第 三 号(総No.4)
2003年12月30日発行
日本郭沫若研究会事務局
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目 次
< 特別寄稿 >
郭沫若――その一面・・・・・・・・・・・・・丸山 昇
谷崎潤一郎と郭沫若・・・・・・・・・・・・・西原大輔
< 郭沫若と安娜特集 >
大連の郭老太太…郭安娜の故居・・・・・・・・竹中憲一
テレビドラマ「郭沫若と安娜」・・・・・・・・ 藤田梨那
安娜と郭沫若との最後の面会・・・・・王廷芳著/武継平訳
< 言語・文学漫談
>
「私詩」としての初期郭沫若詩歌・・・・・・ ・岩佐昌ワ
中国の文字改革と郭沫若・・・・・・・・・・・宮下尚子
反復される翻訳論争・・・・・・・・・・・・・郭 偉
最新情報・活動報告・編集手記・・・・・・・・武 継平
< 特別寄稿 >
郭沫若――その一面
丸山 昇
<掲載に当って>
日 本の郭沫若研究は戦後大きな盛り上がりをみせるが、皮肉にも一九七〇年代雄渾社『郭沫若選集』が出版されるころから急速人々の関心が衰えていくように思え
る。七八年郭沫若逝去後、本来は彼の生涯と文学的業績をどう評価するか、ということが課題になるべきだったのに、日本ではこの課題を引き受けようとした人 は少なかった。その数少ない一つが丸山昇先生の「郭沫若―その一面」という長文の評伝である。この文章は郭沫若の逝去の報に接して書かれた追悼文と言って
よく、朝日新聞社が当時発行していた『アジアレビュー』七八年三十五号に発表された。
丸
山先生は郭沫若文学の翻訳者として戦後社会に郭沫若を紹介してきた人である。その人の書いたものだけに、本評伝は郭沫若の生涯を辿り、その文学を論じ、情 理ともにそなわって読む者の心に響く。郭沫若死後の郭沫若研究(彼の研究史を書いた武継平『異文化のなかの郭沫若』九大出版会、二〇〇二年、の分類に従え
ば「第四期」以後の)の出発点に位置付けていいものと思う。(岩佐昌ワ)
〔一〕
郭
沫若の死去の報道とともに「人民日報」六月十五日付に掲載された葬儀委員会の名簿を見て、私はある種の感慨に襲われぬわけにはいかなかった。華国鋒首席、 葉剣英、ケ小平以下の四副首席、宋慶齢人代常務委員会副委員長等々、党と国家の最高幹部を始めとし、自然科学も含めた学術・文化界の代表的人物を網羅した
委員会名簿に、成仿吾・周揚・巴金・夏衍・侯外盧等の名を見たからである。
周知のように、郭沫若は文革の 全過程を通じて[健在]であり続けたし、第九、十、十一の三回にわたる党大会でいずれも中央委員に選出された。これが、そう簡単なものではなかったこと
は、三回通じて中央委員会または同候補に選出されたもの九十九人で、十一回大会中央委員と同候補三三三人の三分の一にも達しないことを見てもわかる。
これに対して葬儀委員の中に は、文革期を通じて「健在」だった人物もいるが、一時姿が見られなくなっていて、文革中のある時期から「復活」して来た人物もいるし、その「復活」の時期
にも、さまざまな違いがある。また先にあげた成仿吾以下の人びとのように、文革末期あるいは四人組打倒以後になってようやく名誉を回復された人々もいる。 中でも、周揚・夏衍の場合は、他の人々とも違って、文革による打倒の対象が中心でもあり、彼らの名誉回復が公式に確認されたのは、去年の国慶節前夜祭への
出席によってだった。四人組打倒後も、もっとも後まで名指しの批判が続いていたのも、彼らだけである。今日では二人とも人民政治協商会議全国委員会常務委 員に選出され、周揚は社会科学研究所(所長=胡喬木)顧問、夏衍は中日友好協会副会長に任命されている。また、巴金の場合も、周揚・夏衍とちがって党員で
はなかったから、その受けた攻撃の性格は違っていたが、やはり「四人組」の圧迫下に、苦しい日々を送っていたことは、すでに報ぜられているとおりである。
華国鋒・葉剣英・ケ小平等の 「最高首脳」から、こうした[復活]知識人の代表的人物までを網羅した葬儀委員の顔ぶれは、やや不謹慎な表現を使えば、なかなか組み合わせの妙を示したも
のといえる。もし郭沫若が不幸にしてあと二年早く亡くなっていたら、こういう形で彼が送られることはなかったにちがいない、ということを考えると、時間と いうものの持つ複雑な役割にあらためて感慨を誘われるのだが、それは別として、このような顔ぶれの葬儀委員によって送られる、ということ自体、郭沫若とい
う人がたどって来た、なみなみならぬ思想的、文学的、政治的遍歴に、ある意味できわめてふさわしいものに思われたのである。
ということは、郭沫若が、そう したもろもろの激動の中で、一貫して「正しい」立場を守りぬいた人物であり、これらすべての人に一致して送られるのもそのためである、といった風の、単純
かつ円満な考え方を私がしている、ということではもちろんない。また逆に、こうした葬儀委員の顔ぶれに「呉越同舟」とか「野合」とかいった風の言葉をまず 思い浮かべるといった類のシニシズムで「組み合わせの妙」といったわけでもない。たしかに、周揚・夏衍などのような体験を経た人びとからすれば、郭沫若に
対する見方も、そう透明なものばかりではありえないにちがいない、とは思わざるを得ないが、逆にまた文革10年の 体験が、彼らに「怨念」や被害者意識だけを残したと考えるのは、むしろ文革の持った意味を、その負の部分においても過小に評価することに通ずるのではない
か、と私は思うのである。むしろ、文革10年の激動は、革命家と投機家、「悔い改めない走資派」と「誤った路線に対して不屈に闘った闘士」の見分け難さ
を、より正確にいえば、「現実認識における僅かな錯誤が、個人的・社会的なさまざまの要因と結びつく時、決定的な違いに拡大され、本人の主観的意図の反対 物にさえ転化してしまうという、「政治の魔性」とでもいったものの恐ろしさを、中国の人々にあらためて感じさせたに違いない。そして、それらを通じて、そ
うした試練に耐えうるかどうかを決定するものが、結局は個々の人間の質だということを感じたに違いない、と思うのである。「人間の質」といういい方に、 「本質顕現論」風の曖昧さを残している嫌いがあるとすれば、そういう判断の際に、卑俗な意味での打算がどのくらい排除されているか、そういう現実というも
のの複雑さを、それを認識することの困難さが、どれだけ深く把握されており、それらに対処する視角・方法が、その個人の中にどれほど人格化されているか、 あるいはある集団の場合であれば、その集団の組織原理としてどの程度にビルト・インされているか、にかかる、といい換えてもいい。
そのような眼で見なおすとき、 郭沫若の生涯が、そうした試練に耐えた少数のものの一つであったことは、やはり否定しがたい。彼に対するいくつかの疑問や批判が、それなりに根拠をもって
いることは私にもわかるが、所詮人間とは多くの弱さや欠点を逃れることができず、そうした人間の集団によって動いて行くのが歴史にほかならないと考える私 は、彼への批判や疑問の多くを認めた上で、なおかつ残るものが多くあること、郭沫若がそれだけのものを持った人物だったことも、見失いたくない、と思うの
である。
郭
