第 五 号(総No.6

 

 

目    次

    

 

【特別寄稿連載】

郭沫若――その一面(六)・・ ・・・・・・・・・丸山 昇

【文化の広場】

郭沫若の自己批判(連載)・・・・・・・・・ ・・武 継平  

郭沫若の古文字研究(連載)・・・・・・・・・・ 成家徹郎  

【文学散歩】              

郭沫若と巴金の間に起こったこと(連載)・・・・ 新谷秀明  

【会員新作論文紹介】          

天狗論・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ 藤田梨那  

【研究・交流活動】           

佐賀地区第二回郭沫若シンポ開催        事務局           

編集後記・お詫び・・・・・・・・・・・・・・・事務局

 

日本郭沫若研究会事務局

二〇〇四年九月十日発行

〒八一〇-八五六〇 福岡市中央区六本松四―二―一

九州大学高等教育総合開発研究センター武継平研究室

TelFax(〇九二)七二六-四六五一

E-mail: yanzipin@rche.kyushu-u.ac.jp

研究会ホームページ http://web.rche.kyushu-u.ac.jp/~guomoruo/

 

 

 

【特別寄稿連載その三】

 

郭沫若――その一面

 

丸山 昇 

 

 

〔六〕

 

  周 恩来と郭沫若の関係は国民革命当時以来のもので、文革当時にもそのため「四人組」の攻撃目標となった、といわれている。文革における郭沫若の位置は、最初 にも書いたようにまだ不明の部分が多く、全体像が明らかになるまでには、まだかなりの時間が必要だろうが、「批林批孔」のころ、名指しこそしていないが、 明らかに彼の文章を引用した批判があるのに気づき、やや心配しながら見ていたものだった。前掲の周揚の文章は、「四人組」が「批林批孔」に名を借りて精神 的にからんで彼をさいなんだこと、郭沫若が彼らの矛先が周恩来に向いていることを見ぬいて断固たる態度を示した、といっている。あるいは彼が「四人組」に 明確な反対の見解をいだくようになったのは、このころだったのかもしれない。

 しかしそういう憶測はともか く、文革への対し方を、外から見ているだけでも、郭沫若のそれはやはり周恩来、ケ小平のそれとは比すべくもない、という感じは否めない。郭沫若は文学者と してはあまりに政治的だ、という反撥が日本では根強いが、郭沫若の政治性は、いい意味でも悪い意味でも文学者の政治性に過ぎないのではないか、と私は思っ ている。もちろん私自身はそれほどのものをさえ持っていないことは棚に上げていうのである。

 それは「自伝」の最終巻「抗日 戦回想録」に出て来る周恩来と郭沫若を読み比べてみてもわかる。国共合作という複雑そのものの政治の焦点に立っているのだから、郭沫若の政治性もざらには ない類のものだが、それが周恩来の前ではいかにも線が細く見える、と感ずるのは、私だけではないはずである。国民党と錯綜下した不条理だらけの関係の中 で、何かというと疳を立てそうになる郭沫若を、周恩来は時には激励し、時にはなだめすかし、時には叱りつけて引っぱっている。

 彼の政治性の強みも弱みも含め た彼の全生涯、そのような彼の強さと弱さのすべてを含めて、私は彼の全生涯を、やはり「リーハイ」な中国近代史を、その激動にふさわしい幅で生き抜いた一 人の知識人、文学者、学者のそれとして、貴重なものに見る。そして、そのような人物として彼を送ることが、もっとも彼にふさわしい送り方ではないだろう か、と思うのである。(連載完了)

 

 

 

【文化の広場】

 

 

 

郭沫若の自己批判(連載その一)

 

 

 

武 継平

 

 

 

(一)

 

  文革が始まる一九六六年一 月、中国科学院党組書記張勁夫を通して中共中央に提出した辞表が却下された後、郭沫若の不安は募るばかりだった。北京大学にある「郭沫若批判」の大字報特 集欄に毎日のように郭沫若打倒を叫ぶ批判文が張り出されている。新聞や一部の文芸雑誌にも読むに耐えない名指し攻撃文章が掲載された。一月から友人親友呉 ヨの『海瑞罷官』、鄭拓、廖沫沙の『三家村』、翦伯賛の『中国史綱』、部下である田漢の『謝瑶環』、夏衍の『賽金花』などが次々と大毒草として全国公開批 判の槍玉に挙げられた。

