郭沫若研究会報 04

第四号（総No.5）

2004年5月30日発行

日本郭沫若研究会事務局

〒810-8560 福岡市中央区六本松4-2-1

九州大学高等教育総合開発研究センター武継平研究室

Tel＆Fax(092)726-4651 E-mail: yanzipin@rche.kyushu-u.ac.jp

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目　次

【特別寄稿連載】

　　　郭沫若――その一面（三）・・・・・・・・・・・・・丸山　昇

【文化・文学散歩】

雄渾社版『郭沫若選集』のこと・・・・・・・・・・・・杉本達夫

　　　初期郭沫若詩「晴朝」の風景・・・・・・・・・・・・岩佐昌暲

郭沫若『蔡文姫』と北京人民芸術劇院・・・・・・・・・瀬戸　宏

郭沫若と香港の縁・・・・・・・・・・・・・・・・・・武　継平

【史料の発掘】

資料の紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小崎太一

【研究・交流活動】

　　　郭沫若についてシンガポールで講演・・・・・・・・・・藤田梨那

　　　北京人民大学・香港中文大学との交流・・・・・・・・・事務局

【特別寄稿連載】

郭沫若――その一面

丸山　昇

〔三〕

　辛亥革命の結果中華民国が成立した十二年、彼は最初の結婚をする。彼には子どものころ、親のきめた婚約者がいたが、彼女が彼が十四歳の時に死んだため、この婚約は実現しなかった。その後も縁談が四、五十持ち込まれたが、彼はいつもまだ早いという理由で承知せず、両親も彼の気持ちを尊重してくれていた。それが十一年の十月、母から婚約をとりきめた通知があったのだった。

　この結婚はまったく旧い型のもので、彼は結婚式当日まで花嫁の顔を知らなかった。花嫁がカゴから降りて来るのを見て、始めの話とちがって彼女が纏足をしていることを知ったような始末だった。それにショックを受けた彼は、花嫁の容貌を見てさらに落胆するが、蜀の孔明はわざと醜女を娶ったではないかといい、これまでの苦労を述べて彼を説得しようとする母の言葉にもう運命の網に落ちた以上、無意味に老いた両親を苦しめることはできない、と考えなおす。親が本人の意思と無関係にとり決める旧い型の結婚をした例は、魯迅を始め中国の文学者に数多いが、その後の身の処しかたに、この体験に対する回想のしかたに、それぞれの個性がはっきり表れるようである。

　郭沫若はこの時の結婚について、「私の一生にもし懺悔しなければならないことがあるとしたら、この件はもっとも重大なものの一つに数えなければならないだろう。私は自分のこの時の日和見主義が人を誤ったことを、常にのろう気持ちでいる」と書いている。「日和見主義」などという言葉で説明するところがいかにも郭沫若流だし、また結婚の行事をくわしく述べながらその一つ一つの民俗について、かなり割り切った社会科学的解釈を加えて行くところも、いかにも彼らしいが、それ以上に彼らしいのは、こういいながら、恋愛・結婚問題に対する彼の態度に、この体験があまり影を落としていず、彼があくまで自由・濶達なことである。そもそもこの結婚について述べた自伝の一篇は「黒猫」と題されているが、この題名は成都の俗諺に「麻の袋に入れた猫、白いと聞いて買ったのに、帰ってあければ黒い猫」とあるのからとったものである。つまりこの時の花嫁を諺でいう黒猫にたとえているのだから、神経が太いというか、ものにこだわらないというか、その天衣無縫ぶりにはいささか驚くほかはない。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　この最初の夫人はその後どうなったのか、私は寡聞にして知らない。彼は十三年故郷を出て日本に留学した後、何度か日本と中国を往復もしたし、北伐にも参加したのだが、故郷にはずっと帰らなかった。三七年、日中戦争開始とともに亡命先の千葉県市川を去って帰国する途中、彼はつぎのように書く。

　「妹が西湖にいる、妹の夫がそこで商売をしているのだ。上海に着いてからすぐ西湖に行って二十五年間会わなかった肉親を訪ねようか。

　四川を出て二十五年、母が死んでも、兄のなくなった時も葬式に帰らなかった。今年九十歳になる父も、もしできたら、飛行機に乗って一度見舞いたい」（「日本から帰る」）

　この個所は、橋川文三氏も「少なからずおどろいた」こととして引かれ、武田泰淳氏のいわれた中国の歴史と社会の「利害」（リーハイ、はげしい、きびしいの意）さを示すものと指摘しておられる（「郭沫若の印象」・『順逆の思想』所収）。同感だが、それはともかく、母や兄の死に目にも会えなかった郭沫若が、最初の夫人とその後まったく会わなかっただろうことは想像がつく。

そして彼は、日本留学中に知り合った佐藤とみさんと結婚する。彼らの恋愛と結婚については、郭沫若自身はあまり語っていないが、佐藤とみさんの妹操さんと結婚した創造社の作家陶晶孫が、死の直前に書いた二つのスケッチ「セントラルサブライの泥棒」「漢文先生の風格」（『日本への遺書』所収）が、若い二人の姿を温かく描いている。

　郭沫若自身の書いたものに、とみ夫人が出て来るのは「創造十年」以降で、貧しい留学生活の中でのとみ夫人の「糟糠の妻」ぶりがよく描けている。

　創造社時代の彼は、時にはとみ夫人や、子どもを連れ、時には単身で何回も日本と中国を往復する。彼が国民革命軍総政治部秘書長として北伐に従軍した時、夫人と子どもは広東に残っていた。そして二七年四月の蒋介石の反共クーデターを経、八月の南昌蜂起には一歩遅れて南昌撤退の直前に参加、各地を転戦して散り散りになった少数の一隊で山中を潜行、ようやく小さな漁港から香港に脱出するのだが、この潜行の時に安琳という女性がいっしょだった。郭沫若の文章の中では、時々小声でインターナショナルを歌う、なかなか印象的な女性だが、郭沫若は彼女にも、同志という枠をややはみ出た感情を抱いたらしい。郭沫若は後の文章の中で、こう書いている。彼が香港から上海にもどってとみ夫人等とも落ち合い、発疹チフスになってソ連亡命の機会を失い、日本へ行く準備をしていたころのことである。このころ安琳も上海に来ていた。