沫若の死後、「人民日報」に最初に載った個人署名の追悼文は、周揚の「悲痛な思い」だった(六月十八日)。その冒頭に、「長期の試練を経た革命家」という 言葉が使われているのに、私は眼を惹かれた。私はこれを死者への追悼の常套句というより、むしろ、あのような形で文革を通り抜けてきた周揚から見て、郭沫
若の文革の通り抜け方もやはり大きな「試練を経た」ものと見えたのだ、と考えたい。
逆に、郭沫若が死の十日余り前 「長いこと見なかったほど元気な」小康状態に戻った時、会いたいといって周揚を呼んだことが、同じく周揚の文章に書かれている。郭沫若が、「死の直前に指
名して呼んだのが周揚だった。という事実に、郭沫若の一つの思いがこめられていたのかも知れない。こういう両者の関係およびそのそれぞれにとってこの最近 十年間の意味等がすっかり明らかになるまでには、当事者自身にとってもなおかなりの時間が必要だろうが、その死をめぐっても、こうしたことを考えさせると
ころに、一生を常に激動の尖端で送った郭沫若らしさがある、といっても、死者に対して礼を失したことにはならないであろう。
〔二〕
郭沫若は一八九二年(光緒十八 年、明治二十五年)、四川省に生まれた。「三国志」の蜀の国、李白が青年時代を過ごし、杜甫が草堂を営んだところ、戦中派には戦時中の国民政府の所在地重
慶の名によって知られるのが四川省である。これを東西に貫流する長江(揚子江)を重慶から約二〇〇キロさかのぼると、北から流れ込む支流の岷江がある。こ の岷江を約一〇〇キロ上がったところで、今度はこれに大渡河が合流する。これが古名沫水で、沫若の名は、この河と、さらにここから約五〇キロ離れた彼の故
郷沙湾までさかのぼる途中で合流するもう一つの支流雅河の古名若水からとられている。彼の家は、彼がもの心ついた時には中程度の地主だった。曽祖父の代に 産をなしたものの、祖父がやくざで渡世で散財してしまい、それを父がまた立てなおした、という家だった。彼の家の人びとが学問をし始めたのは、祖父の代か
らのことだった。
「私は小さいころ家で年貢を集め ていたのを覚えている。年貢は小作人たちが自分で背負って来るのだが、その時には家で白米の飯を出した。このため百姓たちは年貢納めの時には、老人も子供
も家じゅうそろってやって来るのだった。それぞれいくらか背負って来れば、みんなで白米の飯が食べられたのである」(「私の幼少年時代・郭沫若自伝T」)
彼はこういう光景を見て育った。当時の農民の常食はトウモロコシだった、と彼はつけ加えている。
私
は郭沫若の唱ったものでは、学問的業績は別として、「自伝」をもっとも面白い、と思っている。こういう家に生まれた少年時代の彼は、アヘンの取引もしてい た父親の怪談、苗族叛乱の時に幼かった母親が乳母に背負われて逃げた話などを聞かされ、当時一帯を暴れ回っていた土匪の家が役人に焼かれるのを見るなど、
旧中国末期の空気を背景にしながら育つ。
「自
伝」の書きぶりは、ある意味で饒舌である。たとえば先の農民の常食がトウモロコシだということをいったあと、「いいかえれば、農民の常食は地主が飼ってい る豚のえさと同じなのである」とつけ加え、また自分が出生時にさか子だったことを述べて、「これはおそらく私の一生が叛逆者のそれになる第一歩であつたろ
う」というようなところにそれは現れている。詩人・批評家の何其芳が、郭沫若の詩を表現上の節度を欠くと評したのも、郭沫若のこうした傾向に対してのもの だったろうが、「自伝」の場合、それは時に微苦笑を誘われる程度で、あまり気にならない。むしろ主人公の郭沫若が反逆児・風雲児の面目十分に活躍する内容
にふさわしい、奔放な調子を出す効果を生んでいるように思う。彼が書いたものの中で「自伝」が一番おもしろい、というのは、こうして描かれた彼自身の像の 法が、彼が作品の中で作り出した人物よりも、よほど劇的な魅力を持っている、ということなのである。
「自
伝」は、それぞれに興味を惹く内容を持つが、創造社の運動を語り、その群像を描いた「創造十年」正続編、日本亡命中の生活を描いて、特に日本人には興味の ある「海涛集」、二度の国共合作をその焦点にいて描いた「北伐の途上で」と「抗日戦回想録」などに対して、郭沫若自身が裸で動きまわるおもしろさを持つの
が、「私の幼少年時代」であろう。
前述のような空気の中で育った少年郭沫若は、05 年科挙の廃止のあと、新しく創られた嘉定の小学校に入学する。小学校といっても、その卒業生は科挙時代の「秀才」に合格したのと同様に目された、というよ
うな時代だから、その内部はむしろ雑然・混沌としている。三〇歳前後の学生もいて、昔の学校につきものの同性愛騒ぎもある。郭沫若自身も危うくその対象に されかけたり、また彼自身が他の美少年と多少その傾向のある友情に溺れたり、教師と衝突したり、酒びたりになったり、あげくのはてにストライキの主導者に
なって退学処分を受ける。ところがその彼がすこし離れたところの別の小学校を訪ねると大歓迎を受け、そこの先生たちも彼を支持して処分反対の申し入れをす ることになり、それがいれられて復学する、といった具合である。小学校の卒業式の後、教室にもどって窓ガラスを力まかせに割り、「見ろ、おれの血はまだ赤
いんだ」というのが、三篇に分かれている「私の幼少年時代」第二篇の終わりである。
中学に入った彼は、ここでまた教師と衝突、退学になりかけて一度は助かるが、最後にはやはり退学になってしまう。中学時代の彼をいろどるのは、虎というあ だ名の教師との衝突、やはり同性愛めいたある友人との交友、兄嫁に対するほのかな恋情、そして梁啓超・章太炎等当時の新思想や、林紓による西洋文学との出
会い、である。
嘉
定の中学を退学になった彼は、成都に出てそこの中学に入る。彼がここにいた時興ったのが辛亥革命である。「辛亥革命前後」は「私の幼少年時代」に続いて、 成都時代の彼の反逆児ぶりを伝えるほか、四川の辛亥革命の記録としても興味がある。(つづく)
谷崎潤一郎と郭沫若
西原大輔
今年二〇〇三年七月、博士論文をまとめたものを、中央公論新社より『谷崎潤一郎とオリエンタリズム』(中公叢書)と題して出版しました。この本では、谷崎
のいわゆる「支那趣味」の作品を論じるとともに、一九一八年と一九二六年に行われた二度の中国旅行、さらには中国人文学者との交流について分析していま す。その中の、第六章「第二回中国旅行」及び第七章「中国人文学者との交流」で、谷崎と郭沫若とのかかわりについて触れました。詳しい内容については、博
士論文の審査委員のお一人である劉岸偉さんが、『会報』に書かれる予定と聞いておりますので、そちらをお読みいただくのが良いかと存じます。
谷崎の「上海交遊記」に記録されている一品香ホテルでの、谷崎と郭沫若・田漢の対話は、当時の日本と中国の立場の違いを鮮明に映し出していて興味深いもの
があります。「支那の百姓は今でも呑気に、「帝力我に於いて何か有らん哉」で、政治や外交に頓着なく、安い物を喰い安い物を着て満足しながら、悠々と暮ら している」という中国観を示した谷崎に対し、中国側の二人は激しい違和感を感じています。郭沫若と田漢は、外国資本に搾取される中国社会の現状を、由々し
き事態だと強調し、激しい危機感を訴えます。谷崎の中国に対する見方は、あまりにもオリエンタリズムの偏見に満ちており、中国の知識人側の主張こそ、正し い情勢認識であると言えましょう。
