(ジェーンズ邸)2289字
一八七〇年(明治三)の藩政改革により翌年設置された洋学校の教師として招聘されたジェーンズ及びその家族のために古城の一角に建設された住宅。ジェーンズが熊本を離れた後も取り壊されることなく使われ続け、三回の移築を経て、現在は水前寺公園の裏手にある。熊本県下で現存最古の洋風建築である。
ジェーンズを招いた時、東京において一八七一年(明治四)七月二十七日付けで、熊本県権大参事有吉立愛とジェーンズとの間で契約書が交わされ、その第三条には「カピテーンゼンス氏ノ為メ西洋製造ノ住家ヲ設ケ可相渡」と書かれている。しかしジェーンズが熊本に来た八月にはまだ完成しておらず、十月になり完成した。なお、「余田司馬人氏熊本洋学校の話」(改訂肥後藩国事史料 巻十)ではジェーンズ来熊の際には既に落成していたと書かれている。
ジェーンズの住まいを建築するにあたっては、熊本には洋風の住宅を建てた経験のある大工がいないことから、長崎から大工を雇って請け負わせた。その大工は「西洋建築頭梁辰吉」であるとする文献があるが、詳細は不明である。
ジェーンズが来熊し一家で長岡監物の招待を受けた際、閉め切った部屋に火鉢がおかれ家族が次々と二酸化炭素中毒で倒れた経験から、ジェーンズは暖炉と煙突をつけるよう強く指導したという。ただ当時熊本ではれんがを焼く技術がなく、煙突は石造であった。このれんが造の煙突も建物自体も、ジェーンズが生活した五年間に地震や台風に襲われたが、損害はなかったという。
ジェーンズは一家四人で来熊し、熊本滞在中に二人の子供が誕生し一家六人となった。その他数名の使用人がいたが、彼らがジェーンズ邸をどのように使用しどのような生活をしたのかは分かっていない。
ジェーンズが離熊した後 西南戦争の際には、政府軍の本営となり、一八七八年(明治十)五月征討総督有栖川宮により、日本赤十字の前身博愛社の設立がこの建物の二階で許可された。西南戦争後は、近くにあった県庁の官舎として使用されたとされ、後に京都府知事になり琵琶湖疎水建設に力を注いだ北垣国道も熊本県大書記官時代ここに住んだものと思われる。
一八九四年(明治二八)、現在の熊本北警察署北側に県の観聚館(後、物産館に名称変更)が設置された際、その前年に集議所洋館として、古城から移築された。その後、熊本県工業学校の校長室、九州沖縄八県連合共進会事務所、県立高等女学校職員室等、日露戦争後のロシア軍将校の収容所、第一次世界大戦後はドイツ兵の収容所にと様々な用途にも使用された。
そのうち、この建物がジェーンズが住んだ住宅であることが人々の記憶から薄れていったが、一九三一年(昭和六)、日赤本社は日赤創立以来の歴史画を作成するため、ジェーンズ邸の所在等を熊本支部に問い合わせてきた。熊本県物産館内の建物が、日赤ゆかりの重要な建物であることが明らかになり、日赤はこの建物を保存することを決定した。一方、県議会は物産館を同年限りで廃止することを決議しており、ジェーンズ邸は、一九三二年(昭和七)現在の水道町にあった日赤熊本支部構内に移築され、「日本赤十字社熊本支部記念館」となった。その後、支部事務所としても使用された。第二次世界大戦中の熊本大空襲による火災にも遭わなかったため、診療所としても使われた。一九六四年(昭和三九)には日赤血液センターとなった。一九六七年(昭和四二)になり、日赤熊本県支部事務局と血液センターの合同社屋が完成したのに伴いジェーンズ邸は日赤から熊本市に無償譲渡された。一九七〇年(昭和四五)、水前寺の現在地に移築され、同年熊本市の、翌年には熊本県の文化財に指定された。