　「アンナ（とみ夫人）は安琳と私との関係をたずねた。私は大たいの様子を話してやった。（略）

　『あなた彼女を愛してるんですか？』アンナが私にきいた。

『むろん愛してる。ぼくらは同志だし、艱難をともにして来たのだから』『愛してるなら、どうして結婚しないんです？』

『愛してるからこそ結婚しないのさ』『私があなたがたの邪魔をしているのね』アンナがひとり言のように言った。『もしこんな大ぜいの子どもたちがいなかったら』―彼女はしばらく言葉を切り日本式の畳の上に眠っている三人の男の子と一人の女の子を指しながらひとり言のように続けた、『私はいつでもあなたを自由にしてあげるんですけど』

私はそれ以上は話さなかった…」（「上海を去るまで」）安琳との仲は、これきりになった。郭沫若は夫人と子どもを連れて日本に亡命し、市川の寓居に隠棲して古代史研究に沈潜していたことはよく知られているとおりである。滞日十年に及ぼうという時、日中戦争が起こる。十年の間に、男の子が一人ふえて、息子四人娘一人になっていた。その五人の子どもととみ夫人とを残して、祖国の危機にかけつけた心境を記したのが、先にもふれた「日本から帰る」である。

　出発の朝、夫がこの日に去ることを知らなかった夫人は、蚊帳の中で本を読んでいた。朝四時半に起きた彼は子どもたちのために置き手紙をしたため、夫人の額にそれとなく別れの接吻をして、朝の散歩にでも出るように、着流しに下駄ばきで家を出る。自分がこれから敵として戦うために去ろうとしている国に妻子を残して行く辛さと心残り、あとに残った妻子たちを待ちうけているであろう何重もの苦難、それを思って後ろ髪を引かれるように日本を去る心境がよくわかる、印象的な文章である。その彼が上海に着いて、上海で救亡日報社長等、抗日の言論活動をやっていたころ、同じ上海で難民救済などの奉仕活動をしていたのが、当時二〇歳そこそこだった于立群女史で、彼らはこの年のうちに相愛の仲になった。これが現夫人である。

　不必要にプライバシーに立ち入り過ぎたように見えるかも知れないが、このような郭沫若の経歴を、道学者風に非難するつもりで書いたではもちろんない。もしそういう印象を与えたとしたら、それは私の筆の貧しさのためであって、私の意図はむしろ過去も未来も忘れてその時々の眼前にあるものに全精力を注ぐ、郭沫若のほとんど性格化した行動様式の特徴を描き出すところにある。（つづく）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

【文化・文学散歩】

雄渾社版『郭沫若選集』のこと

杉本達夫

　雄渾社版『郭沫若選集』に関わる幾つかのことを、思い出すままに書いてみる。記憶がひどくぼやけていて、事実の誤りが相当に混じるかもしれない。

　一九七二年に日中間の国交が開かれたのを記念して、京都の出版社雄渾社が、『郭沫若選集』全十七巻の刊行を企画した。おそらくは社長垣本剛一氏の情熱と行動力に、呑みこまれ引きずられるようにして、刊行委員会が出来上がったのであろう。詳しい経過は知らない。委員の顔ぶれは、五十音順に浅川謙次、伊藤武雄、上原淳道、倉石武四郎、白石凡、末川博、須田禎一、柘植秀臣、計八名の諸氏である。錚錚たる人々ではあるが、いかんせん、高齢の方が多かった。幾人かが刊行に先立って他界され、幾人かが刊行開始後に他界された。

　七三年初秋に須田氏の他界があって、文学部門の委員がいなくなったというので、急遽わたしが引っぱりこまれた。縁者であるというそれだけの理由で（須田はわたしの猛妻の父である）。職場近くの喫茶店で垣本社長に口説かれた場面を、いまも鮮明に憶えている。委員にはなったものの、わたしは郭沫若にはまるで無知であった。作品の幾つかを読んだことはあるものの、それは郭沫若というそびえる巨峰の、ほんの裾野を散策したに過ぎないのであって、研究とは遠く隔たっていた。名もなく実績もない若造は、名だたる刊行委員を前にして、身の縮む思いであった。

　委員は次つぎ欠けていった。伊藤武雄氏の葬儀はカソリックの総本山、東京カテドラルで執り行われた。伊藤氏とキリスト教との結びつきが、わたしにはどうにも解しかねた。ご家族が信徒であり、伊藤氏も死の直前に入信されたとかうかがったが、式の荘厳さとはべつに、はなはだ奇異な印象が残った。柘植氏が他界されたあと、委員は上原氏とわたしだけが残った。葬儀に参列したさい、「次はどっちでしょうね」と言うと、上原氏は「そりゃあ年齢順でしょう」と答えられた。上原氏はわたしより十六最年長である。相当な開きである。だが、上原氏を見ていると、必ずしも年齢順とは思えなかった。その上原氏も九九年に、まさしく年齢順に他界された。ひとり残されたわたしは、すでに六十代半ばを越え、日々に半ボケをグチッている。

　肝心の選集全十七巻はどうなったかといえば、十七巻中八巻を出して息が絶えた。しかも、その八巻を出すのに十年を要した。全十七巻の内訳は、自伝篇四巻（少年時代、創造十年、革命春秋、洪波曲）、文芸篇六巻（郭沫若詩集、史劇Ⅰ･Ⅱ、屈原研究、李白と杜甫上・下）、歴史篇六巻（中国古代社会研究上･下、青銅時代、奴隷制時代、歴史人物、歴史研究論文集）、評論篇一巻（郭沫若評論集）である。自伝や詩集､史劇がすでに翻訳紹介されていて、読者にとっていささか新鮮味を欠くのに対し、歴史篇の諸作品は、もし全巻が刊行されれば、郭沫若という人物を知り、その仕事の広がりと重みを知る上で、きわめて大きな意味があるはずであった。刊行された八巻は以下のとおりである。

