「エレンコスに於ける整合性と真理」の概要
『西洋古典学研究』XLVII、pp.52〜62 日本西洋古典学会編 1999年3月 岩波書店 所収
                                 長友敬一
 本論の目的はソクラテスによって為された「吟味による探求」の哲学的な意義を明らかにすることである。そのために「ソクラテスにとって、 (Vlastos の定式) not-p, q, r がどのような位置づけをされているのか」という問題を『ゴルギアス』篇に於いて考察した。
 その結果、Vlastos の「我々が覆われた正しい信念の形で知を持っていた」という主張は、我々は我々のロゴスに於いて、吟味を為すために必要なものを既に持っていた、という点で正しいが、「覆われた形で知識を持っていた」というよりも、(もちろん本人は吟味を経るまでは気付いていないが)我々がそれに於いて我々の生を生として形作るロゴスが全体として持つ「形」(「形式」)として吟味を為すために必要なものを持っていた、と述べた方がより正確であることが明らかとなった。それは、その中に於いて、探究が可能となり、そしてその探究が意味のあるものであるような「形」である。我々はその「形」の中での探究によって初めて、わたし自身を問題とする場所を持つことができる。
 また、ソクラテスは彼単独で、前提 q, r から non-p を導き出したと単純に言えず、むしろ ソクラテスと対話相手の双方とで協同作業を行っていたと言える。その作業は対話相手にそのひと自身の真実の姿を気付かせ、ソクラテスもまた自らの思いの確実さを確かめるというものである(自他の吟味)。それはpragma への志向に裏付けられた、彼の central belieである「不正を為す方が不正を受けるよりも悪い」ということを、両者にとって可能な限り明晰なロゴスの集合( Vlastos 言うところの「前提 q, r 」は、そのキーポイントになる)に分解し、再び組み立てていくことによって、行われる。しかし、「不正を為す方が不正を受けるよりも醜い」というロゴスは、ポロスにとっては承認されるものであったが、カリクレスにはそうではない。その場合には、そのロゴスを更に双方にとって明晰なものに分解し、再び組み立ててゆく。しかも、その深まりに於いて、より根源的なロゴスの確認が行われてゆくのである。
 そのようにして確認されたソクラテスの立つロゴスの場所とは、即ち、善美の事柄に関する「不知の自覚」ということが、それ以外の如何なる概念にも還元することなく「善をそれそのものとして問題とできる」ということと等価であるという場所である。そこでロゴスの必然性が縛り付ける命題は、ロゴスの全体の中でより根底的であるために、「それ以外に何も言えない」(522c, cf.507a)のである。それは倫理的な事柄を、 thick concept ではなく、 thin concept の場所で問題とすることとつながる(以上の用語はB.ウイリアムスによる)。
 以上のような仕方で価値的な世界が理解できるとき、我々は Vlastos の「正当化された前提としての知識」という意味に於いては「知っている」とは言えないとしても、真であるという確信が持てる。



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