『謝 瑶環』といい、『賽金花』といい、そして翦伯賛の歴史研究といい、郭沫若は嘗て極力賞賛していた。呉ヨの『海瑞罷官』について書いたものがとくにないよう だが、六一年の春海南島に行った時海瑞のお墓参りをした後、「民ニ違ワザル者ハ民ノ悦ブ所,史ニ存ス直言諫疎を敢センヤ」と賛辞を送ったことも鮮明に覚え ている。次にやられるのは間違いなく自分だろうと危惧し、そして激しく動揺しはじめた矢先に、「大参考(高級幹部しか読めない新華社内部刊行物)」が読め る郭沫若は三月に杭州で開かれた中共中央政治局常務委員会拡大会議での毛沢東主席の重要発言を知ることになった。毛沢東が言うには、「解放後の知識分子政 策には良い所もあれば悪いところもある。現在の学術界ではブルジョアジーが権力を握っている。……呉ヨ、翦伯賛のような人は共産党員だが、共産党に反対な ので実際は国民党だ!われわれは自分の若い学術権威を養成しなければならない。」

 毛沢東の発言はこれまで『二月提綱』で注意を呼びかけられたような、「〜同志」で呼びあう学術論争の範疇内に押さえるべき批判を一挙に敵味方の階級闘争にエスカレートさせたのである。

 四月十日、『林彪同志委托江青同志召開的部隊文芸工作座談会紀要』(以下『紀要』と略す)が共産党内部で伝達された。郭沫若は一九五八年再度入党したのでこの日に『紀要』を知ったのは何の不思議もない。

 

全 党はプロレタリア文化大革命の大旗を高く揚げ、反共産党、反社会主義のいわゆる学術権威たちの反動的なブルジョア立場を徹底的に暴露し、学術界、教育界、 マスコミ、文芸界および出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判せねばならない。そしてそれらの文化領域の指導権を奪還しなければならない。それを達成 するには、まず共産党内部、政府、軍もしくは文化領域に紛れ込んだブルジョアジーの代表人物を批判し、粛清せねばならない

 

右 記の内容が『紀要』の前書きに書かれた毛沢東の指示である。この時点で郭沫若は徹底的に幻滅の悲哀を味わわされたと言ってもよかろう。毛主席の指示で全党 に伝達された『紀要』は五四以来の文芸の発展をほぼ全面的に否定してしまった。自分のような「学術界」と「文芸界」にまたがる「権威」は正に「粛清」の対 象だ。現に呉ヨ、鄭拓、廖沫沙、翦伯らはすでに職を追われた。もはやこれ以上過去に固執してもしかたがない。このような幻滅感が終に彼を自暴自棄に陥れた のである。

 四月十四日、全人大常務委員会副委員長である郭沫若は全人代常務委員会第三十回会議で即席発言の形で内外を震撼させた自己批判を行った。

 

  数十年来、ずっとペンを持ってものを書き、そしていくらか翻訳もしました。字数から言えば、恐らく数百万字があったかもしれません。しかし、今日の基準を 持って判断するなら、以前書いたものは、厳格にいうなら、全て焼き尽くすべきで、まったく価値がありません……。わたくしは今労農兵に学ぶべきです。そし て彼らを師として仰がなければなりません。わたくしはすでに七十いくつになりましたが、志なら大きなものがあります。つまり全身泥まみれ、油汚れまみれ、 そして血まみれになりたい。もしもアメリカ帝国主義が攻撃してくるなら、彼らに向かって手榴弾でも投げたいものです……。

 

 郭沫若は自分の過去をすべて否 定してしまう発言をしたあと、仕事を放り出して妻于立群を連れて四川に帰っていった。彼は自分の自己批判の発言記録が康生の手に渡ったあと、毛沢東の指示 で『光明日報』に掲載され、そして最大の「党報」である『人民日報』に転載されることを知る由もなかった。

毛 沢東にとって、郭沫若の自己批判はプロレタリア独裁下で行われる旧知識人に対する思想改造の成功例であった。それまでには呉ヨ、翦伯賛らの自己批判がな かったわけではないが、いずれも隔靴掻痒の感があるし、旧知識人全般の共産党支配に対する不満を鎮静する効果は持たない。しかし郭沫若なら影響力が違う。 彼は事実上三十年代から国内知識人のリーダーだし、思想改造の良いモデルになるにちがいない。だから毛沢東は屈服した郭沫若に対して文革中でも「郭老の地 位を守り、決して「批闘」(「批闘」は対象の肉体をも痛めつけることも意味する)してはならない」といい、(その後郭沫若本人は自分が「全人大の(外国賓 客)接待係りにすぎないのだ」と自嘲していた点も看過できない)、屈しない翦伯賛らに対しては「反面教師として生かしておく」と言った。調べれば分かるの だが、その後老舎や翦伯賛のような、屈辱に耐えきれず、信念のために敢えて自決を選んだ優秀な知識人は大勢いた。