　①『少年時代』（和田武司、藤本幸三訳）1977年6月

　②『郭沫若詩集』（須田禎一訳）　1977年7月

　③『屈原研究』（稲畑耕一郎訳）　1978年7月

　④『史劇　Ⅰ』（須田禎一訳）　1978年12月

　⑤『青銅時代』（中村俊也訳）　1982年3月

　⑥『歴史人物』（牧田英二訳）　1983年2月

　⑦『創造十年』（和田武司、藤本幸三訳）1986年1月

　⑧『史劇　Ⅱ』（須田禎一訳）　1986年9月　

　刊行の年月を見るだけで、進行がいかにもたついたかが分かるだろう。始動が遅れた原因は、第一に中国の事情、郭沫若を取巻く状況の難しさにあった。日本がわからの申し入れに対して、郭沫若がわからはナシのつぶて、何の応答もないのである。六六年春、文革の火の手が上がり始めたころ、郭沫若は｢自分の過去の作品はすべて焼き捨てられるべきだ｣と述べた、と報道されていた。文革の嵐の中で、郭沫若は対外的には文革イデオローグの役割を担っていたが、国内的には周恩来派の人物とみなされ、その地位ははなはだ不安定であったという。焼き捨てられるべき作品に乗っかって、外国で個人の名誉を高めるような行為を、自ら認めるわけにはゆかなかったであろう。だが、そういう困難な事情は､日本がわによく伝わらなかった。文革期には、情報がほぼ遮断されていた。雄渾社からの重なる問い合わせに対して、最終的に返ってきた答は、「自分としては同意しない。だが、日本の友人たちが意義あると思われるなら、おやりになればよろしかろう」という趣旨のものだった。つまり、わしゃ知らんよ、そっちで勝手にやればいいんじゃないの、ということである。その答が届いたのがいつのことであったか、わたしは時期を憶えていない。これでようやく本人の了承を得たことになったが、始動は相当に遅れた。

　刊行遅延の原因は原稿の遅れにある。原稿がなければ本は出せない。大型企画というものは、刊行案内パンフができた時には、何巻分かの原稿がすでに準備され、見通しが立っているものだと思うが、郭沫若選集にはそれがなかった。原稿催促も緩やかで、借金取立てにも似た厳しさがなかった。翻訳担当者にはそれぞれ本務があったし、専門分野の学術書の翻訳には、予想をはるかに越えた時間を必要としたことも、当然ながら想像がつく。

　第一回の配本が七七年六月。国交樹立の時からすでに五年が過ぎていた、「記念」の意味が色あせていた。第八回配本の時には、中国も日中関係もまるで様相を異にしていた。郭沫若という名前は、日本の古い世代には知れ渡り、日中友好の象徴のごとくに理解されていた。だが八十年代も半ばになると、もはや遠い日の人であり、新しい世代への吸引力が乏しくなっていた。購入を予約した読者が次第に世を去り、あるいは忘れ去り、遺族が関心を引き継ぐことがなければ、当然ながら売れ行きが鈍る。もともと少部数の出版である。部数のさらなる低下は単価の高騰を招き、販路をいよいよ狭めた。書店の棚で見かけることがあっただろうか。雄渾社には大きな赤字が累積されたものと思われる。

　そしてたしか八十年代の終わりになって、出版社の事情から刊行の打ち切りが告げられた。この時、第九回配本予定の『奴隷制時代』（鈴木健之訳）はすでに校了になっていた。だがついに日の目を見ることなく終わり、鈴木氏にはまことに気の毒な結果となった。『歴史学研究論文集』（上原淳道訳）もまた、原稿は早々とできていたのに、最終回配本予定であったがゆえに世に出ることはなかった。『李白と杜甫』上下（須田禎一訳、杉本達夫校訂）も、原稿はできていた。他の翻訳担当者の作業が、それぞれどこまで進んでいたかは聞いていない。

　わたしは中途参加とはいえ、とにかく刊行委員であった。だが、刊行を順調ならしめるために、何らの貢献もできていない。委員という名に恥じねばならない。この事業の中でわたしが何をしたかといえば、須田訳の既刊本を点検して多少の誤りを正したこと、詩集に解説を書いたことである。『李白と杜甫』は全面手直ししたのであるが、これは前述のごとく本にならなかった。解説は未着手のままだった。

　力み返って言うことではないが、わたしは郭沫若に関して、まるきり素人のままで関与した。詩集に加えた解説だって、読む人が読めばケケケと笑うだろう。とはいえ委員に名を連ね、解説まで書いたとなると、外から見れば玄人のはしくれであり、郭沫若に関して一家言あってしかるべきなのである。八六年の春、北京での老舎学会に出席したところ、いきなり社会科学院文学研究所に拉致された。当時の社会科学院はまだ武装兵士が入口を守っていた。文学研究所では馬良春、李存光、黄侯興氏をはじめ、幾人もの方々が待ちかまえていた。日本からきた研究者と郭沫若論を交わそうという、先方の期待にもかかわらず、わたしはしどろもどろ、拍子抜けさせるしかなかった。たとえば、コレコレに関して、あなたの見解は丸山昇氏と異なっているが、丸山説をどう思うかと訊ねられても、おそらくは平凡社東洋文庫に入っている自伝の仕事を取り上げられているのであろうが、その丸山説なるものが、わたしの頭にはろくろく残っていない。ただただ赤面低頭するしかなかった。（丸山さん、すみません）。

　わたしは一度だけ、じかに郭沫若を見、握手をしたことがある。六九年夏、人類が月に降りたって間もないころ、ある団体に紛れ込んで訪中した。ある夜、一行は人民大会堂で全人代副委員長郭沫若に会い、文革の理念について話を聞いた。郭沫若は大会堂の入口で一行を出迎え、一人一人と握手したのである。郭沫若はその時すでに二人の子息を殺されていたが、そんな悲劇をわたしたちは知るべくもなかった。わたしが子息の死を知ったのは、七九年に郭平英女史の一文を読んだ後である。このとき訪中した一行は、全員が郭沫若の書を頂戴している。わたしのは「衆志成城」の四文字で、これは額に入れて職場の壁にかけてある。時には教室に持参して、学生諸君に自慢している。