しかしながら、改革開放が進んで世界中の企業が進出し、驚異的に経済発展を続ける今日の中国を知っている現時点から、「上海交遊記」を読み返してみるなら
ば、郭沫若・田漢の次のような発言には、やや飛躍があるようにも感じます。「産業組織は改革され、外国の資本が流入して来て、うまい汁はみんな彼等に吸わ れてしまう」、「われわれ支那の国民は少しも利益に与らないばかりか、物価が日増しに高くなるので、だんだん生活難に追われる」、「租界の贅沢な風習が田
舎に及んで、淳朴な地方の人心を蠧毒(とどく)して行く」。このような状況は、まさに現在の中国そのものではないでしょうか。
ところが今日、改革開放政策は善であるとされており、中国共産党は外資導入に積極的です。本当に郭沫若や田漢の主張していたことは正しかったのか、疑問が
わいて来ないわけにはいきません。ただ、一九二六年当時と現在で大きくことなっているのは、政治の主権が中国人にあるかないかです。二人が谷崎に語ったよ うに、中国は半植民地であり、「矢張国家を背景にしなければジリジリ白人に圧迫される」ことになってしまったのでしょう。
こう考えてくると、一九四九年の建国から文化大革命に至る、極端な資本主義国排斥の政治思想は、むしろ異常だったのであり、中国が独立自立を獲得しようと
するあまりに、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になっていたと考えざるを得ません。経済発展に尽くした金持ちや資産家が悪人扱いされ、貧乏人ほど偉いという かつての「共産主義」の価値観が、いかに多くの中国人に不幸をもたらして来たことか、改めて考えさせられます。またそのような中で、日本やアメリカは、必
要以上に中国から「悪」として扱われていたように思います。
郭沫若・田漢は、「われわれの国では外国人が勝手にやって来て、われわれの利益も習慣も無視して、彼等自ら此の国の地面に都会を作り、工場を建てるんで
す」と怒っています。しかし今や、外国資本が中国国内でなるべく自由な企業活動ができるような政策を採用することによって、中国は経済発展を遂げていま す。これは、何という皮肉でしょうか。
谷崎潤一郎の「上海交遊記」に記録された郭沫若・田漢の議論は、そのような矛盾をも予感させるものがあり、この意味でも、大変興味深く感じられます。
<
郭沫若と安娜特集 >
大連の郭老太太・・・郭安娜の故居
竹中憲一
中国の国務院副総理、中国科学院院長郭沫若の名前は日本人にもよく知られている。
郭沫若は一八九二年(明治二十五年)四川省の出身で、一九一四年官費留学生として九大医学部の前身である福岡医科大学に学んだ。しかし、耳の疾患から医学
の道をあきらめ文学を志し、文学団体創造社を起こした。河上肇の『社会組織と社会革命』を翻訳した頃からプロレタリア文学を志向し始めたが、一九二七年 (昭和二)蒋介石の反共クーデタによって、郭沫若は日本に亡命した。
郭沫若は千葉の市川に住み、日本人と結婚し、五人の子供をもうけた。妻の名前は佐藤安娜、仙北平野で高原で馬を乗り回す文学少女であった。十万ドルの懸賞
のかけられた郭沫若には収入の道はなかった。安娜は貧困の中、夫と五人の子供の口に必死で食物を運んだ。日中戦争が始まり、郭沫若は帰国を決意する。一九 三七年(昭和十二)七月夜、郭沫若は帰宅した時は、安娜は針仕事をしていた。その側で長男の和夫と次男の博は本を読んでいた。他の子供は寝息をたててい
た。翌日早朝、彼は床の中で本を読んでいる安娜にも秘密にして、五人の子供を残して、中国に帰国する。安娜は夫が抗日分子ということで警察、特高の監視下 で辛い日々を過ごしたが、子供たちを立派に育てあげた。
日本の戦敗、郭沫若は中国文学芸術連合会の要職にあった。安娜は夫郭沫若の住む香港に行くことにした。佐世保から台湾に引き揚げる中国人にまぎれて台湾に
行き、香港に着いた安娜が目にしたものは、若い中国人女性于立群と数人の子供をつれた郭沫若であった。台湾にもどった安娜は苦悩した。子供たちは中国人で あるからには、中国で育ってほしい。五人の子供を次々と中国に送り出した。台湾に一人のこった安娜はすでに六十歳を過ぎていた。その後、子供たちの後を追
うように北京にいった。長男の和夫が大連の化学研究所に勤めることになり、大連に住むことになる。市長は安娜に一番気に入った住宅を提供しましょうという 言葉をさえぎるように、和夫の職場に近い高爾基路(ゴールキー通り)のごく普通の三部屋の家を選んだ。三部屋の小さな住まいの贅沢は一部屋だけ畳を敷いて
もらったことと、和夫は作った南側のガラス張りの部屋であった。
国務院副総理の前夫人安娜のことは、毛沢東も周恩来も知っていた。毛沢東は会議の席上、郭沫若に安娜に送金しているかと尋ねたそうである。党中央の指示で
大連大学学長の李一氓が世話をしていた。大連市長をはじめ共産党は安娜に最大の援助をした。しかし、安娜は悉く、拒否しつづけていた。生活に困った中国人 を見ると、名を伏せて援助した。着物に下駄はきの安娜が天津街で買い物をする姿をときどき見かけられた。通りの人はよく「郭老太太来啦!」(郭奥さんよう
こそ)と声をかけた。そんな時、市政府が準備したタクシーには乗らず、市電かバスで出かけた。
当時、新聞には郭沫若の記事が大きく載った。安娜はあまり目を通さなかった。郭沫若も大連に避暑にくることがあった。そんな時、孫たちが遊びにいった。しかし、安娜は会うことはなかった。安娜を識る中国の友人も郭沫若に気兼ねてして会おうとしなかった。
安娜はさびしい気持ちを次のように述べている。
孤独 古壁に黙し 頭たれ、忘れされ様とする日本の侵した罪を 十字架として自らの肩に背負い、過ぎ去りし博多の海鳴りも遠く、新しき歴史の彼方をみつめ、いのち努めし一人のおうな
一九七八年六月、郭沫若が亡くなった。安娜は追悼式の報道にも目をとめなかった。
安娜は一九九四年八月、上海で亡くなった。百歳の大往生であった。その後を追うように長男の和夫が一ヵ月後に亡くなった。
安娜の家の前に住んでいた大連外国語大学の王先生によると、安娜はよくフランス桐がおおいかぶさるような緑の高爾基路を散歩され、日本語のできる王先生とはよく世間話をしたという。王先生の安娜に対する印象は「真っすぐな生き方」を感じたということである。
(大連市高爾基路にある郭安娜の故居)
テレビドラマ「郭沫若と安娜」
藤田梨那
天津テレビ局製作の十八時間連 続ドラマ「郭沫若と安娜」はこの度中国国内で衛星放送された。このドラマの制作はかなり以前から着手されたものである。一九九六年秋頃、天津テレビ局専属 の脚本家高春麗女史から書きあがったばかりの脚本が送られてきた。読んで意見を言ってください、という依頼であった。脚本は全部で十二集になっている。高 さんは桑逢康氏の『郭沫若と彼の三人の夫人』という著作に感動して、この脚本を創作したと言った。私はこの二つの作品を両方読んでみた。特に高さんの脚本 に感銘と感動を覚えた。感動のあまり涙を抑えがたく、いくたびも脚本を置いた程であった。一九九七年八月に撮影に入る前に、高さんは撮影班の主だったメン バーと共に来日し、東京後楽園にある日中友好会館で初めて面会した。その日のうちに高さん一行を市川市須和田にある郭沫若故居を案内した。須和田公園の郭 沫若の「別須和田」の石碑も見た。