 

(二)

 

話 は変わるが、このような郭沫若の自己批判に対して、日本でいち早く反応を示したのは現代中国文学研究や翻訳に携わっている人たちだった。綿密に調べたわけ ではないが、私の知っている限りでは、郭沫若の文学作品を数多く訳出した須田貞一氏の「郭沫若の作品は焼かねばならぬか」(毎日新聞社1966 5月発行『エコノミスト』44-21)はおそらくその最初の一編であったろう。その後、竹内実氏の「郭沫若の自己批判と文化革命―包囲される中国歴史 学」(19665月『朝日ジャーナル』8-21)、荒正人氏の「郭沫若の自己批判」(改造社『文芸』19667月号)、山内悠氏の「頌歌の時代―文化 革命と郭沫若」(196612月『現代の理論』3-12)と影山三郎氏の「<魂にふれる>とはなにか?―郭沫若氏にきく文化大革命」 (19677月『朝日ジャーナル』9-28)などが発表された。そうした中で、六七年二月二十八日に発表された川端康成、石川淳、安部公房、三島由紀夫 四人の連名による日本側の抗議声明が出されたエピソードもある。三島由紀夫が執筆したこの抗議文は発表当時よく知られたものの、今はその存在すら知られて いないようだ。

以下はその抗議声明文である。

 

昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、時々刻々に変貌する政治権力の恣意によって学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあって文筆に携はる者として、座視するには忍ばざるものがある。

 この政治革命の現象にとら はれて、芸術家としての態度決定を故意に保留するが如きは、われわれのとるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに 学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものであ る。

わ れわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、 またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。

           ――「文化大革命に関する声明」

 

郭 沫若の自己批判が右記の抗議声明が出された直接なきっかけかどうか定かではないが、否定はできない要因だと思う。呉ヨ、翦伯賛はともかく、日本でもよく知 られる著名文学者の老舎、田漢、夏衍なども次々と批判を受けて打倒されていくのを隣邦の日本にいる文化人たちは見ていたのである(ただ彼らが自殺に追い込 まれた情報は完全に封殺されていたので国外ではそれを知る由もなかった)。川端、三島らは素直にそれが文化大革命の中で知識人が迫害を受けていた証拠だと 認識していた。彼らが最も「座視するには忍ばざるもの」は「政治権力の恣意によって学問芸術の自律性が犯された」ことであった。科学院長で、「文聯」主席 の座にいる郭沫若の自己批判を「学問芸術の自由の圧殺」と見なしていただろう。

一 方、完全に引退する本人の意思とは裏腹に、郭沫若は否応無しに政治の舞台に押し出された以上、こうした内外の世論の対処に追われるはめになった。彼は七月 四日に北京で開かれたアジア・アフリカ作家緊急会議に中国作家代表団団長の身分で出席し、「資本主義国家と現代修正主義国家の新聞や雑誌ではかなり大規模 な反中風潮が巻き起こされている。それらのものはわが国の文化大革命に反対するために私の発言を故意に歪曲した」と国外の批判的世論を撥ね返す一方、「私 は自分自身を批判した。……それは私の責任感の昇華であり、私の心の奥底から出た本音だ……。人民に対して責任感のある革命的作家は絶えず自己改造をし、 厳しい自己批判を行わねばならない。我々のところでは、これはごく当たり前のことだ」と極力弁明している。

郭沫若が指摘した外国マスコミの「歪曲」が川端、三島ら四人の抗議声明とは何の関係もないことは明らかだが、「おもしろいことに、私の自己批判が強制されたものだと放言し、自分の本を焚こうというのは、二千年前に「焚書坑儒」した始皇帝よりも横暴かつ傲慢ではないかという日本人批評家がいる(1966.7.5『人民日報』)」と日本人名指しで非難したところは、端的に「焚書」発言に対する日本側のマイナス評価を物語っている。

以上のような公の場における郭沫若の釈明に対して、「本音」と言っているからにはもはや嘘はあるまいと日本側はそのまま納得したようである。そうでなければ、あれだけ盛り上がった郭沫若研究は文革中突然挫折したりはしなかったはずである。

 

(三)

 

次は郭沫若の自己批判以後の言動を見てみたい。これは今まで全く知られていないといっても過言ではないと思う。どれが嘘(ごまかし)で、どれが本音か識者の判断に委ねたい。