　　　　　　　　　　　　　　　　　二〇〇四・五・三

初期郭沫若詩「晴朝」の風景

岩佐昌暲

以前からちょっと気になっている詩がある。正確に言えば、気になっているのは詩そのものだけではなく、詩に歌われている場所もである。この詩は後で書くように初期郭沫若詩には珍しく、自我の表白もなければ、社会への関心もない、没主体的な作品であるように私には思え、そういう点で気になる作品なのである。だが、今回はそれには触れず、気になっているもう一つのことを書くことにする。

　博多時代の郭沫若の詩には、はっきりと作品中に具体的な場所を述べたり、場所を示す事物が書きこまれたりしたものがある。その数は多いとは言えないにしても、一つや二つではない。例えば、「筆立山頭展望」、「梅花樹下酔歌―游日本太宰府」、「演奏会上」、「巨砲之教訓」「火葬場」「帰来」等等がそうである。私がここであげたのは、具体的に地名や場所までが特定できる作品で、たとえば初期郭沫若詩の多くを占める、いわゆる「千里松原」をうたった、あるいは松原のある箱崎海岸で書かれたような作品は含んでいない。

　気になっていたというのは、かなり具体的な情景が詠みこまれていて、簡単に場所が特定できそうでありながら、どこの風景なのか分からなかった作品のことである。それは「晴朝」という次のような詩（拙訳）である。

池上几株新柳，　　　　　池のほとりの柳が芽吹き

柳下几座長亭，　　　　　柳の下には長い亭

亭中坐着我和儿，　　　　亭に休む私と息子

池中映着日和雲。　　　　池に映る太陽と雲

鶏声、群鳥声、鸚鵡声，　鶏、野鳥、鸚鵡の鳴き声

溶流着的水晶一様！　　　流れ溶け合い澄んだ水晶。

粉蝶儿飛去飛来，　　　　ひらひら飛び交う紋白蝶

泥燕儿飛来飛往。　　　　すいすい飛び交うツバメたち。

落葉蹁躚，　　　　　　　落ち葉ひらひら

飛下池中水。　　　　　　池に舞い落ち

緑葉蹁躚，　　　　　　　緑葉がくるくる

翻弄空中銀輝。　　　　　空を舞う。

一只白鳥　　　　　　　　白鳥が一羽

来在池中飛舞。　　　　　池に来て飛び舞う。

啊，一湾的碎玉！　　　　ああ、池一面に砕け散る玉

無限的青蒲！　　　　　　数限りない緑のショウブ。

　一句の数は不揃いではあるが、四聯十六句、一聯四句。柳が芽吹き、蝶が舞い、ツバメがよぎる。晩春であろうか。そういう春のある晴れた朝、詩人とその息子が池のほとりの亭に腰かけている。鶏の鳴き声は周囲の民家の飼っているものだろう。それが公園に集まる野鳥の鳴き声と溶け合って澄んだ音として詩人の耳に届く。水晶というのはその音の透明な様を言ったのであろう。牧歌的で、かつ絵のような風景であるが、郭沫若の意識（詩意識）は近代詩人のそれではない。彼はおそらく古典時代の詩人のように風景を眺め、そのように風景を（＝詩を！）書こうとしているのである。詩を流れるのは古典的な抒情である。この時期の郭沫若詩は、当時の彼自身の感情や社会意識をとりだすことができるようなものが殆どであるように思う。この詩のように放心状態で風景を眺めている（そういう自分を描いている）作品は少ない、というより私は不勉強でまだ見つけていない。そういう点でこの詩は私には謎である。

　本題に入る。この詩が歌っているのはどこだろうか、というのが私のもう一つの気になっていることだった。

　郭沫若の留学時期に福岡市内で公園といえるものは東公園（明治九年十月開園）と西公園（明治十四年十一月開園）だけであった。この二つの公園は両方とも郭沫若が訪れているが、いかんせん現在の東公園、西公園には両方ともと池も亭もないし、柳の木も植わっていない。この詩の書かれた一九二〇年のころ（詩は一九二〇年九月七日「「学灯」に発表されている」にどうだったか。西公園は郭沫若の寓居からは遠く、しかも山の上にある。池を掘って亭を据えるような場所ではないから、これは東公園の可能性が最も高い。だが、現在の東公園には池がない。ただ、現在の公園は福岡県庁が現在地に移転したさい、整備され、元の趣きを大分変えているようなので、郭沫若九大在学時期にはもしかしたら池や亭があったのかもしれない。せめて、当時の地図か写真でもあればと思っていたところ、昨年、福岡県立博物館の売店で『福岡市市制100周年記念写真集　ふるさと一００年』（平成元年六月、福岡市刊）を購入し、その明治三七年の項に東公園の写真をみつけた。池も亭も写っているではないか。それが図に示す写真である。

もしこれが明治三七年に写されたものなら、「晴朝」執筆時の十五年も前のものということになる。開園から三〇年近くたつが、まだ十分に整備されているように見えないし、柳の木らしいものも見当たらない。もっとも一九二〇（大正九）年のころには、日蓮上人と亀山上皇の巨大な銅像の立つ公園として有名で、福岡の名勝旧跡の一つに数えられていたから、この写真より整備がすすみ、柳の木なども植えられていたかもしれない。二〇年三月田漢が福岡に来たとき、郭沫若は彼を案内して公園に来ている（『三葉集』所収宗白華宛三月三一日付け手紙）のも、ここが名勝の一つだったからであろう。

東公園は郭沫若の寓居からも近く、子供を連れて行くには格好の距離だったであろう。この詩も子供を連れての散策の折りに立ち寄った公園の風景をうたったものと考えていいだろう。「晴朝」の舞台が東公園であることはほぼ間違いないと思う。

