「知への道のり−『ラケス』篇の考察」
『哲学』第46号、pp.21〜30 日本哲学会編 1995年10月

 「人間であること」とは如何なる事か。これは倫理学の最大の問題の一つである。本論文は、その問題に直接答えるものではないが、その問題がどのような手続きでまさに「問題」とされねばならないかを、プラトンの『ラケス』というテキストでの言語分析的な考察に基づいて探求したものである。
 勇気の定義をめぐる『ラケス』篇最終部分に於いて、対話人物ニキアス(以下、N.)によって、「勇気は善と悪の知識である」という提案が述べられる。このN.の定義をもって、プラトンの主題がいわゆる主知主義的倫理説の証明であるとみるのか否かがこの対話篇の解釈史上の争点である。この観点の対立をそのまま対話人物であるN.とラケス(以下、L.)の対立とみて、どちらにソクラテス(以下、S.)の真意を託すのか(或いは両者の折衷案を採るのか)という図式と重ね合わせることも一般的に行われてきた。むしろ従来の解釈は、主知主義的倫理説はすなわちN.派であるという図式を暗黙の内に了解してしまっているようである。
 しかし「徳は知識である」をプラトンの主張と受け入れても、直ちにN.を擁護することにはならない。N.の行った結論の導出過程がS.のそれと一致するとは限らないからである。
 この論文で明らかにしたいことの第一点は、N.とL.を対比させることによってプラトンが知と生の問題をどのように考えていたのかを提示することであり、第二点としては、徳と知の関連がこの対話篇のプラトンの主要な論点であったにしても、それをN.に帰す必要は全くないばかりか、むしろN.の主張によってプラトンの観点が逆に照射されるであろう、ということである。
 以上の問題点の解明のために、本論では、プラトンが特に初期対話篇を通じて頻繁に行った「倫理的な知と技術知との類比」を分析する。その結果、技術知との類比が、倫理的な知を解明するにあたって、いかなる点で有効であり、如何なる点で限界を持つのかが明らかにされた。さらに、「思慮」という言葉が、プラトンの当該の著作の中で如何なる用法を持つかが探究された。そこで摘出された「思慮」という語の三つの用法を検討することによって、S.と対話相手であるL.及びN.の抱く「徳」の観念が浮き彫りにされた。すなわち、S.は、「ひと」の観念を落としては決して「徳」を問題とすることは出来ないと考えていたのに対し、対話人物のL.が「徳」を語る場合には、「ひと」の観念は問題にされていなかった。
 こうして明らかになったL.とN.の「徳」とは、自然学的な描きや欲望や快といった何らかの世界解釈に依存し単純に想定された「われわれ自身のあり方」に基づくものであった。しかしそれに対して、初期対話篇でのS.は徹底抗戦を行ったのである。そこでは、多くの論者が既に指摘しているように、確かにS.自身の語る積極的な「徳」の主張は見いだされないが、L.及びN.の抱く「徳」の観念が如何なる点で受け入れがたいものであることを明らかにすることによって、我々に「徳」の、そして「徳」を持つことによって支えられている「人間であるとは如何なる事なのか」ということの、あるべき解釈の方向を指し示していると言うことが出来るのである。





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