自 己批判の発言が『人民日報』に公表された十日後、郭沫若は日本自由民主党顧問の松村謙三氏一行と自宅で会見した。その際、なぜ焚書の発言をしたのかという 質問が出た。郭沫若は書斎にずらりと並んでいる書棚を指して「ほら、本はちゃんとそこにあるんじゃありませんか!……私は本を焼くべきだというのは私自身 を否定することで、“鳳凰涅槃”という意味にすぎないですよ」と躱したという(1966.5.15『人民日報』;王廷芳「周総理和郭老的友誼」)。

一 年後、徐正之という青年教師から「焚書は何の問題解決にもならないし、科学的な方法でもない。真の共産党員は真理を堅持し、過ちを是正すべきだ」との指摘 を受けた。郭沫若は返信の中で、「鳳凰は五百年ごとに自ら焼身し火の中から再生せねばならない。私が焚書を言ったのは正にその意味だ」と一蹴した(『郭沫 若書信集』下、p409)。私信のやりとりとはいえ、徐氏の手紙は『人民日報』編集部に送りつけられたもので、編集部の人がそれを読んだ後、郭沫若に転送したのだから、郭沫若の返信は一種の「公開状」と見るべきであろう。

七 二年十月、京都の雄渾社は郭沫若選集の出版企画をはじめた。著者の意思を確認すべく斡旋者の柘植秀臣氏が郭沫若の自宅を訪ねた。会見の同席者だった戈宝権 氏の回想記によれば、日本側の企画に郭沫若は非常に協力的だったという。七二年は文革の真っ最中である。紅衛兵運動の中で最愛の息子を二人も亡くした郭沫 若の処遇は決してよくなかった。

そ んな彼は自分の「焚書」発言、そしてその後アジア・アフリカ作家緊急会議での「本音釈明」を忘れたはずはない。雄渾社の全十七巻の出版企画に支持を表明す るということは自己否定していないばかりか、その「毒素」を世界にばら撒きたいというふうに文革派に取られかねない。なのに、それでも「焚書」発言を覆す ような行動に出るというのは、そもそも最初から「焚書」、つまり自分の過去を葬る意思はなかったのではないか。あのような自虐的な発言をしなければならな いのは、言ってみれば一種の生き延びるための姑息の手段で、よくある政治家の保身術にすぎないと見るべきかもしれない。

七八年に他界するまで郭沫若は公の場で六六年の自己批判が嘘だと明言したことがないのである。しかし、九〇年代以後に出版された『郭沫若書信集』(黄淳浩編,中国社会科学出版社1992)や近刊『忘年交―私と郭沫若、田漢との交友』(陳明遠著,学林出版社1999)等では、文革中に毛沢東に迎合するために人格を犠牲にしても惜しまぬように見えた彼には、われわれの知らないもう一つの側面があることが分かる。(未完。つづきをクリックしたら後半が見られる。)

 

 

 

 

郭沫若の古文字研究(連載その一)

 

 

 

成家徹郎

 

 

 

 郭沫若は古代文字(甲骨文と青 銅器銘文)に関するたくさんの著作を出版した。しかしそれらの著作時期をみると、日本に亡命していた時期(一九二八―一九三七)に集中していたことが分か る。彼は青年時代はずっと文学を志向し、実際、亡命する以前は、詩や小説あるいは翻訳の仕事ばかりであって、古文字に関する著作は一篇もない。彼が日本に 亡命してから、ただちに古文字研究に着手したのはなぜであろう? そのわけは、当時の中国の社会情勢と大きく関わっている。

 一九二六年に蒋介石は北伐の軍 事行動を起こした。郭沫若も参加した。ところが一九二七年四月十二日、蒋介石は上海クーデターによって共産主義と労働運動を徹底的に弾圧する姿勢をとっ た。郭沫若もこの影響を受けて、日本への亡命を余儀なくされたのであった。中国内では共産党の活動は沈滞化し、これまでの行動に疑問を示す人も出てきた。 また、共産主義の理論が中国に対しても適用できるのか、という懐疑的空気が濃くなってきた。当時、中国の歴史に対して、欧米や日本の見方は次のようなもの であった。

「シナは古代においてすでに、今 日のような状態に達していた。というのは、客観的な存在と、それに対する主観的な運動との間の対立がまだないために、変化というものは一切なく、いつまで も同一のものが繰り返して現われるという「停滞性」が、われわれが歴史的なものと呼ぶものに取って代わっているからである。だから、シナとインドは本当の 意味では、まだ世界史の圏外にある。」(ヘーゲル『歴史哲学』上、岩波文庫 p.238