だが、私は先の写真に柳の写っていないことが気になる。昭和三〇年三月福岡市教育研究所から油印本で出された辻忠吾著『福岡市名島、東公園、南公園、西公園、愛宕山の植物並に博多湾内の海藻の研究』というパンフレットがある。福岡市内の小学生の遠足のさいの生物教育に役立てようという意図で書かれたこの本の東公園の項には、三〇種の植物名が記録されているが、柳はない。当時はまだ残っていた池については「（旧武徳殿前の）池にはセリやヒツジグサが生じ」「（亀山上皇銅像の）左側の池の縁を囲るとハナショウブ、ヒツジグサが池中に、岸にはオヒシバ、メヒシバ、タンポポ等が生じている」とあるだけである。また写真の池は亀山上皇銅像前にあった、当時は「舞鶴池」と言っていたものだが、これは郭沫若が詩を書いた四年後の大正十三年に水がなくなってカラ池になったという。このような情報を考えあわすと、「晴朝」は実写ではなく、郭沫若風の美意識によって潤色加工された風景なのではないかと思えてくる。鸚鵡、池の畔の柳、舞い散る木の葉、白鳥が巻き起こす池上の波紋、池に生い茂るショウブ、これらは実は郭沫若の内部にしか存在しない虚構の風景だったかもしれないのである。

＊小稿を書くに当たって福岡市総合図書館郷土資料室・吉田氏、福岡県公園管理センター・筒井氏にお世話になった。記してお礼を申し上げる。

【研究・交流】

　今年の三月四日岩佐昌暲会員は中国人民大学中文系で、「郭沫若在九州大学」のテーマで講演しました。

三月二十三日香港中文大学中文系で中国現代文学座談会が開かれた。岩佐昌暲会員が「中国現代文学中的伝統創作思惟模式」を題に講演を行った後、武継平会員が「郭沫若と香港」について研究報告をした。

　　　　　　　（明治三十七年の福岡東公園）

郭沫若『蔡文姫』と北京人民芸術劇院

瀬戸宏

二〇〇二年は北京人民芸術劇院（北京人芸）創立五十周年で、過去の名作劇が連続上演された。その中に郭沫若『蔡文姫』があった。私もこの公演を観ている。『蔡文姫』は郭沫若が一九五九年に発表した戯曲である。漢末の戦乱の中で匈奴・左賢王の后となった蔡文姫は、二人の子の母となり匈奴の地にもなじんだが、郷土への思慕の念は変わらない。やがてその才を惜しんだ曹操の計らいにより帰漢するが、彼女は子と別れねばならなかった。匈奴への使いとなった董祀は誤解により曹操に殺されそうになるが、蔡文姫は身を挺して曹操の誤解を解き、董祀を助ける。八年後、父の著作の編集を終えた蔡文姫のもとへ、二人の子が送り届けられ、蔡文姫は再会の喜びにひたる。

　一九四九年の中華人民共和国建国から一九六六年の文革開始までに発表された戯曲は、今日ほとんど上演されることがない。その中で、『蔡文姫』は老舎『茶館』、田漢『関漢卿』などと並んで、その数少ない例外に属する。郭・老・曹という言葉がある。北京人芸の上演風格を形成するのに重要な役割を果たした郭沫若・老舎・曹禺という三人の劇作家を指したものであるが、これからも郭沫若作品と北京人芸の密接な関係が理解できる。北京人芸は郭・老・曹を演じることによって、中国最高の劇団という栄誉を勝ち得ていったのである。

　二十一世紀の今日でもなお郭沫若劇の上演が続いていることは、郭沫若にとっても喜ばしいことであるに違いない。それには、もちろん戯曲の力もあるが、それだけではない。初演の演出にあたったのは北京人芸第一副院長・首席演出家（総導演）であった焦菊隠であるが、彼の演出が創意に満ち、北京人芸の風格形成に大きな役割を果たしたのみならず、その後の中国話劇の上演にも大きな影響を与えたからである。

　北京人芸の『蔡文姫』初演は、一九五九年五月のことであった。この『蔡文姫』上演は台本などがその後公表されたのでその詳細を知ることができるが、郭沫若の戯曲と比べると、第四幕第二場が削除されたほか、台詞の一部が簡略化・口語化されている。しかし、全体としては戯曲の内容はほぼ保持されているといってよい。

　その後『蔡文姫』は一九六一年まで、上海、蘇州、長春、瀋陽、ハルビンなどで二四〇ステージ以上上演され、北京人芸の代表的演目の一つとなった。文化大革命が終結し、文革期に北京話劇団となっていた北京人芸が一九七八年に北京人民芸術劇院の名称を復活させた後、文革前一七年の優秀演目復活上演に取り組んだ際、最初に選ばれたのもこの『蔡文姫』であった。当時は初演時の俳優が健在で、七八年再演は初演とほぼ同じキャストで行われている。それだけでなく、演出も一九七五年にすでに逝去していた焦菊隠の演出プランを忠実に再現する方法を用いている。

　この公演は成功し、『「蔡文姫」の舞台芸術』（上海文芸出版社　一九八一）という上演台本や演出ノート・俳優の演技談を治めた本が出版され、さらに映画化もされた。後にこの映画『蔡文姫』はＶＣＤ化され、今日では首都劇場付設の戯劇書店などで容易に入手することができる。この映画はスタジオ撮影で舞台の忠実な映像化ではないが、キャスティングは舞台と同様でシナリオも、今回『「蔡文姫」の舞台芸術』収録本と対照してみた限りでは、ほぼ舞台上演台本に忠実である。

　『蔡文姫』に限らず、郭沫若の歴史劇について、私は以前から必ずしも肯定的ではなかった。人物形象の掘り下げが弱いのである。郭沫若は序文で、「ボバリー夫人は私だ」とうフローベールの言葉を引いて、「蔡文姫は私だ」と述べている。三七年に子や妻を残して日本を去った自分の境遇を念頭に置いているのであろう。しかし、そうであるなら、蔡文姫の矛盾に満ちた心理をもっと掘り下げてもらわねば困る。董祀を陥れる周近の心理も、十分に描かれているとは言い難い。全体として、人物像が類型化の域を越えていないのである。

　しかし、ＶＣＤを観て、この北京人芸上演の舞台『蔡文姫』は傑作だとおもった。焦菊隠演出の『蔡文姫』が歴史に残っているのは、伝統演劇の技法を話劇に取り入れた「話劇の民族化」のためである。そして、適度に伝統劇の「型」の演技技術を取り入れ、しかし台詞劇の本質は保っている北京人芸の俳優たちの演技は、郭沫若戯曲の人物類型化にかえってマッチし、感傷的な独自の劇的雰囲気を形成することに成功している。特に、台詞術が素晴らしい。『蔡文姫』が中国話劇史上の名作とされる理由を、改めて確認した。

