ジェーンズ事典

井上毅 いのうえこわし 天保一四(一八四三)年一二月一八日~明治二八(一八九五)年三月一五日
官僚・政治家。子爵。号は梧陰。幼名は多久馬。肥後藩家老米田家(長岡家)の陪臣中小姓格の飯田権五兵衛の三男として、城下坪井(現、熊本市)で生まれる。満八歳の嘉永五(一八五二)年一月長岡家家熟必由堂に入塾。安政四(一八五七)年七月長岡是容の薦めで、柳川丁の木下韡村塾に入門。やがて竹添進一郎・木村弦雄・古荘嘉門とともに木下門下の四天王と呼ばれるようになった。文久二(一八六二)年一〇月時習館居寮仰せつけられる。居寮生時代の元治元〈一八六四〉年秋に沼山津に逼塞中の横井小楠を訪ね、小楠から、学問論やキリスト教論、ヨーロッパ諸国に対する認識、また日本の政治的課題などについて引き出して議論し、一〇月小楠思想の到達点を鮮やかに示す『沼山対話』を草した。小楠も彼の能力を高く評価する。
慶応元〈一八六五〉年一一月時習館退寮。慶応二(一八六六)年二月井上茂三郎の養子となる。同年六月から八月にかけて第二次征長戦争に長岡是豪に随従して出兵。慶応三年九月、仏学修業のため横浜に遊学、しかし翌年戊辰戦争の開始により一旦帰熊、長岡護美の北征に随従して二本松辺りまで従軍して帰国。明治三(一八七〇)年四月藩命で上京して開成学校に学ぶ(大学小舎長・中舎長)。明治五(一八七二)年二月司法省に出仕。同年九月、司法卿江藤新平の欧州各国歴訪に河野敏鎌・沼間守一・鶴田皓・名村泰蔵・川路利良らとともに随行して渡仏、フランス法学を学び、翌明治六(一八七三)年一〇月ボアソナードを連れて帰国。その後台湾征討にかかわる日清談判に全権弁理大臣大久保利通の片腕となり、以後法制官として江華島事件や朝鮮修好談判にかかわる文書の作成するなど、大久保・岩倉具視・伊藤博文らから信任をうけ活躍した。明治一〇(一八七七)年には太政官大書記官となり、内政外交の重要問題につき政策立案にかかわったが、自由民権運動の高揚を背景に、政府としていかなる立憲的形態を構想し樹立し得るか、についての見通しについて、明治一四(一八八一)年、岩倉の求めに応じて、政府内部の閣僚の意見書、民間で作成された私擬憲法等を深く検討して、ロエスレルとの議論をも重ねて、「大綱領」を作成、国体と政体の分離をはじめとする憲法制定の基本原則を提示し、のちの大日本帝国憲法の基礎をつくった。
この憲法制定への見通しを手に入れたことによって、政府は、明治一四年政変(政府内の大隈重信一派の排除、一〇年後の国会開設、北海道官有物払下げの中止)を断行することを得たのである。その後憲法制定に至る過程での法整備に卓越した力を発揮した。そして、明治二一(一八八八)年に枢密院がつくられると、書記官長として、伊藤博文のもとで、金子堅太郎・伊藤巳代治らとともに憲法草案・皇室典範の起草にあたった。
この間熊本では、西南戦争後、佐々友房が同心学舎を興し、旧学校党の人たちが結集。自由民権運動と対峙したが、井上毅は、熊本に、さきの「大綱領」の精神をもって糾合できる組織の建設を企図し、みずから趣意書を作成して紫溟会を結成した。明治二三(一八九〇)年枢密顧問官となり、元田永孚とともに教育勅語の起草にあたった。明治二六(一八九三)年第二次伊藤博文内閣の文部大臣となり、「高等学校令」の制定や実業教育振興などに力を尽したが、病に倒れた。死の二か月余り前に、岡松甕谷の四男匡四郎を婿養子として迎えて家名を継がせた。→長岡監物→木下韡村→紫溟会→大日本帝国憲法→井上匡四郎