 つまり、中国とインドだけは歴 史の発展の法則からはずれている、という見方である。この見方と、中国において共産主義運動が沈滞している現状を重ねて見たとき、中国においては、共産主 義革命の実現は不可能ではないのか、と悲観的気持ちが支配的になったのは無理もなかった。

 郭沫若が、中国の最も古い文字 である甲骨文に着目し、中国古代史の研究をここから始めたのは、中国の歴史も歴史の普遍的法則からはずれているのではないことを証明するためであった。彼 が古代史の研究に没頭したのは、決して古代の歴史に関心が向かったのではなく、関心の主題はどこまでも、これから先の共産主義運動をどうするか、であっ た。彼の『中国古代社会研究』の「序」(一九二九年九月二十日)は、この意図を明確に述べている。

「未来社会に対する展望は、過去の社会を清算せざるを得ない状況に我々を追いこんでいる。古人は言った「前事は忘れず、後事の師とする」。過去の歴史を正しく認識することが、我々の未来の正しい進路を決定するうえで非常に有効である。

 一個の人体でさえあれば、その発展は、皮膚の色にかかわらずだいたい同じである。人が組織するところの社会もまさしく同様である。

 中国人はよく口ぐせで言う「我々の国情は同じではない(例外である)」。この種の民族的偏見はたいていどの民族も持っている。

 しかし、中国人は神でもないし、猿でもない。中国人の組織する社会が何か同じでないところがあるはずがない。」

 中国の古代文献は周族の思想あ るいは儒教思想によって粉飾されている。そしてそれをずっとあたりまえのことと思ってきた。しかしそれらは御用学者によって、削除され、改造され、曲解さ れたものばかりである。これらにばかり頼っては、古代社会の真相を窮めることはできない。そこで、最も古い文字資料である甲骨文および周代の同時代資料で あるところの周代金文によって研究する必要があると考えた。

 まず甲骨文の研究に着手した。 しかし、この方面の知識はまったくない。当時、東京の本郷に、漢籍や古文字関係の書籍を専門に扱っていた文求堂書店があった。その書店の主人は田中慶太郎 といった。彼はまずそこへ行って羅振玉の著作を見た。彼はそれを欲しかったが、買うだけの金を持っていなかった。田中慶太郎は、東洋文庫へ行くことを勧め た。彼はこの勧めにしたがって東洋文庫へ行き、ここで王国維や羅振玉の著作などを集中的に読んで、甲骨文の基礎知識を習得した。彼が甲骨文を一応読めるま でに達するのに一年を要しなかった。そして精力的にこの方面を研究し、亡命期間中に実にたくさんの労作を発表した。

最初の著作:『中国古代社会研 究』「卜辞中之古代社会」『中国古代社会研究』の内容について言うと、「自序」「解題」の後に「導論」がある。それは「中国社会之歴史的発展階段」という 見出しになっており、彼はここで新しい史観を提示する。その後に、具体的研究に入っていく。そして第三篇は「卜辞中之古代社会」である。この中で彼はま ず、甲骨が初めて出土した時の状況と甲骨学の初期について述べている。そして、卜辞を利用して商代社会を探求する研究に進む。“物質の生産力は一切の社会 現象の基礎である。”この認識に基づいて、卜辞の中から生産に関する記録を探した。「漁猟」「牧畜」「農業」「工芸」「貿易」これら各分野に分けて、卜辞 にもとづいて考察した。そして次のような結論に達した。“商代の産業は、牧畜から農業に発展する段階にある。”

 この結論は、七十年後の我々が見ても妥当であると思う。

『中国古代社会研究』は、それま で誰も夢想だにしなかった新しい視点で書かれた中国古代史であった。中国の古代史に関心のある文化人知識人に大きな影響を与え、文化界に衝撃を与えた。純 粋の学術書であるにもかかわらず、たちまち売り切れて、増刷された。革命運動の衰退で落ち込んでいた中国共産党員やシンパの将来に希望の光をもたらしたで あろうと私は推測する。古文字記録を利用して、当時の社会を研究するという姿勢は、現代の古文字研究者にはあまり見られない。郭沫若の画期的研究姿勢がい ま忘れられて、かえって伝統的金石学にもどっているという印象がある。また先秦文献に対して中国ではずっと、ほとんど崇拝に近い扱いであった。郭氏の文献 記録の信頼性を疑うという気持ちが、甲骨文や金文に対して目を向けさせた。同じ時期に、同様の姿勢を示した人として顧頡剛がいた。しかし郭沫若が彼の影響 を受けたことはなかったらしい。当時の進歩的知識人の間に広まった新しい潮流であったのだろう。ところが近年、李学勤は「走出疑古時代」という一文を書 き、疑古派に対して批判的態度を示した。古代の文献記録は信ずるに足る、という姿勢である。いま狭隘な愛国主義と民族主義のために、この風潮が中国の歴史 学界や考古学界をおおっている。広い視野をもって研究した郭沫若の画期的業績がいま忘れられている。(未完。つづきをクリックしたら後半が見られる。)