　残念ながら、北京人芸にあっても演技の継承は必ずしも成功していないようだ。二〇〇二年北京人芸上演の『蔡文姫』（蘇民演出）は、基本的には焦菊隠演出の復活を目指したもので、俳優も現時点での北京人芸最高キャストなのだが、梁冠華の曹操が独自の風格を作り出していたほかは、郭沫若作品の人物形象の弱さが浮き出て、ぜいたくな商業演劇を観ているような印象であった。二十一世紀の今日、郭沫若作品を成功裏に上演するためには、特に演出面で新たな創意を必要とするのではなかろうか。

郭沫若と香港の縁

武　継平

　郭沫若は一九二三年に日本留学を終えて帰国するまでの二十数年間、一度も香港に訪れたことはない。香港の土地に初めて足を踏み入れたのは二七年北伐戦争以降だったが、それから新中国が誕生するまで、およそ十年間隔で三度も香港に滞在した。

　郭沫若が国立広東大学文系院長を辞めて北伐革命軍に従軍したのは二六年七月だった。北伐が破竹の勢いで進む中で、彼の非凡な宣伝才能は蒋介石に買われ、わずか七ヵ月で軍の総政治部宣伝科長から政治部主任（軍の階級は中将）に異例のスピード昇進ができた。しかし北伐が展開していく中で、彼は総司令官だった蒋介石と対立するようになり、四・一二反共クーデター直前についに「請看今日之蒋介石」という自軍の最高司令官を糾弾する檄文を新聞で発表した。このような郭沫若の反目は当然、蒋介石や南京政府の逆鱗に触れた。一夜にして彼は総政治部主任の要職を罷免されただけでなく懸賞金を掛けられ、追われる身となった。

共産党の活動が地下に転じて以来、僅かな希望を国民党左派が主導権を握る武漢政府に託した郭沫若にとって「寧漢」両政府の和解は耐えがたいショックだった。選択肢がなくなった彼は、共産党が指揮をとる「南昌蜂起」に参加し、反旗を翻した「蒋介石討伐」部隊に身を寄せることを余儀なくされた。討伐と言っても戦うたびに負けて撤退する一方だから、江西省の南昌から広東省の大埔、潮州、汕頭、そしてさらに普寧、海豊、陸豊の方向へ一直線に南へ敗走した。こうしたハードな行軍の中で周恩来の紹介で正式に共産党に極秘に入党した彼は、同年十月三日党から香港への脱出命令を受けた後、広東省の神泉にある辺鄙な漁村で十日間ほど南東の風を待ち、やっと一艘の小さな帆船に乗って神泉港を出た。当時の漁村は現在の広東省掲陽市恵来県南七・五キロに位置する神泉港の近くにあった。調べて分かったことだが、神泉港は明の嘉靖三三年（一五五四）に築造されたもので四百年余りの歴史を持っているだけでなく、「三奇（奇物―糸線吊金鐘，奇魚―拜魚，奇水―甘泉）」と「八景（蜃楼海市、海角甘泉、烟墩望海、玉笏朝天、文笔高標、晩霞帰帆、書院青松、古井通海）」をもつ広東屈指の名所としても知られている。七十八年前にこの小さな港を脱出した時、機動船がないため頼りになるのは風しかなく、しかも常に追手のことを気にしなければならなかった郭沫若は、この名勝を知っていても景色を愛でる余裕はなかったろう。

　はじめての香港に「漂着」という形で辿りついた郭沫若は、この安全な島で一週間前後潜伏したあと、あらためて海路を北上し広東経由で日本人妻の佐藤をとみさんと子供たちが居住する上海に戻った。香港というイギリス植民地の島に潜入したのも出たのも共産党の指示によるものだった。命の危険を冒してまで上海に戻ったのは妻子のそばに帰るためではなく、党から「ソ連亡命」という新たな組織命令を受けたからである。

外国人が支配する香港は、郭沫若のような一時的に志を得ぬ革命活動家にとって絶好の避難港であった。身を潜めるのに必死だから、社会活動の停止は勿論のこと、いつものようにどこへ行っても地元新聞を騒がせるようなことも当然できなかった。現にこの島にいた十日間はどこに隠れていたのかも分かっていない。外出も一切しない「蟄伏」だったのだろう。さもなければはじめての香港滞在はきっと何らかの形で足跡が残るはずだ。

再び香港に訪れたのはそれから十年後の三七年十一月だった。

　三七年七月二十五日、郭沫若は国民党政府の極秘召喚を受け、中華民国大使館および関係諜報機関の緻密な手配で妻子を置きざりにして日本を脱出することに成功した。「抗戦」に身を投じるためだった。国民党政府が郭沫若に対する指名手配をとりやめたのは、もちろん彼が持つ多大な影響力を利用するためだった。日本の内閣総理大臣を歴任した西園寺公望という大物政治家が亡命中の郭沫若の才能を高く評価し、しかも自宅まで招いたという噂が中国の新聞で報道されて以来、政府内の親日派のパイプが使えない親米派の蒋介石は、抗戦の先行きが極めて不透明な中で、郭沫若を懐柔することで日本政府との間に自ら把握できるパイプを敷くという考えがあったのも何の不思議もなかろう。同年九月二十四日、郭は南京に赴き蒋介石の接見を受けた。しかしその時、蒋介石は「相当な職務を与える」と口約束しただけだった。郭に政治部第三庁庁長の椅子に座らせたのは彼が香港から武漢に戻った後だった。

　三七年十一月、上海は日本軍によって占領された。その後、上海にいるはずの郭沫若は突然姿を消し、そして月末に香港に現れた。本人によれば、二度目の香港行きは「新聞社をつくるか、または他の文化事業を興すために華僑同胞から資金を集めに南洋に行くため」であり、「大後方に移って仕事を続ける」ためでもあったということだが（『抗戦回憶録』）、香港に着いてから共産党員の周揚たちと一緒に延安に行けばよかったとひどく後悔したことから判断すると、二度目の香港行きもやはり共産党組織の南下避難指令によるものだった。南洋募金計画は郭個人の考えに過ぎなかった。