それから数年たって、ドラマが 完成した。いまから四年ほど前のことである。公開前に天津からドラマを収録したビデオテープが届き、十八時間分全部拝見した。主演女優は蒋文麗、主演男優 は程前である。二人ともなかなか適任な役柄で、見事に安娜と郭沫若を演じた。日本風の小道具や衣装、髪型などの面でぎこちないところが目立つが、郭沫若と 安娜の恋愛や生活、離別および内面の表現においては、かなり厳密、かつリアルに力演した感想を受けた。
最初の脚本と出来上がったド ラマとの間にかなり出入する部分があるが、私がもっとも注目したのは、ドラマに一本の線が通っていることである。それは恐らく脚本家の「喀爾美蘿姑娘」 (キャラメル娘)に対する解釈にかかわっているだろうと思う。「キャラメル娘」は一九二四年に創作されている。この時期は郭沫若が創作の面と家庭生活の面 で動乱する時期である。作品では作者の分身とも言える主人公が一人称で登場、近所のキャラメル売りの娘に恋して、妄想的な恋情と妻への罪悪感にさいなまれ て、一度入水自殺を図って、最後に毒薬とピストルを持ってキャラメル売りの娘を探しに東京へ立つところで終わっている。その妄想的な恋情においては田山花 袋の「布団」を連想させる。死への下降願望においては郁達夫の「沈倫」に似る。きわめて自虐的な私小説風の作品である。入水自殺の部分の描写は見事であ る。
「太 陽は海に沈んで行き、水平線の上、高さ五、六丈のあたりの雲から半輪形の光が放射してきて――ああ、あれは彼女の睫毛だ!彼女の睫毛だ!バラ色の霞は私に
彼女の恥らいを連想させた、私は我慢できないほど息苦しくなった。蒼い海の白い波は私を手招いた。私はその冷たい腕を取って、あの、人を陶酔させる処女紅 を追い求めていく、あの睫毛美を追い求めていく。・・・・・追い求める物象は永遠にその距離を変えない遠方にあり、力が尽きて、鉛の錘が私の両足を下へ
引っ張っていく、世界は目の前から消えた。塩水はしきりに口に入って来る、最後の幕が開いた。一瞬の間に天地開闢以前に戻った。」
か なり長い引用になったが、これは「キャラメル娘」の解釈に非常に重要な部分ではないかと思う。問題の箇所は「力が尽きて」である。原文は「力尽了」となっ ている。これを単純に解釈すると、主人公は海に入って、幻影を追い求めても追いつかない、だんだん沈んでいく、とうとう追いかける力が尽きてしまう、とい うことである。しかしドラマの方ではこの部分を二回にわたって郭沫若と安娜の間で話題に上らせる。一回目は郭沫若がキャラメル娘との恋を経験し、それを作 品化する段階でいろいろ悩んでいたのを見て、安娜は不意に「キャラメル娘」のこの部分を口ずさんで、しかも「力尽了」を「力未全尽」と直している。郭沫若 はそれに大変感動する場面である。この二つの表現にはおのずと郭沫若と安娜のそれぞれ違った人生観を表している。安娜は郭沫若を慰め、励ますために「力未 全尽」と言ったはずである。安娜は郭沫若にこのように作品の「力尽了」を書き直すよう勧めた。しかし感動して、安娜を抱きしめた郭沫若は結局この部分を直 さなかった。そして2回目にかれらの話題に上ったのは、ドラマの最終回、つまり香港で再会した二人は結局決別しなければならない時である。安娜はもう一度 「キャラメル娘」のこの部分を口ずさむ。今度は「力未全尽」ではなく、「力尽了」である。安娜は郭沫若がなぜこの表現を直さなかったか、その理由をよく分 かっていた。彼女はこの部分を口ずさむことによって自分を捨てた夫を責めた。責めたと同時に別かれる決意を伝えた。一種の諦観が痛いほど観客に伝わってく る。この場面に続くラストシーンは安娜が神に祈りつつ、神の光、郭沫若の言葉で言うと「潔光」と思わせる夕日に包まれる。
こ のドラマの脚本家と製作者が「キャラメル娘」をどう解釈するか私には分からないが、ドラマの主題はこの小説によって貫かれ、表現されていることを強く感じ る。脚本「郭沫若と安娜」に「文学脚本」とジャンルを明記している理由もここにあるのではないか。このドラマをもって実際の伝記事実に悖るとするのは当を 得ていないといえよう。
安娜と郭沫若との最後の面会(訳注1)
王廷芳 著
武継平 訳
一九七二年の秋、中日両国は国 交を回復した。安娜さんは誰よりも喜んでいた。一年余り様子をみたり、準備や各方面と連絡したりした後、彼女は七四年の春、みずから周恩来総理に手紙を書 いた。娘婿の林愛信に伴われて上海から中日間の貿易船で日本へ里帰りしたいので許可してくれるようにとの希望をしたためたものだった。周恩来総理は彼女の 願いを叶えてあげたのみならず次のような指示を下したのである。第一、国が安娜さんの帰省旅費を全額負担する。第二、安娜さんのような日本人の方は中国に はかなりいる。しかし中国から直接日本に里帰りするのは彼女が始めてである。日本の態度と反応を十分に見守ること。総理の手書きの指示書を私は関係部署で 見たことがある。
安娜さんが乗った貨物船は直接 東京に着いた。そのとき、彼女は八十歳だった。東京に着いた頃ちょうど船員ストに出くわした。事情を知った港湾事務当局は彼女たちを出迎えるためにわざわ ざ一艘の小型汽船を出してくれた。その後帰国した林愛信さんから聞いたことだが、安娜さんが日本にいる間、日本政府は陰で彼女を保護していたらしい。
林愛信さんはもともとは台湾人だった(訳注2)。父親は在日中国人で、母親は日本人である。二人は日本で中華料理店を経営していた。林さん自身は日本生まれで五十年代初頭に大学を出ていた。学んだのは窯業だった。大学卒業後間もなく中国に帰国し、そして天津珪酸塩研究所に配属された(訳注3)。五十年代半ば頃安娜さんと郭沫若との一人娘郭淑瑀さんと結婚し、女の子と男の子を一人ずつもうけた。
里 帰りしている間、安娜さんはかつて二十数年住んでいた市川の家を売ろうとした。そのことに対して我が国の在日大使館は世間に悪い影響を与えかねないと考え たので賛成しなかった。そして電報で国内の上級部門に指示を仰いだ。そのことで私は外交部領事司に呼びだされ、どう返事したらよいかと意見を求められた。 私はさっそく郭先生に報告し、指示を伺った。郭先生は、この件に関して私は口出しがしにくい。大使館のひとたちに安娜と相談して処理してもらえばよい、と 言った。それで私が外交部領事司と相談した結果、中国に好意を持つ日本人を見つけ、その家を購入してもらうよう日本中国大使館に提案した。そうすることで 対外的には悪い影響を与えなく済むだろうと考えたからだ。
結 局、その家は安娜さんが自分で処分した。土地は安娜さんのものではなく、彼女のすでに亡くなった昔の友人の所有物だったので、その友人の息子が相続した。 安娜さんは友人の息子をよく知っているし、何度も話し合った結果、次のような処分意見に合意した。法律上安娜さんは家を取り壊すような手続きをとる(訳注4)。しかも不動産の権利を放棄する。しかし実際はその家を地主に残してあげる。地主は謝礼として安娜さんに金をあげる。問題が円満に解決された。大使館も満足した。
この時の里帰りで安娜さんは寒くなるまでしばらくの間は日本に留まっていた。帰りは香港経由の飛行機だったが、彼女はまず上海に戻った。なぜなら冬は上海に住むというのが彼女の長年の習慣だから。
七五年の夏、安娜さんは娘の郭