 

 

 

 

【文学散歩】

 

 

 

郭沫若と巴金の間に起こったこと(連載その一)

 

 

 

新谷秀明

 

 

 

 すでに十七、八年前のことにな るが、中国現代文学の研究を志し修士課程に入った私は上海の復旦大学に公費留学する機会を得た。現在の発展した上海に比べ八〇年代後半の上海がどうであっ たかということに関してはいろいろと書きたいことはあるが、今回はそれを書くのが目的ではなくて、この留学中に知ることとなった、郭沫若と巴金の若きころ の小さな論争、およびその後の事情について書いてみたい。

 修士論文のテーマを巴金のア ナーキズム思想に絞っていた私は、当時出ていた『巴金文集』などには収録されていない一九二〇年代の巴金の文章を、上海図書館や復旦の図書館などに通いな がらコツコツと収集していた。唯一の手がかりは、李存光編『巴金研究資料』(海峡文芸出版社)中巻に収められている「巴金著訳系年目録」であった。李存光 氏が長年の努力により作られたこの目録に記載されている巴金のこまごまとした著作の原載誌を、一つ一つ図書館のカードや目録で調べ、所蔵されているものは すべて借り出して読んだ。このころの図書館は旧雑誌のコピーは容易には許可されない状況であり、またコピーができたとしても法外な資料費を要求されること があったので、懐の寂しい留学生としてはそんな贅沢はできない。時間は十分にあったから、ほとんど手書きでノートに写していた。それにその頃は図書館に集 まる中国の研究者も資料をコピーするということはほとんどしていなかったから、私も郷に入れば俗に随えを決め込んで、気長に巴金の文章を写し続けた。その 後数年たって『巴金全集』が出版され始め、その頃手書きで写した文章群の多くが収録されているのを知ったときにはさすがにがっくりきたが、青春とは無駄な 時間を過ごすものと自らを納得させた。

 こういう日々を送っていた時、巴 金が一九二六年に『時事新報』副刊『学灯』に発表した「馬克思主義的売淫婦」(署名は字の「芾甘」を用いている)という短い文章を読んで、小さな衝撃を覚 えた。この小文は、郭沫若を批判したものであった。マルクス主義の売春婦という扇動的な表題はカオツキー(ドイツの社会主義思想家)がレーニンを批判した ときに用いた言葉を流用しているらしいが、それはまさに郭沫若のことを指していたのである。一九二六年頃の郭沫若といえば創造社の発足からすでに五年、文 学的な成功を収め、さらに国民革命軍総政治部副主任に就くなど政治の舞台でも重要な位置を占め始めていた頃。一般的にも知名度は低くはなかったはずであ る。いっぽう巴金は二十一歳、フランス留学を前にして上海で盛んにアナーキズムにかかわる評論文を書き、あちこちの新聞雑誌に発表していた頃だが、まだ巴 金というペンネームさえ持たない無名時代であった。あたかも血気盛んな若者が大御所に噛み付いたといった風情であり、一般に知られている良心の作家#b 金のイメージからはずいぶんかけ離れたアナーキスト青年李芾甘の姿を行間に見出したような気がして、私は静かな図書館でひとり興奮しながらその文章を書き 写した。

 私事はさておき、この両者の応酬はどのようなものであったのか。以下、私が当時まとめた未熟な修士論文(のちに「巴金初期思想論」として『樋口進先生古希記念中国現代文学論集』に収録、一九九〇年、中国書店)からしばらく引用する。

 

*   *   *

 

……事の起こりは、創造社の機関 誌『洪水』(半月刊)第一巻第八期に郭沫若が発表した「新国家的創造」と題する一文に巴金が反論したことに始まる。この前後の『洪水』は、郭沫若を中心と して、マルクス主義的観点からいわゆる「国家主義者」との論争を展開しており、「新国家的創造」もその論争の一部をなすわけだが、巴金は無政府主義者とし ての立場からこの論争に割り込んだのである。