　今度は敵に追われるという身の危険がないため、郭沫若は香港の中心地湾仔告士打道（GLOUCRSTER ROAD, WAN CHAI）七二号にある有名な八階建ての洋式ホテル六国飯店（Luk Kwok Hotel、現在は三十階建ての高層ビルになっている）に泊まっていた。短期滞在のためもちろん家族同伴ではなかった。十一月末に到着し、そして翌月六日に船で広州に向かった。僅か一週間足らずの滞在だったが、彼は港滬（香港と上海）文化界交歓会に出席し抗戦の情勢について扇動的な演説を行なった。そして自ら南洋へ渡る出国の手続きを済ませておいた。この一週間の間、彼は文化界の領袖として各界の集会に出席することに明け暮れていたが、文学創作活動は殆どしなかった。結局、南洋募金計画を中止させ、『救亡日報』を復活させるために広州へ戻ったのも、香港の街で日本亡命時に知り合った共産党員林林らと偶然に会ったのが原因であった。

　上海の陥落とそれに伴う国民政府の重慶への遷都は、抗日の感情が日々高ぶる一方の国民にとって耐え難い痛手であった。北京、上海からやってきた数多くの知識人は、故郷や長年の活動の場を離れることで意気消沈していた。郭沫若が周揚たちと一緒に延安に行けず、他の無党派人士に合流して香港にやってきたのは、上海の共産党地下組織から避難命令を受けたからだと思われる。おそらく組織が彼に伝えたのは延安にいた周恩来の指示であろう。ともあれ「占領区」を離れて南のどこでもいいから「国統区」にいれば、抗戦の宣伝活動を続けることができる。同年、共産党内部ではすでに郭沫若を病没した魯迅に代わって中国文化界の「旗手」に指定した以上、彼の身の安全を優先的に守らねばなるまい。したがって二度目の香港行きは、郭沫若にとって、その目的は単なる「避難」にすぎなかった。しかしこの香港避難こそ彼に広州へ戻って『救亡日報』を復活させ、そしてそれを舞台にそれまで以上に抗日の宣伝活動をパワフルに展開させるきっかけを与えてくれたのである。

　三七年十二月の一ヵ月間、郭沫若は『救亡日報』というメディアを最大限に駆使して抗戦の宣伝を行なっていた。こうした宣伝活動を通して顕われた彼の才能と、国民への多大な吸引力はいま一度、国共連合戦線の主導権を握る蒋介石に高く買われた。それが後日、政治部第三庁庁長に任命される重要な要素だったろう。

　四七年十一月十六日という日は郭沫若が三度目に香港にやってきた日である。今度は十年ぶりの香港にイギリスの大型定期客船に乗ってやってきた。

　この年の秋以後、国共両党の勢力のバランスが急速に逆転しはじめたため、左翼文化人たちが大勢集まる上海のような国統区では、白色テロの恐怖に包まれていた。共産党勢は全国の国統区に総攻撃をはじめる準備をする際、味方の左翼文化人たち、とりわけ指導者たちを国統区から「解放区」に移送することを怠らなかった。しかし当時、国統区から解放区へ直接行けるルートはなかったため、共産党は両方にも自由に行き来できるいわゆる「中間地帯」として香港を選んだ。郭沫若、茅盾、老舎、胡風といった無党派人士（あるいは秘密共産党員）は上海の共産党地下組織の手配によって数回に分けてその年の暮れまでに香港に護送されてきた。郭沫若の三度目の香港滞在はそれまでと事情を異にしていた。まず今回は中国学術工作者協会と中華全国文芸界協会の香港支部会のリーダーシップをとるという特別な使命を負っている。国民党政権の全面崩壊とそれに代わる新しい民主政権の誕生はもはや時間の問題だ。国民党政権の批判をつづけてきた左翼文化人たちは、新政権を維持するには必要不可欠な人材だから、香港に避難させておいた数多くの文化人たちをまとめる役目に相応しい人物として郭沫若を香港に赴かせたのである。

　郭沫若の三度目の香港滞在は三百七十二日間にわたる長期滞在だった。家族同伴で訪れたのははじめてだった。来た時は漢英と世英という男の子二人（三番目の夫人である于立群との間に生まれた子）を連れていて、尖沙咀弥敦道（NATHAN ROAD）十九―二一号にある九龍（ザ・カオルーン）ホテルに泊まっていた。しかし郭庶英の新著『我的父親郭沫若』（遼寧人民出版社二〇〇四年二月）によると、于立群夫人があと三人のこどもを連れて到着後、一家は柯士甸道（AUSTIN ROAD）にある洋式ビルに引っ越し、子供たちは近所の学校に通っていたということだが、ビルの名前が判明できないので郭沫若とその家族が一年間も住んでいたこの住所は特定できない。

　それまで二度の短期滞在と違って郭沫若は四七年十一月から翌四八年十一月二十三日、他の文化人たちと一緒に新政権の誕生を迎えるために北上するまでの間、香港で頻繁な政治活動と文化活動を指導しながら自らエネルギッシュな文学創作や文芸評論活動を展開した。前者については香港地元有力新聞『華商報』、『光明日報』および定期刊行物『文芸生活』、『自由叢刊』、『小説』、『大衆文芸叢刊』、『野草文叢』、『群集』などを辿ってその活動の足跡や、発表された作品を見つけることができる。後者に関しては郭沫若はこの一年間、香港で長編小説『抗戦回憶録』（後『洪波曲』に改名）を四八年八月～十二月『華商報』に連載させたのみならず、『沸羹集』、『天地玄黄』、『抱箭集』という三冊の雑文集と詩集『蜩螗集』を出版した。