淑瑀さんに伴われて上海から北京にやってきた。私は郭先生の指示を受けて接待に当り、彼女たちを前門飯店に宿泊させた。そのとき郭先生は北京病院に入院し ていた。安娜さんは到着翌日、見舞いに病院に行きたいと私に言った。私はすぐ郭先生に報告した。病院で会うならいいということで、私は前門飯店に行って安
娜さん親娘を病院まで案内した。
安
娜さんと郭淑瑀さんが病室に入ったとき、ソファーに座っている郭先生は彼女たちの到来を迎えようと、つらそうに立とうとした。安娜さんは慌ててそれを押し とどめ、郭先生をソファーに座らせた。郭先生の手を握った安娜さんは「あなた、変わりましたね。やさしくなりました。あなたは天国にいけますよ」と冗談半
分に言った。落ち着いてから二人は日本語で話し始めた。郭淑瑀さんは側にいる私に小さい声で通訳してくれた。
安
娜さんは郭先生の病状を聞いたあと、里帰りのことを話し始めた。市川の自宅を処分したことも親戚や友人のことにも触れた。郭先生は時々質問したりして和気 藹々の雰囲気だった。三十分後安娜さんは立ち上がって「ごめんなさいね、あなた。もう疲れたでしょう」と言って帰ろうとした。郭先生がしっかりしない足取
りで見送ろうとするのを見て安娜さんは止めたが、郭先生は言うことを聞かず、彼女を病棟の玄関まで見送って、今一度握手してからさよならを告げたのであ る。
彼 女たちをホテルまで送る途中、安娜さんは突然市川の家の写真を郭先生に見せるのを忘れたと言い出した。それで私たちは再び病院に戻った。安娜さんは「もう 年だわ。見せようと思って持ってきた市川の家の写真のことをすっかり忘れてしまいました。本当にごめんなさいね」と郭先生に言って、写真を一枚一枚郭先生 に見せながら説明した。どの木が高くなったとか、どの木が枯れてまた新しく植えたとか、庭のどことどこを造りなおしたとか。郭先生は興味津々に聞きながら 写真を見入っていた。ときには安娜さんが話す前に郭先生が写真の場所を言い当てることもあった。安娜さんは「そうそうそうそう」の連発。二人とも忘れがた い在りし日に戻ったようだった。十五分はあっという間だった。安娜さんはもう一度立ち上がって郭先生に深くお辞儀して、長い時間お邪魔してすみませんと改 めてお詫びをした。郭先生はもう一度彼女を玄関まで送り、彼女が車に乗りこむのを見てお互いに手を振った。これが安娜さんと郭先生との最後の面会、そして 最後の握手となった。
郭
淑瑀さんが教えてくれたことだが、安娜さんが北京に行った目的は郭先生との久しぶりの再会と市川の自宅を処分したことを郭先生に報告するためだった。家を 処分する前に郭先生の意見を聞かなかったのは、自分には自分の家を処分する権利があると考えたからだ。しかし、事後は郭先生に一々はっきりと説明しなけれ
ばならないと思った。郭先生は家の処分の仕方に関しては何も言わなかった。彼女の家を売却したお金の使い方にも私は大変感心している。そのお金は彼女の旅 費としていくらか使われた以外(実際彼女は中国政府が里帰りの費用を持つという周恩来総理の指示に従わなかった)、長年彼女の生活の面倒を見てきた上海市
統戦部(統一戦線部)と大連市統戦部に全額寄付された。上海市統戦部ではこのお金をずっと彼女のために保管していた。彼女が亡くなった後彼女の子供たちに 返したが、大連市統戦部に寄付されたお金は行方不明となった。文革中造反派が使ったという噂もあるが、それを知った安娜さんはかんかんだったといわれてい
る(訳注5)。
実 は安娜さんがその時北京に来たのはもう一つの目的があった。それが成仿吾先生とその家族に会うためだった。成仿吾という人物に対して安娜さんは特別な感情 を抱いている。彼女は時々子供たちや友人たちにこういう。「自分たちがもっとも困難な時、おじさん(安娜さんと子供たちは成仿吾先生のことを「おじさん」 と呼んでいる)が助けてくれた。郭家にとっておじさんは一番の恩人で、最も仲がよくてしかも信頼できる友人だ。どんな問題でもどんな悩みでも隠さずにおじ さんに言えるから」と。
例えば郭先生に対する不満や愚痴など全部おじさんに言うし、またおじさんの言うことなら、安娜さんは何でも聞く。私の推測に過ぎないが、五一年に郭先生に会うために北京にやってきた彼女はきっとおじさんの説得を聞いて帰ったに違いない(訳注6)。 今回病気の郭先生を見舞ったあと、彼女はすぐ成仿吾先生のところを訪ねた。彼女はおじさんの家に小さな白黒テレビしかないのを見て今度日本に里帰りする 時、必ずカラーテレビを買ってあげると約束した。安娜さんは本当に友情を重んじる方で、約束したことは必ず実行する。その後再び里帰りした際本当に成仿吾 先生のために一台のカラーテレビを持ち帰った。そしてわざわざ志鴻さんに頼んでそれを上海から北京にある成仿吾先生の自宅まで運んでもらった。
つ い最近のことだったが、私は成仿吾先生のご夫人の張琳さんを訪ねた。成仿吾先生は亡くなられて何年も経つし、家中のカラーテレビも大型画面のものに変った が、張琳さんは相変わらず安娜さんがプレゼントしてくれたカラーテレビを応接間に置いている。安娜さんを記念するためである。このことだけでも彼らの間の 感情は世間一般のものと格段に違うのがわかる。
安 娜さんは七六年十月の中旬、もう一度北京に来たことがある。国慶節が過ぎたばかりの頃だった。ある日郭志鴻さんは突然電話してきて「お母さんがもうすぐ北 京に来る。宿泊の手配をお願いします」という。私は別に何の問題もないと思うが郭先生の指示がなければならないと彼に言った。そして彼に郭先生に手紙を書 くように勧めた。それで郭志鴻さんは私が教えたようにお父さん宛ての手紙を書いた。その手紙の文面には郭先生と于立群の意見が書いてあり、私にそれを実行 せよという指示だった。
私は安娜さんを北京民族飯店に落ち着かせた。郭
淑瑀さんもわざわざ天津からやって来てくれた。私は安娜さんからいくらか手土産を頂いた。彼女は郭先生の健康状態に気を使い、最近どうですかと聞いた。私 は郭先生の体調は最近わりと安定しているが、体が日一日弱っていくと答えた。彼女は郭先生に会いたいと言わなかったので二人が面会することはなかった。安
娜さんが北京に来たのはある日本の友人を迎えるためであった。関係部門に連絡してお客さんとの面会を手配しましょうかと聞いたが、彼女は「けっこうです。 日本からきたお客さんは北京飯店に泊まっているので、自分はホテルのロビーで友人を迎え、お土産を渡せば用がすみます」と断わった。その後私はそのことに
ついて聞かなかった。彼女も北京で四、五日滞在してから帰った。北京を離れる前に「おじさん」一家を訪ねた。
安娜さんと郭先生との四回の面会の内、最初の二回についてはお二人のお子さんや郭先生の周りで働く方々の口述を元にして書いた。私自身の経験ではないので細部に食い違いがあることは免れない。後の二回は私が経験したことである。
小稿は九六年の春に完稿した。その後一部の友人の意見を参考に書き直した。ここで彼らに感謝の意を表す。
二〇〇二年初春
訳注
1:
本稿は著者王廷芳(一九三一〜)が中国郭沫若研究会蔡震副会長を通して訳者に送ってきた回想記「郭沫若和安娜在抗日戦争勝利後的四次見面」の最終節であ る。翻訳及び発表は著者の同意を得た。著者は一九五二年〜一九七八年郭沫若の秘書をしていた。一九八八年から中国社会科学院考古研究所副所長を務め、一九