 「新国家的創造」で郭沫若は、 『共産党宣言』に表されているマルクスの国家観について、「マルクスは国家の存在を否定しない。ただマルクスの認める国家は私有財産制度の上に成立した既 成の国家とは異なる」と解釈し、プロレタリアートによって構成される「新国家」の建設を主張する。これに対して巴金は「馬克思主義的売淫婦」を著し、エン ゲルスの「プロレタリアートが政権を獲得し、生産機関を国有に帰せしめたのち、国家は消滅する」(「空想的社会主義と科学的社会主義」)という理論を根拠 に、郭沫若の「新国家」説はマルクス主義への無理解であるとした上で、マルクス主義が国家を消滅させるために用いる手段はその目的を達することができな い、つまり権力の集中した独裁国家は自ら消滅することができないという「再論無産階級専政」等で述べた論点を強調する。これに対する郭沫若の態度は「売淫 婦的饒舌」(『洪水』第二巻第十四期、一九二六年四月一日)に表されているが、実はこの文章は国家主義派の論客郭心ッの「馬克思主義与国家――評郭沫若先 生『新国家的創造』」(『独立青年』第一巻第三期、一九二六年三月)に対する再反論が主な論旨で、巴金に対しては、

 

意 外であったのは一人の無政府主義者の青年が『学灯』に文章を書き、カウツキーがレーニンを罵った言葉を借りて私を「マルクス主義の売春婦」と罵り、マルク スは国家を否定するのだという。このように言うなら、まるで彼らが極端に反対するマルクスを、彼らが極端に崇拝するクロポトキンにしたてあげているかのよ うで、いささか滑稽に過ぎると思うし、作者の態度も礼を失するので、私は今まで返答をしていない。

 

と一蹴し、その後は全く無視してい る。巴金の文章は、例えば「郭君にはこれから詩をたくさん作って、主義をあまり語らないようにお勧めする」などと言うように、確かに相手を愚弄する調子で あったので、郭沫若の不興を買ったのもうなづけよう。あるいは、全般的情勢として無政府主義が衰退の一途をたどっていたこの時点で、郭沫若の方で無政府主 義者など最初から眼中になく、論敵に値するとさえ思っていなかったということもあるだろう。巴金はこの後、「答郭沫若的『売淫婦的饒舌』」(『学灯』一九 二六年四月五日号)と「洗一洗不白之冤」(『洪水』第二巻十五期、一九二六年四月十六日)を書き、郭沫若に対して再び攻撃をしかけているが、郭沫若は全く とりあっていないようである。したがって実際には論争の体を成しておらず、確執と言った方がよいかもしれない。また、ずっと後のことになるが、一九二九年 三月発行の『自由月刊』第三期に巴金は「郭沫若的堕落」、「郭沫若的週刊」、「『浮士徳』裏的妙句」の三篇の短文を書き、郭沫若の翻訳のあら探しをしてい る。少なくともこの頃まで郭沫若に対して感情的なものが尾を引いていたようである。……

 

*   *   *

 

 一九二五年から二六年頃は、巴金 やその周囲にいたアナーキストたちがこぞってマルクス主義思想あるいは革命ロシアの現実を批判している。引用文中にある「再論無産階級専政」も巴金が書い た一連のマルクス主義批判文の一つであり、郭沫若批判もその延長線上にあった。ところが郭沫若は巴金の批判に対してまともに反論せず黙殺しているのだか ら、この論争ともいえない論争は当時からそれほど注目もされずに見過ごされた。郭沫若に軽くあしらわれたことで若い巴金が相当頭にきていたらしいことは、 右の引用にあるようにその後の巴金のいくつかの文章からもわかる。『自由月刊』は巴金がフランスから帰国後上海で編集していたアナーキズム宣伝中心の月刊 誌だが、埋め草のつもりだったのか、彼は同じ号に三つも文章を書いて郭沫若を攻撃している。もっともこの時は主義思想の問題から離れて翻訳の誤りを指摘し ているにすぎない。ちなみに同じ頃『小説月報』では小説「滅亡」が連載され、作家・巴金が誕生している。(未完。つづきをクリックしたら後半が見られる。)

 

 

 

【会員新作論文紹介】

 

 

 

郭沫若の「天狗」論概要

The Study of GuoMoRuo`s Poem [Tiangou]

                      

 

 

藤田梨那

 

〈キーワード:天狗(天の犬)、大宇宙と小宇宙、解剖〉

 