　香港における郭沫若の文学活動というなら、まず四八年二月に書いた評論「斥反動文芸」について一言記すべきだろう。名指しで沈従文、蕭乾、朱光潜三人が主張する「文芸家には独立した人格を有し」、文芸を政治から切り離して扱うべきだという文芸観ないし世界観を容赦なく批判したこの論文では「人民を解放させる革命戦争を益する文芸が良い文芸であり、さもなければ悪い文芸である」という新たな敵か味方かの判断基準が提示された。このような味方でなければ必ず敵だという極めて単純化された価値観による文芸観は、明らかに毛沢東の「延安文芸座談会上的講話」の思想に基づいた発言にすぎなかった。三十年代後半から自由派文芸をめぐる論争は絶えなかったが、四八年五月香港で発行される『大衆文芸叢刊』に組まれた特集「文芸の新しい方向」（「斥反動文芸」は巻頭を飾った）をはじめとする一連の批判攻撃は、沈従文らと議論をするために仕掛けられたものではない。目的は彼らのような「自由派分子」を新しい文芸陣営から追放することにあった。沈はその時からすでにその重苦しい空気を読んでいた。そして自我を貫こうとするなら筆を折るしかないと感じたに違いない。

郭沫若の「斥反動文芸」には共産党勢力がまもなく全国を支配する直前の、数多くの左翼文化人の思想変化が見られる。彼らは間もなく誕生する共産党新政権に急速に帰順していく過程でまるで魔法をかけられたように、自分たちを含む文芸家の独立した人格への追求を放棄し、そしてそれを否定するようになった。郭沫若はこの面においてはまさに急先鋒の役割を果たしたと言っても過言ではなかろう。

　「斥反動文芸」は、現代中国文芸が独自な進化をとげる過程にある重要な節目、つまり転換期を端的に反映する貴重な文献である。そこからわれわれは次のような、四八年以降の中国文芸の潮流の変化が読み取れるのである。濃厚な民族意識と切り離せない五四以来の中国文芸は、社会主義新政権が誕生する前にはすでに質的な転換を見せた。そして文芸はそれまでの「国家」や「民族」意識と堅く結ばれる形態から、一政党または一政権と堅く結ばれる新しい形態に変わっていき、そしてこの新しい形態は後に現在までつづく社会主義文芸の基本形態となったのである。

＊郭沫若自伝および広東省掲陽市恵来県郷土資料以外の参考文献は『包恵僧回憶録』；朱其華『一九二七年底回憶』；蕭克『南昌起義』；盧瑋鑾『香港文學散歩』；香港『華商報』マイクロフィルム（1947.11―1948.11）；郭庶英『我的父親郭沫若』などである。

【資料紹介】

小崎太一

　以下は、『福岡日日新聞』一九一九年五月十日、第四面と第七面の間の欄外に置かれた記事である。当時「北京東京」では、今日でいう五四運動が盛り上がっていたが、福岡「九大」の中国人留学生は「其筋」の監視下に置かれ、何の活動もなかったことが記されている。

　問題はその福岡の中国人留学生の中に郭沫若が含まれる点である。郭と五四の関わりは、従来『創造十年』にいう「六月」の夏社の活動を指摘するのみだった。この資料が郭と五四の、五月の時点での関わりと、当時の閉息した雰囲気を説明している：

〈穏かな支那学生：北京東京学生に似ず九大学生は勉強一方〉

東京にて山東問題に関し支那留学生の不穏行動あるより支那人亦は支那留学生の滞留する地方にては其筋の警戒と内偵を怠らざりしが福岡にては工科大学生四名医科大学生六名都合十名の留学生あり他に呉服商其他数十名市内外に居住せるが学生は熟れも鎮静を守り商人等も別に不穏の情況なかりしが二三日前市外春吉滞在広東人某方に数名の支那人集合したりと聞き其筋にては直に内偵を遂げしに全く同郷人懇親会に過ぎず山東問題の如きは口を洩らしたる者さへなかりしと

【研究・交流活動】

〈郭沫若についてシンガポールで講演〉

藤田梨那

　今年の二月に、シンガポール国立大学及びシンガポール作家協会の招聘を受け、郭沫若文学について講演するため、シンガポールを訪問した。シンガポール国立大学助教授呉耀宗氏は昨年十月南京大学での学会で知り合った学者で、今回シンガポール訪問中ずっと親切に世話をしてくれた。

　二月二十日、シンガポール国立大学で、中国文学専攻の三年生を対象に講義をした。題目は「日本における郭沫若研究」。郭沫若の日本留学から政治亡命までの日本滞在期の状況を紹介し、日本文学者との交流、在日中創作した作品を紹介した。戦中戦後、日本での郭沫若研究の状況、特に文化大革命中の郭沫若の自己批判が日本に及ぼした影響など、九十分間にわたり話をした。

　翌二十一日、シンガポール作家協会と福建会館合同主催の講演会で、「私の祖父郭沫若」と題する講演を行った。聴衆は主に華僑であった。出席者は二百余人。郭沫若と郭安那の出会い、日本での生活、戦時中の亡命生活、香港での再会と別れを中心に話を進めた。更に天津テレビ局製作のドラマ「郭沫若と安那」の一部を放映して見せた。聴衆の半数は年配者で、郭沫若の作品をかなり読んでいた人が多く、皆さんが講演内容とドラマに大変興味を示してくれた。講演後、質問応答の時間が設けられた。皆さんは次々に質問に立って、公演内容を超えた質問も出て、大変賑やかな雰囲気であった。聴衆の中に以前大陸で郭沫若に会ったという方がいて、「シンガポールでその孫娘と会えて、とても嬉しい。」と興奮気味に語ってくれた。またある作曲家は自分の作曲した「鳳凰涅槃」の交響曲を是非聴いて感想を聞きたいと願い出た。皆さんがこんなに情熱と関心を示してくれたことは思いもよらなかった。講演会は大変賑やかな雰囲気の中で終わった。私は講演の成功に無論満足したが、しかしそれ以上に皆さんの熱心さに少なからず心を打たれた。郭沫若は一九三七年七月に秘密裏に日本を脱出して中国に帰る船上で、ある女性にサインを求められた時、「海内存知己、天涯若比隣」と書いた。私がシンガポールで受けた感想もこの一句で表現できるかと思う。

【編集後記】

四月の新学期が始まってからおよそ一カ月半経ちました。一年の中で最も多忙な時期であるこの五月に、われわれは日本郭沫若研究会報第四号（総No.5）の発行を迎えました。この紙面を借りて執筆してくださった方々に感謝の意を表すると共に、今回の発行が予定より遅れたことについて深くお詫びを申し上げたいと思います。