九〇年定年退職した。「郭沫若与満城漢墓的発掘」「她酷愛中国--悼念百歳老人郭安娜」「記郭沫若与傅抱石的真摯友誼」等の回想記を発表したことがある。
2:しかし訳者がこの度確認した結果によれば、林愛信氏は自分は日本生まれ日本育ちの中国人だ。祖籍が中国の寧波で、台湾とは無関係であるという。
3:当時の配属先に関して、原文では「天津のガラス工場」となっている。しかし林氏本人によれば、それが天津市珪酸塩研究所だったということで訳出時に本人説に従った。
4:訳者は市川市教育委員会の関係資料を調べたところ、次のようなこと分かった。終戦後中国に渡った後初めて里帰りした安娜さんは市川市須和田にある家を地主(現
所有者の父親)に売却した。以降、民間人に賃貸されていたが、一九七九年三月から、旧宅の保存を目的として市が借り受けることになった。その間、郭志鴻さ んが仮住まいしたこともあったが、老朽化が進んだことなどから、一九九九年三月をもって借り受けを解約した。その後地主所有の空家となった。今年になって
市川市はこの旧宅を近くの公共用地に移築復元する方針を決め、旧宅の所有者との間で移築についてすでに合意をした。
以上の事実関係から見ると、文中の「法律上安娜さんは家を取り壊すような手続きをとる」というのは事実に符合しない。ちなみに、法律上必要な手続が不動産登記法にある「建物所有権の移転(譲渡)」だったと考えられる。
5:
安娜さんが市川の自宅を処分して得たお金を上海大連両市の統一戦線部に寄付したのは七四年以後のことである。原文にある「造反派」という表現には問題があ るように思われる。「解放軍宣伝隊」と「労働者宣伝隊」が実権を握る年代だから、「文革主流派」のことではないかと考える。
6:王廷芳「郭沫若和安娜在抗日戦争勝利後的四次見面」には、 安娜さんは五一年に一度郭沫若の面会謝絶を無視して北京西城大院胡同五号の郭沫若宅に押し込んだことがある。留守だった郭沫若は帰宅した際びっくりして着替えてくると言って裏門から脱出して関係部門に助けを求めたという不愉快な面会に関する記述がある。
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言語・文学漫談 >
「私詩」としての初期郭沫若詩歌
岩佐昌ワ
「私小説」を仮に作者自身をモ デルに日常茶飯事を描いた身辺雑記小説と規定するとすれば、同じく身辺に起伏する日常の雑事茶飯事をうたった「私詩」というジャンルを立ててもいいのでは
なかろうか。私がここで念頭においているのは、さしあたり郭沫若が一九二〇年から二十二年頃に書いた一連の詩で家族(特に息子)の姿が歌いこまれているよ うな詩である。もちろん「私小説」が単に自己自身の日常を公開するというだけのものではなく、自己の日常体験を客観化し、芸術的な造型にまで高めるという
創作意識をもったものという意味まで含んで、「私詩」ということばを使うわけである。小文は「私詩」という視点から、郭沫若の初期詩を再読してみようとす るものである。
「私詩」的な作品として、ここ で取上げたいのは、「抱和児浴博多湾中」(《学灯》一九一九年九月十一日に発表。以下括弧内は初出の刊行物)「光海」(《学灯》一九二〇年三月十九日)、
「晴朝」(《学灯》一九二〇年九月七日)、「新月」(《創造季刊》一九二二年三月十五日)、「夕陽時分」「泪浪」(ともに《創造季刊》一九二二年五月一 日)、「偶成」(《学灯》一九二二年八月十八日)、「帰来」(《創造季刊》一九二二年十一月二十五日)、「暗夜」(《創造季刊》一九二二年二月一日)など
である。これに、子供が歌いこまれているわけではないが、作者の日常や身辺に触発された感慨を述べたということで、「晩歩」(《学灯》一九一九年十月二十 三日)、「夜歩十里松原」(《学灯》一九一九年十二月二十日)、「心灯」(《学灯》一九二〇年二月二日)、「晨興」(?)、などを加えてもいいかもしれな
いが、今回はとりあげない。
「抱和児浴博多湾中」はその題 名の通り息子の和夫(「和児」)を抱いて博多湾で海水浴をしたことを、「光海」は自宅近くの箱崎海岸を和夫(「阿和」)を連れて散歩する自身の姿を描写し
たものである。「晴朝」も息子を連れて公園に遊んだことを描く。ただ、これは親子の交歓をテーマとしたのではなく、公園の風景を描くことを主眼としている のだが。「新月」は二十一年十月に作られた。夕暮れの薄明かりの軒先で「小小的嬰児」が手をたたき、空を指さしてはしゃぐほほえましい光景を描いた短詩で
ある。この「嬰児」は前年の春に生まれた二番目の息子博生であろう。丁度一歳半ほど、可愛いさかりである。
以上の数首が郭沫若の日常における穏やかで自足した一面を描いたものとすれば、二十二年以後の詩群は日常に伏在する危機や悲しみを主題とする。
「夕陽時分」は二十一年十月四 日の作である。やはり夕暮れ、夕陽に映える波の美しさに嘆声をあげる息子の姿を描く。だがこの詩の主題はそこにはない。作者は(たぶん松原海岸の砂浜に引
き上げられている)漁船の中でワイルドの詩に読みふけっている。息子の嘆声は彼の読書を中断させ、彼を悲哀に引きずり込むのである。「息子はこうした風景を前にひどくはしゃいでいるが/私の胸には慰めようもない悲しみがじわじわと広がる/ああ、哀れな男、足は切られ、翼は折られ/ただぼろ船の中で躓いているしかないのだ」。
こ
の年の四月郭沫若は成仿吾とともに帰国、上海で文学雑誌出版の準備をおこない、泰東書局の同意をとりつける。だがそれもつかの間、一緒に帰国した成仿吾が 就職して長沙に去ってしまう。かくして雑誌の計画は挫折し、郭沫若は七月日本に帰る。悲しみや「哀れな男」という自嘲の背後にはそうした事情が横たわって
いる。
「泪浪」は「夕陽時分」の翌日 に書かれた。七月帰宅した郭沫若は家族がどこにいるか知らなかった。事情は「創造十年」に詳しいが、実は四月帰国の前日、福岡出発の日である三月三十一日
に家賃をとりにきた家主から、家の修築を口実に一週間以内の引越を迫られるといった出来事があった。郭沫若は後事をすべて妻に託して上海に立ち、引越し先 の住所も知らないままで福岡に帰って来たのだった。この詩はその後もとの借家を訪ねてみて作ったものである。詩では福岡に帰って自分の家の前に立ったら家
族はいなくなっていた、というストーリーになっており、門の前に立ちつくす作者が、「思索の揺籃」「詩歌の産床」だった借家を懐かしむという風に書かれて いる。そこからは「博多湾の明波」「志賀島の夕陽」が望まれ、家は「十里の松原の幽閉」、「渚の魚網」に包まれていた。だがその借家はもう自分のものでは
ない。「鳥には巣が、獣には穴が、魚には港があるのに/人の子は身を安んずる所もない。/追われた妻子は今どこにいるのか?ああ抑えきれない、私の涙!」 詩はこのように結ばれる。もちろん「家族はどこにいるのか分からない」というのは7月に帰福したときのことで、無論虚構であるが、そういう虚構を敢えてし
た点に、私は「私小説」作家に共通する姿勢を感じる。
「偶成」は題名からも感得でき るように旧詩の味わいを湛えた四行ほどの短詩である。新詩には違いないが、その風味を残すべく文語調に訳してみる。「月は我が頭上に波を撫し/海は我が足