詩 「天狗」はその題名が示すように、中国では古来よりマイナスイメージを持っていたがために、また、修飾に無頓着で大胆奔放なるがゆえに、幾度か研究者の目 を曇らせてきた。しかしもしわれわれは作者がこの詩を創作した時期、すなわち九州帝国大学医学部留学中に体験したことを細心に検証すれば、その奔放さの背 後に堅固としたある精神が鼓動しているのを発見し、この詩の真意がはっきりと見えてくる。

「天狗」を研究するにあたって、 まず天狗のイメージを日本に伝わる天狗と区別して、「山海経」、「史記」「漢書」及び中国民間伝説に登場する想像上の天の狗であることを明確にしなければ ならない。詩の主題及びそれを支える基盤については、筆者は小宇宙と大宇宙の融合という郭沫若の考え方と九州大学で体験した人体解剖を重視する。この二つ の問題に関して、「天狗」とほぼ同時期に書かれた「生命の文学」と詩「解剖室中」より根拠とヒントを取り、哲学と科学の両面から分析した。筆者が最も注目 したのは、解剖体験が郭沫若にどんな影響と効果をもたらしたか、科学的精神が彼の中でどのように発展したかという点である。封建社会の中で成長した彼に とって解剖は新鮮で且つ厳粛な体験であった。解剖学を含め、九州大学で学んだ自然科学や医学は彼に自然、社会、宇宙を見る新しい視野を開いてくれた。彼の 自己探求、いわば精神世界において、科学精神が浸透し、自己解剖を促し、自我意識の根底を支える礎の一つになった。本詩が表現したのは、詩人が目指した自 己完成の境地と詩人が味わった自我精神の高揚である。

 

 

【研究・交流活動】

 

 

 

佐賀県富士町熊の川温泉「楽山山荘」訪問

 

 

七月十八日、関東地区藤田梨那会員はシンガポール大学助教授呉耀宗氏と共に九州大学に訪れ、当研究会九州部会に出席した。翌日、佐賀富士町熊の川温泉に新たらしくできた「楽山山荘」を訪問し、佐賀日中友好協会の方たちと懇談した。

 

 

 

 

 

 

佐賀地区第二回郭沫若シンポ開催

 

 

二〇〇一年二月四日佐賀県富士町熊の川温泉で開かれた第一回郭沫若シンポジュウムに続いて、今年の八月二十一日、佐賀地区日中友好協会主催の第二回郭沫若シンポジュウムが佐賀市保健福祉会館で開催された。

大 会当日、佐賀県日中友好協会関係者のみなさんをはじめ、六十四名の佐賀市民および地元のメディア関係者が駆けつけてくれた。佐賀市在住の郷土史家牧山敏浩 氏と当研究会武継平事務局長はそれぞれ「郭沫若と佐賀富士町」と「郭沫若と福岡」を題に基調講演を行なった。開会中、文学者および革命活動家としての郭沫 若の全体像を紹介するためにプロジェクターを駆使し、数多くの貴重な写真や画像を大型スクリーンに投射しながら解説を行った。地元佐賀新聞は翌日「郭沫若 氏の人間像に迫る」を題にシンポジュウムの開催を報道し、なお、八月三十日放送開始した新しい佐賀市インターネット放送BCSS局はその録画を九月二日と九日二回にわけて放送した。(事務局) 

 

 

 

 

【編集後記】

 

☆  一ヶ月余りの夏休みがあっという間に過ぎてしまい、ついに会報第五号を発行する日を迎えました。この一ヶ月の間、皆さんは在外研究や他の原稿の執筆に没 頭していたことと存じます。そのせいもあるかと思いますが、もともと予定していた投稿が何かの原因で中止となったという予期せぬこともあったので、今回会 報第五号の投稿は期待していたほど集まりませんでした。会報の将来を案じつつ、とりあえずもともと三回連載を予定していた武継平、新谷秀明、成家徹郎(新 会員)三人の文章をわたくしの独断と偏見で二回に分けて掲載させてもらうことにしました。これでやっと十六ページが保たれたのです。無理して格好を付ける なと皆さんのお叱りを受けるかもしれないが、発行当時のわずか四ページしかない薄っぺらなものには絶対戻りたくない、というのは編集責任にあたるわたくし の気持ちです。次号は武、新谷、成家三会員の文章の後半を掲載しますが、皆さんからもっともっと沢山のご投稿を期待しております。よろしくお願いいたしま す。

          (武 継平)

 

【お詫び】

 

 

☆ 前号丸山先生の「郭沫若――その一面」の三、四、五を連載しましたが、わたくしの不注意で「連載完了」と誤記してしまいました。今号はつづけて最後の「六」の部分を連載します。この場を借りて深くお詫び申し上げます。