子どもを「大人として」裁かないで
カーク・マスデン
1998年10月14日の朝日新聞(朝刊)の「論壇」掲載
少年法を改正して、刑事罰の対象年齢を「十六歳以上」から十四歳に引き下げる動きが自民党から出ている。「厳罰主義」が進んでいるアメリカの例を参考に、反対の意見を述べたい。
少年の犯罪をめぐる日米の違いは、昨年十二月にケンタッキー州の高校で起きた事件で印象づけられた。十四歳の少年が朝の祈りの集会で三十五人の生徒に発砲し、三人が死亡、五人が重軽傷を負った。米国のメディアは、実名、写真つきで報道した。法廷でも「大人として」裁かれることになった。検察は無期懲役を求刑し、有罪になれば二十五年間は仮出獄さえできない。
米国は、十六歳で殺人を犯した子どもも死刑にする「子ども厳罰大国」だが、犯罪におびえている市民は最近一層厳しい対応を求めている。そうした世論に押され、子どもを「大人として」裁くことができる年齢を十三歳に引き下げる「少年犯罪防止法案」が昨年五月に下院を通過し、現在上院で審議されている。
こうした風潮もあってか、小学生が大人なみに起訴される事件が最近シカゴで起きた。十一歳の少女が性的暴行を受けて殺された事件で、殺人容疑で逮捕されたのは七歳と八歳の男の子だった。米国でも、七歳や八歳の子どもを「大人として」裁くことは正式にはできないが、二人は実質的に大人同様に扱われた。
例えば、取調べの前に「沈黙を守ること」や「弁護人を雇うこと」など、被疑者としての権利の説明を受けた。七歳の子どもがそうした説明を大人同様に理解できると思うのは愚かとしか言いようがない。しかし、子どもが「わかった」と言ったので取り調べに入ったという。そして、「女の子に石を投げた」とか「自転車が欲しかった」などの「告白」が裁判の根拠となった。
法廷でも、成人まがいの裁判が進み、まず、子どもたちの「裁かれる能力」の有無が争われた。子どもと「裁かれる能力」とは、いかにもちぐはぐな感じだが、裁判ではその能力が認められた。そのまま有罪になりそうだったが、九月に入って突然釈放された。被害者の体内に精子が見つかり、精子が七,八歳の子どもの体から出ることは生理的に不可能という理由からだった。
この事件は、大人を前提にした法廷の常識で子どもを裁くことがいかに不条理かを端的に示している。十四歳の子どもを刑法で罰することにも同様の矛盾がある。親からの独立を早く促す米国でさえそうなのだから、日本で十四歳の子どもに大人なみの刑を科すようになったら、矛盾はさらに大きくなる。髪型も、服装も自分で決めさせてもらえない。授業で意見の表明を求められることもない。これほど「子ども扱い」してきた少年を、重大な事件を起したら、突然大人なみに裁くというのはあまりにも理不尽ではないか。
厳罰が効果的で社会を安全にするのなら、こうした矛盾に目をつぶりたくなるかも知れない。しかし、米国流の厳罰には抑止力もなければ、更正にもつながらない。むしろ、超満員の刑務所で凶暴な犯罪者に囲まれ、更正に必要な精神治療や指導を得られない子どもは、一層危険な存在になる場合が多い。それでも「厳罰」を支持する人が多いのは、報復を求める感情論が冷静な分析に打ち勝っているからだ。
子どもの厳罰に関しては、米国は反面教師にしかなれない。しかし、暴力予防や非行少年の更生なら、一部の地域や施設で注目に値する成果が上がっている。例えば、ボストンでは、非行から立ち直った経験をもつ大人が、若者を一対一で指導する制度などを柱とした多面的なプログラムによって、若者の犯罪が激減している。力を合わせて真剣に子どもたちを指導することの大切さを教えてくれる試みだ。
子どもは、精神治療や社会奉仕などを通じて、他者とのつながりを感じ、命の尊さや責任などを学習できる。こうした地道な努力は「刑罰」ほど容易ではないが、子どもを救い、より良い社会を築いていくには不可欠だ。
病んでいる子どもを、安易に「大人」にすり替えるのをやめて、子どもであることを認めた上で、暴力の予防や更正に力を注ぐべきだろう。
(熊本学園大学海外事情研究所長・日米比較文化論=投稿)