下にざわめく。/我は立ちて海のほとり危崖に在り/児は眠りて我が懐にあり。」「危崖」(危うき崖)とはなんだろうか。千代の松原は平坦に広がる起伏に乏 しい海岸である。「危崖」が実写ではなく、彼の人生の危機の象徴であることは確かであろう。そしてこの語によって、この詩は海岸に幼児を抱いて立ちすくす
詩人の哀感をかもし出すことに成功している。
「帰来」は二十二年九月二十日 の作。「彷徨(詩十首)」の題目で書かれた十首の詩の十番目の作品である。この年の夏、郭沫若は酷暑の上海で翻訳や来客の応接に慌しい時間を過ごした。
「游子帰来了/在這風雨如晦之晨/游子帰来了」という冒頭三句には、その上海から福岡の寓居に帰ってきた安堵と喜びがこめられているだろうが、同時に上海 で空しく時日を消費したことへの自嘲もこめられているかもしれない。「游子」は旅人の雅語だがここでは「外をほっつき歩いて家に寄りつかない遊び人」とい
うニュアンスさえあるように私は読んだ。ともあれ、この詩は作者が「故郷ではないのに」「故郷と同じ」自宅で再会を果たした家族と抱き合い、頬を寄せ合っ て喜ぶ姿がほとんど無防備に描かれている。
「暗夜」は「好像是但丁来了」 十首として二十三年二月の「創造季刊」に発表されたものの一首で、「二十一年から二十二年の春夏の交代期に書かれた」(付注)というが「近所の人々はみな
通りで夕涼み」とあるからには、夏かそれに近い時期であろう。作者は右手に薪を抱え、左手に三歳の息子(次男の博生であろう)を引いて夜道を無人の自宅に 急ぐのである。「―かあちゃんはどこに行ったの?/―よその家にお手伝いに行ったんだよ/かあちゃんよその家にお手伝いに行ったの?/―よその家にお手伝
いに行ったんだよ」「息子はずっと泣きじゃくっている…/息子は抱かれて私の腕の中/涙は抱かれて私の眼の中」。親子の会話は葛西善蔵の「子をつれて」を 連想させる。葛西の「子をつれて」は大正七年(一九一八年)に発表された。葛西は翌八年三月第一創作集『子をつれて』を出版、一躍注目されて新進作家とし
ての地位を確立したとされる。私は郭沫若が葛西を読んでいると思う。郭沫若の創作活動の出発期が大正期の私小説隆盛の時期に重なるにも関わらず、郭沫若が この葛西の小説にかぎらず、同時代日本文学について何も語っていないのが、逆説を弄すようだが、そう思う根拠なのである。
以上郭沫若の詩のうち、家族 (と言って妻の佐藤おとみが登場することはほとんどないのだが)の歌いこまれた作品を通観してみた。そうすることで同時代の私小説と底通する創作意識を もった「私詩」と言うべき詩群の姿を浮かび上がらせたい、というのが密かなる執筆意図であった。意図は果たせなかったが、初期郭沫若詩のもつ定評と違う一 面の研究の必要性という課題が浮かび上がったとは言えないだろうか。負け惜しみの一言で筆をおく。(二〇〇三年十二月末)
中国の文字改革と郭沫若
宮下尚子
一九五六年中国が北京で「文字改革会議」を開催した当時、郭沫若は中国科学院院長として「為中国文字的根本改革舗平道路」(中国文字の根本的な改革のために道をならす)という講演を行ったことは周知の通りである。
中国の文字改革は、清末の切音 運動にはじまり、辛亥革命以後の国語運動、一九三〇年代から五十年代中期のラテン化新文字運動、解放以後の文字改革運動という大きく四つの段階に分けるこ
とができる。国語運動が中国の近代化のために官話を国語として地方に普及させ ること、官話による諸方言の同化を目指したのに対し、一九三〇年代にはじまるラテン化新文字運動は、特定の地方の方言が標準語になることを避け、各方言区
ごとに個別の拼音文字を設けることで大衆の文化的解放を図ろうとするものであった。瞿秋白が一九二九年に『中国的拉丁化字母』の小冊子によりラテン化新文 字の草案を打ち出して間もなく、上海で成立した中国左翼作家連盟において「文芸大衆化研究会」が成立し、『大衆文芸』上において文芸の大衆化問題が論じら
れた。われわれは、ここでも郭沫若の名を見ることができる。
郭沫若は一九三五年十二月上海で成立した「中国新文字研究会」の「新しい文字を広めることに対する意 見」へも署名を寄せている。この「意見書」というのは、概ね次のような内容である。すなわち、略字や簡字や注音字母は文字問題の根本的解決にはならず、国 語ローマ字は北平の方言を国語として広めることを主張しており、その他の方言地区の人間にとっては外国語もどきの北平話に加え見慣れぬローマ字を習得する ことはほとんど不可能に近い、拼音文字を採用することで、一つの地方の方言が独裁することを免れ、大衆文化推進と民族解放の道具とすることができる、とい うものである。
郭沫若は文字改革について、 『大衆文芸』の他にも、「請大家学習新文字」(『留東新聞』十二期、一九三五年十二月東京)、「方言拉丁化之切要」(『潮州話新文字月刊』二期、一九三六 年五月東京)、『質文』第二巻第一期(一九三七年三月東京)など多くの文章を書いている。資料から判断するに、郭沫若は一九三〇年代頃は漢字は将来的には 全て拼音文字で置き換えられてゆくであるだろうし、そうなるべきだと考えていたようであるが、一九四五年前後から文章にはどことなく歯切れの悪さがあると いうか、彼の目指す将来の漢字のあり方の曖昧さが明確になってくる。
「新しい文字は中国の言語文字 のラテン化だけではなく、中国言語文字の科学的な整理と建設である。中国語文は象形のための道具として発展したが、表音文字となり、少なからぬ同音字があ り障碍となっており、その中の多くのものはなんとしても淘汰しなければならない」(上海『時代日報』副刊『新語文』二期、一九四七年四月二日)思うに、こ れは当時の知識人であれば多分に持っていたであろう漢字──知の道具──を 遺棄することに伴う葛藤を反映したものではなかったか。たとえば以下の文において、我々は郭沫若自身が感じていたであろう葛藤をかいま見ることができる。 「(新文字の導入に)反対する者の中には旧文字をおおいに尊重し、新文字が導入されたら旧文字は消滅し、中国の文化遺産も消滅してしまうと思い込んでいる がこれは過分に杞憂である。事実上新文字が広められても旧文字は依然としてその存在の価値を維持しつづけるであろうし、中国の文化遺産はより広汎かつより 末永く伝えられるべきなのである」(『新文字に反対する人について』、上海『時代日報』副刊『新語文』四十三期、一九四八年一月十四日)。
*参考文献:倪海曙編著『拉丁化新文字运動的始末和編年紀事』上海知識出版社一九八七年出版。
反復される翻訳論争
――郭沫若と武田泰淳――
郭 偉
郭 沫若が、竹内好、武田泰淳らの中国文学研究会と深いかかわりを持っていたことは周知のとおりである。会名の由来も郭沫若と関係があったし、その同人誌の題 字も武田泰淳が郭沫若に依頼して書いてもらったものであった。また、中国文学研究会年譜によると、一九三五年、武田泰淳は、市川の郭沫若宅に竹内好に連れ て行ってもらったのをはじめに、竹内や岡崎俊夫との三人の中でも「比較的足繁く訪ねており」、一九三六年、郁達夫の歓迎会のあと、(そのときに日本脱出を 決意したとのちに推測される)郭沫若は、「武田の手を握って、『僕は永久に日本にいます』と繰り返し」たという。武田泰淳は郭沫若と個人的にもかなり交渉 があったようである。
