町の花とされたところがあるだろうか。

小耳にはさんだちょっとした噂だが、最近長野県の飯山市ではそういう動きがあるらしい。「ハスを咲かせる会」という団体がすでに立ち上がり、中国の古蓮を観光の目玉にして同市を寺と蓮の町にしようと呼びかけている。同市にあるスワロースキーというスキーの専門会社の会長を務める丸山哲三という実業者がいて、大連の近郊に工場を建てた(建設中のスキー場もまもなくオーペンすると聞いている)。彼らの事業が現地雇用を増やしたことでその功績は普蘭店市によって表彰された。20011225日丸山哲三氏は普蘭店市市長から市民栄誉賞を授与された。その時賞状と一緒に贈呈された綺麗な木箱の中に2粒の普蘭店古蓮の実が入っており、箱の中に小さな石片と虫眼鏡が付いていた。石片には何かが刻まれているようだが肉眼では見えない。虫眼鏡を使ってよく見ると、中国語で書かれた「古蓮開新花」という郭沫若の詩の微細彫刻文字だった。関係者の話によると、この2粒の中国古蓮の実は現在栽培中で、名前を「カクマツジャク」にしようという声もあるが、目下検討中だという。    (武 継平)

 

詩作品の対訳コーナー                        詩作品の対訳コーナー

(文責 訳者)

爐中煤                      燃える石炭

−眷念祖國的情緒−                     ――祖国を思う

 

()                              (一)

,我年青的女郎!                  ああ、わが若き娘よ!

我不辜負你的殷勤,                俺はお前の心を裏切らないぞ、

你也不要辜負我的思量。          お前も俺の気持ちを裏切らないでくれ。

我為我心愛的人兒                俺は愛する人のために、

燃到了這般模樣!                  かくもゴウゴウと燃えているのだ!

 

()                   (二)

,我年青的女郎!           ああ、わが若き娘よ!

你該知道了我的前身?         お前は俺の前身を知っているよな?

你該不嫌我K奴魯莽?         真っ黒でがさつな俺を嫌わないよな?

要我這K奴底胸中,          俺のような黒い奴隷の胸の奥にこそ、

纔有火一樣的心腸。          燃えたぎる熱い心がある。

 

()                   (三)

,我年青的女郎!           ああ、わが若き娘よ!

我想我的前身            思えば俺の前身は

原本是有用的棟梁,          実はもともと役に立つ太い梁、

我活埋在地底多年,          長い間地底に生き埋めにされ、

到今朝纔得重見天光。        今ようやくまた日の光に会えた。

 

()                  (四)

,我年青的女郎!           ああ、わが若き娘よ!

我自從重見天光,           再び日の光を見て以来、

我常常思念我的故鄉,         俺はいつも故里を思ってきた。

我為我心愛的人兒          俺は愛する人のため

燃到了這般模樣!            かくもゴウゴウと燃えているのだ!

                                   ―『女神』初版より

                  (岩佐昌ワ 訳)

 

苦味之杯            苦い杯

 

啊啊,苦味之杯喲,          ああ、苦い杯よ

人生是自見此地之光        人生 この地上に生まれてより

不得不盡量傾飲。         とことん飲み尽くさねばならない

呱呱墜地的新生兒的悲聲!      生まれ落ちる赤ん坊の悲しき声!

為甚麼要離開你溫暖的慈母之懷,  なぜにその温かな母親の懐を離れ

來這空漠的、冷酷的世界?      この空漠にして冷酷なる世界に来たれるか

 

啊啊,天光漸漸破曉了,        ああ、空の光はしだいに暁を破る

群星消沉,             群星は消え沈み

美麗的幻景滅了。         美しき幻景は滅びた

晨風在窗外呻吟,          朝風は窓の外に呻吟し

我日日朝朝新嘗着誕生的苦悶。   私は来る朝ごとに誕生の苦悶を新たに味わう

 

啊啊,               ああ、

人為甚麼不得不生?        人はなぜ生まれねばならぬのか

天為甚麼不得不明?               夜はなぜ明けねばならぬのか

苦味之杯喲,                      苦い杯よ

我為甚麼不得不盡量傾飲?          私はなぜ飲み尽くさねばならぬのか

                                     ――『星空』より

 

南風             南風

 

南風自海上吹來,        南風が海より吹き来たり

松林中斜標出幾株煙靄。     松林に点々と幾筋かの煙がたなびいている

三五白帕蒙頭的青衣女人,    頬かむりをしたもんぺ姿の婦人が幾たりか

殷勤勤地在焚掃針骸。      丁寧に松の落ち葉を掃き集め焼いている

 

好幅典雅的畫圖,        この優美な一幅の絵画は

引誘着我的步儿延佇,      私の歩みを誘惑し立ち止まらせる

令我回頭想到人類的幼年,    私は振り返り、人類の幼年時代と

那恬淡無為的太古。       あの恬淡無為な太古の世に思いをはせる

                            ――『星空』より

                   (新谷秀明 訳)

 

                                             

 

 会員研究活動の近況:

 

最近翻訳したものを「郭沫若の『女神』創作期の逸詩文―作品の翻訳と解説」にまとめました。九州大学『言語文化論究』19号に掲載される予定です。 (武)

 

藤田会員の新作論文「郭沫若<天狗>論」は来春発行する『国士舘大学人文学会紀要』に掲載される予定です。(事務局)

 

 

☆ 会員懇親会(関東)報告

  7月21日午後5時半より、東京新宿にある中華レストラン随園で関東会員の懇親会を催しました。参加者は、斎藤孝治氏、斎藤喜代子氏、中村俊也氏、斎藤道彦氏、劉岸偉氏、郭偉氏と藤田梨那であった。

   皆さんは本場の北京料理を味わいながら、研究の近況や意見、感想などを話し合った。特に、市川市須和田にある郭沫若旧居の保存に関する動きや斎藤孝治氏 の郭沫若伝記に関する話は会員たちの興味を引き、時間を忘れて話に花を咲かせた。懇親会は8時過ぎ頃にぎやかな雰囲気の中でお開きとなった。

  このような懇親会を今後も年に一度くらいは開催して行きたいと思う。冬の忘年会シーズンを避けて、夏休み中に行うようにしたい。今後ともご協力の程、よろしくお願いしたい。

 (関東会員世話人 藤田梨那)

☆ お詫び

創刊号を編集する時の不注意で3ページ9行目の行末から次行との間に「書くにあたって資料にしたのは」という14文字が抜けていました。ここで改めて訂正すると同時に筆者岩佐会員に深くお詫びを申し上げます。 (編集委員 武 継平)

                                             

 編集手記:

  この度皆様の玉稿が頂けたお蔭で予定通り研究会報第二号(総No.3)を発行することができました。心から厚く御礼を申し上げます。投稿予定に遅れた幾つかの作品につきましては、誠に申し訳ありませんが、次号に掲載させていただきます。

  さて、日本郭沫若研究会のホームページに会報第三号(総No.4)の原稿募集の案内を新たに載せました。今年の最終号は12月 中に発行できたらと考えております。より多くの会員から奮ってのご投稿をお待ちしております。そして研究に関する情報も頻繁に寄せてくださいますようお願 い申し上げます。                                              (武)        

 

注: 表紙の題字はコンピューター処理をした郭沫若の書

を使っています。