「佐々木文書」について


 全67点(中世文書13点・近世文書54点)から成る「佐々木文書」(個人蔵)は現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託されており、うち中世文書については山口隼正「佐々木文書—中世肥前国関係史料拾遺—」(『九州史学』125、2000年)ではじめて紹介された。それらは、α平安末期〜鎌倉初期の「肥前国押領使」関係文書(No.1〜7)、β正応元年(1288)の肥前国山田荘関係の北条為時袖判下文2通(No.8, 9)γ室町期の肥前国北高来一揆関係文書(No.10〜13)に大別される。とりわけαは平氏や鎌倉幕府の肥前支配を検討するうえで、きわめて興味深い内容を有している。ただし山口氏も「写しと思われ、不安定なもの(疑問点ある)もあり、いわゆる原本主義からは程遠い史料群」と評したように、取り扱いには慎重さが求められるものでもある。早く外山幹夫「肥前国高来東郷・高来西郷と高来一揆」(初出2000年、同『中世長崎の基礎的研究』思文閣出版、2011年に再録)や髙橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ、2007年)で利用はされているものの、そこでは書誌的検討を欠く。また『太宰府市史』中世資料編がNo.1, 2文書を収載しつつ若干の検討をし、高橋秀樹『中世の家と性』(山川出版社日本史リブレット20、2004年)がNo.3文書を紹介して「室町時代後期の写ではあるが、文字は原本に忠実に写したと思われる」と評した以外には、書誌的検討もなされていない。

 私は、翻刻で知られる佐々木文書の内容が、特に肥前大川文書の記述との整合的理解が可能であり、一定の事実を反映したものとの見通しを得たうえで、2012年2月15日に、黎明館にて実見の機会をもつことができた。その結果、筆蹟はそれぞれ異なり、紙質は似通ったものが多いが、すべて同一とは断じられず、また筆致も含めてどれも中世のものとして違和感がないこと。No.4文書で施行されることから同じく文治3年と考えられるNo.6文書の頼朝花押が、その頃の形態に適うこと。No.3文書の御家人名下に副えられた「奉」の字体が、それぞれ変えられていること。数日違いの北条為時袖判下文であるNo.8, 9は同一の筆蹟だが、きわめて似通った筆蹟の為時発給文書が河上神社文書・松浦山代文書・高城寺文書にみられること。以上から、佐々木文書は写であるとしても中世のうちに、ある程度原本に忠実に書写されたものであるという所感を得た。ただしNo.1, 2文書については、書写に際して多少の文飾・改竄がなされた可能性も否定しきれない。

 以上のことについては、拙稿「院政期の肥前社会と荘園制」(『熊本史学』95・96、2012年)」でも論じたが、その当否を含め佐々木文書についての検討を深めていくためには、まずはその存在が広く知られることが肝要であろう。とりわけ、写としての信頼性が問われる以上、多くの研究者による実見が望まれるところであるが、それは容易ではない。山口論考ではすべての花押と一部の文書の写真は掲載されているが、せめて全文書を写真にて閲覧可能にはできないだろうか。そのように考え、黎明館の許諾のもとに、私が撮影した写真を、ここに公開できることとなった。ただし文書撮影に不慣れな者が自身の備忘用に撮影したものであるため、保護シートに窓からの光が反射しているなど、写真としての品質は褒められたものでないこと、許していただきたい。また許諾条件上、画像のダウンロードは認められないため、そのための技術的処理も施している。

小川 弘和


1.平清盛下文
1.平清盛下文
2.平清盛御教書_1
2.平清盛御教書_1
2.平清盛御教書_2
2.平清盛御教書_2
3.肥前御家人廻文_1
3.肥前御家人廻文_1
3.肥前御家人廻文_2
3.肥前御家人廻文_2
3.肥前御家人廻文_3
3.肥前御家人廻文_3
4.藤原某下文
4.藤原某下文
5.藤原某書状
5.藤原某書状
6.源頼朝袖判奉書
6.源頼朝袖判奉書
7.某下文
7.某下文
8.北条為時袖判下文
8.北条為時袖判下文
9.北条為時袖判下文
9.北条為時袖判下文
10.足利義教御内書
10.足利義教御内書
11.室町幕府御教書
11.室町幕府御教書
12.大内教弘書状
12.大内教弘書状
13.資通等連署契状
13.資通等連署契状
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