「武 田泰淳と現代中国の知識人たち」は私の現段階の研究テーマであるが、構想としては、武田泰淳文学における胡適、郭沫若、魯迅、周作人などを論じてみるつも りである。今は、武田と胡適について書いているところで、早くも、当然でもあるが、武田における郭沫若の重みが感じられた。
一 九四一年、竹内好が『中国文学』第六十九号(二月)に発表した「翻訳時評」を発端に、吉川幸次郎と竹内好との間に胡適の『四十自述』(吉川幸次郎訳、一九 四〇年三月、創元社)をめぐる翻訳論争が起こり、竹内は吉川の「言語感覚」ないし「翻訳の態度」について鋭く論難した。戦後、吉川訳『四十自述』が再版さ れたとき(一九四六年十二月、養徳社)、竹内はまた書評「素樸なアンシクロペディスト」(『書評』第四号、一九四七年五月)を書き、吉川の戦時中の言動と 関連づけて、さらに厳しく糾弾した。「訳者の言語感覚は、私から見れば、異常であり、不潔でさえある」、「尊大と卑屈は表裏であり、それは日本文化の非独 立性、ドレイ性にもとづく無自覚の外国崇拝=外国侮蔑という心理の反映に外ならない」と。
一 方、武田泰淳の方は、一九四一年一月、竹内の「翻訳時評」に先立ち、『中国文学』第六十八号に胡適のアメリカ留学時の日記「蔵暉室剳記」にもとづき、胡適 を主人公とする創作「E女士の柳」を掲載している。その根底には馮友蘭の荘子研究を是とし、胡適のそれを非とする意図があり、吉川訳の無批評性を暗に非難 している点があると思われる。そして、一九四七年六月、今度は竹内の書評より一カ月遅れて「『経書の成立』と現実感覚」を『中国研究』創刊号に発表。東方 文化研究所の吉川幸次郎などとの交渉を回想しつつ、平岡武夫著『経書の成立』を評したものであるが、「経書の存在を無視して支那の精神文化を口にすること は不可能である。何となれば、支那人の正統な面における精神生活は、経書を地盤として営まれ、枢軸として展開してきたからである」という平岡の主張に対し て、「経書の存在」を「感覚」に置き換え、次のように反駁した。
学 術研究は冷静にして厳密でなければならないにしても、問わず語りに「感覚」が表面に出る例は案外に多いものである。竹内好氏に言わせれば胡適氏の文章はイ
ヤらしい。吉川氏はこれに反対するであろう。吉川氏をはじめ研究所の人々に言わせれば郁達夫の文章はイヤらしい。竹内氏はこれに反対するであろう。私にも 郁氏の小説はイヤらしいと思うことは到底不可能である。郁氏をとるか胡氏をとるか。これはかなり重要な決定である。その決定をなさしめるものは、経書より
はむしろ感覚であろう。
竹 内の東京帝国大学卒業論文は「郁達夫研究」であったが、しかし、武田の以上の言葉を読むと、私は、どうしても、竹内と吉川の翻訳論争を、一九二二年、郁達 夫や郭沫若ら初期創造社メンバーと胡適らとの間に起こった翻訳論争と符合するものと考えざるを得ない。そして、武田には、自分ら中国文学研究会=郭沫若ら の創造社、吉川幸次郎らの京都支那学派=胡適らの既成学界という意識がある程度、「感覚的」にあったのではないかと考える。
と
ころで、武田泰淳は一九三六年十月『中国文学月報』第十九号に「擬古派か?社会史派か?」を発表している。その中で、胡適の学生で、その影響下にあった顧 頡剛を中心とする疑古派と、郭沫若の研究に端を発した社会史派の論争を紹介し、「旧国学の打破のための共同戦線にあった」ことを理由として、「両派とも中
国学徒の進歩的潮流である」と賞賛した。顧頡剛から論難される郭沫若の研究を「発生時代の著作である結果後進の学徒の批判が集中されるのは致しかたない」 と弁護し、また「共同戦線が破れるようなことがあれば中国学界の大きな不幸となるであろう」と憂慮していた。しかしながら、武田の憂慮した通り、その「共
同戦線」は結果として破れたのであった。
<最新情報>☆☆
郭沫若氏の旧宅移 築復元について市川市文化部国際交流課より新しい情報が発信された。それによれば、市川市は、現在、市川市須和田二丁目に残されている郭沫若氏の旧宅を近 くの公共用地に移築復元する方針を決め、旧宅の所有者との間で移築について合意をした。その旧宅は、中国楽山市出身の郭沫若氏が昭和三年二月から昭和十二 年七月まで家族とともに過ごした家で、市川市としては、市制施行七十周年となる平成十六年度に予算計上し、友好都市・楽山市との交流関係からも記念館とし て復元し、建物の一部を市民が多目的に使える施設として開放する方向で検討している。(平成十五年十月六日市川市定例記者会見<要旨>による)
☆ すでに今年十一月十九日付の電子版研究会ニューズレターでお知らせしたことですが、メールアドレスを持たない会員もございますので、会報であらためて連絡します。こ
の頃国士舘大学藤田梨那会員から中国天津電視台が製作した十八回連続テレビドラマ『郭沫若とアンナ』(ビデオテープ九巻)の寄贈を頂きました。中国では今 年の十月一日(国慶節)以後一部の地区で放映するとのことですが、日本では未公開のレアものです。内容として留学から亡命までの二十年間の郭沫若と日本人
妻の佐藤をとみをとりあげたもので、史料価値も高いと思われます。テープは今研究会事務局(九州大学武継平会員研究室)に置いてあります。会員ならどなた でも貸し出しできますので、ご覧になりたい方はぜひ申し込んでください。
貸 し出しの方法に関しては、ぜひ皆様のご諒解をいただきたいことがございます。具体的にいうと、送料は誰が負担するかの問題ですが、我々の研究会は現在のと
ころまったく資金の余裕がございません。したがいまして本事務局は「往復送料自己負担の貸し出し」という提案を採択し、貸す時には着払い(例えば黒猫ヤマ ト宅配便で東京なら一二七〇円)で発送し、返送していただく時には送料を貸出人が負担するという方法で貸し出し申し込みを受け付けたいと思います。
<編集手記>
予定通り研究会報第三号(総No.4)を発行することができました。寄稿してくださった方々に心から厚く御礼を申し上げます。
今回<特別寄稿>の 形で非会員である二方の原稿を載せさせていただいております。この二方とは丸山昇先生と西原大輔先生のことです。丸山昇先生といえば郭沫若研究の開拓者の
ような方ですが、毎回会報を差し上げていたところ、今回郭沫若研究会に郭沫若の評伝をお送りいただきました。この文章は一九七八年に『朝日アジアレ ビュー』三十五号に発表された「郭沫若―その一面」です。世話人で相談し会報に転載したいとお願いしたところご快諾いただきましたので、今号より連載する
ことにしました。日本の郭沫若研究に少なからぬ刺激を与えてくれるでしょう。西原大輔先生は、当会報創刊号劉岸偉先生の論文(「郭沫若と谷崎潤一郎」)で 言及されている方です。今回関東世話人から会報の執筆を依頼致しました。あらためて御礼を申し上げます。
ところで、<郭沫若と安娜特集>が組めたのは単なる偶然にすぎませんでした。二〇〇四年はちょうど安娜さんの十回忌にあたるので彼女の墓前に捧げることができればと祈念してやみません。 (武)
注: 表紙の題字はコンピューター処理をした郭沫若の書を使っています。
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