現在の建物は、木造二階建て、屋根は瓦葺きで寄棟、左右対称の外観を持ち、基壇の上に建つ。一、二階とも前面及び両側面手前側に広いベランダを持つ。移築報告書によれば一間を六尺五寸として桁行方向九・一間、梁間方向六・五間。ベランダの柱や外壁で囲まれた建築面積はほぼ七十九坪である。内部は一、二階とも正面中央から奥に向かう中廊下があり、その左右に部屋を配置している。二度の移築の間に、当初なかったものが付け加えられたり、当初の形や材料が分からなくなったもののあり、三度目の移築では建設当初の写真を基にできる限り忠実に復元されている。当初はなくその後つけ加えられたむくり屋根をもつ玄関は撤去され、当初あったはずの暖炉と煙突は無くなっていたが、長崎のグラバー邸の暖炉を参考に復元された。室内の天井も板張りとなっていたが、西南戦争時の室内画をもとに漆喰に戻された。
ジェーンズ邸は、ベランダコロニアルといわれる形式の建物である。これは英国人等がインド、東南アジア等で生活する際、本国では経験がない暑さをしのぐため造った住宅の形式である。建物本体の外側にベランダをつけ、太陽の光線を遮り、風通しのいい空間をつくった。さらに通風を確保するためガラリ付きのフランス窓を付け、ベランダの天井は菱組とする等の工夫をこらした。そのため、ベランダは通常南側につけられた。ジェーンズ邸も当初古城に造られた際は、南向きであったが、その後の二度の移築では北向きとなり、現在は西向きとなっている。
この建物を印象づけるのは二階のベランダの柱と柱の間にある下部が火灯窓風の曲線となったスパンドレルである。このような形は長崎の洋風建築でも殆ど見られない。その他、バルコニー前面の胴差や梁に彫られた錫杖彫り風の模様、ぶどうの模様、両側の後方壁面出隅の石造を模した隅石風漆喰仕上げ等擬洋風建築の面目躍如たる装飾が随所に見られる。
(参考文献)
「日本に於ける大尉ジェーンズ氏」警醒社書店 一八九四年(明治二七)
下田一喜「稿本 肥後文教史」共力舎 一九二三年(大正十三)
宇野東風「我観 熊本教育の変遷」発行者坂本真三 印刷者寺井藤左衛エ門 印刷所(株)秀英社 発売所大同館書店 一九三一年(昭和六)
伊喜見謙吉吉編纂兼発行者「改訂 肥後藩国事史料」巻十 侯爵細川家編纂所 一九三二年(昭和七)
渡瀬常吉「海老名弾正先生」龍吟社 一九三八年(昭和十三)
「日赤記念館(旧ジェンス氏邸)と日赤県支部及び病院建物平面図」図面製作徳岡伸一、江崎浩 一九六一(昭和三六)年
「熊本洋学校教師館(ジェーンズ邸)移築復元工事報告書」熊本洋学校教師館復元工事報告書編集委員会(代表山口光臣)編 熊本市教育委員会発行
山口光臣「家は生きてきた ジェンス邸」 熊本日日新聞一九七四年一月一一日
田中啓介、上田穣一、牛島盛光「ジェーンズ 熊本回想」 熊本日日新聞社 一九七八年(昭和五三)
潮谷総一郎「熊本洋学校とジェーンズ 熊本バンドの人びと」熊本年鑑社 一九九一年(平成三)
「日本赤十字社熊本県支部史」日本赤十字社熊本県支部編 一九九一年(平成三)
藤森照信「日本の近代建築(上)—幕末・明治編」岩波書店 一九九三年
「新熊本市史 通史編第六巻近代Ⅱ」新熊本市史編纂委員会編 二〇〇一年(平成十三)
「熊本近代建築物語」熊本日日新聞情報文化センター編 (社)熊本県建設業協会建築部会発行 二〇〇一年(平成十三)