講義ノート

ここで講義内容を簡単に記録していきたいと思います。「簡単」な記録ですので、もちろん出席する代わりにはなりませんが、欠席しなければならない場合は、ここを見れば授業の流れなどが大体わかると思います。「ノート」なので、論文調で書きます。


9月22日、第1回
 授業計画、講義の目的、「文化」の定義、「日米比較文化論」の性格、文化に関する知識の利用法、などについて話した。特に、私の授業の進め方の裏にある考えを理解してほしいと思う。

9月25日、第2回
 文化論の落とし穴や悪用について講義した。文化論が自動的に「異文化理解」につながるのではなく、その使い方や理解の仕方次第で「異文化誤解」や摩擦を生みだすことがあると主張した。文化論を鵜呑みにしないでほしい。

9月29日、第3回
 「受験英語はなぜ身に付かないのか?」というテーマで講義した。テーマを紹介した後、「翻訳主義」の問題点を指摘した。翻訳に依存しないで、学んでいる言語でものごとを考えることを勧めた。「英語で考える」ことは一般に思われているほど難しいことではない、というのは私の立場である。

10月2日、第4回
 前回のテーマの続きとして、言語学習における「マニュアル主義」や「見えっ張り主義」の問題点を指摘した。「マニュアル主義」の主な問題は、言葉が「生き物」であることを無視している点にある。先にルールを覚えて、ルールに沿って文章を作成したり、書かれた文章を分析したりするのではなく、生物としての言語とゆっくりつきあって、その生きている姿や生態を直に知って欲しいと思う。「見えっ張り主義」は、伝える内容よりも、その伝え方の結果、自分がどう見られるかを気にすることである。「看板英語」(宣伝などに使われる英語)や「間違い恐怖」の元凶は「見えっ張り主義」であると主張した。
10月6日、第5回
 「受験英語はなぜ身に付かないのか?」に関する講義を終了した。「先生お任せ主義」や「英会話主義」「「敗北主義」の弊害を説明した。「受験英語」の問題に関する講義を補うものとして、拙著の「出題者の意図を問う読解問題」のプリントを配付した。また、10月8日から国際交流センターが欧米への長期留学の募集をはじめる予定であることを伝えた。

10月9日、第6回
 前半はアメリカの「足病医」や日本の「甘え」などを例に上げ、言語と認識の関係について話した。二通りの見方が可能なイラストも紹介し、ある特定の言語でよく使われる言葉は一つの見方を提供することを強調した。外国語の学習により、新たな視点を得ることができる。後半では、日本語の国際性について話した。「外国人=英語」や「日本語は日本人にしか理解できない」などの固定観念を捨てる必要がある。

10月13日、第7回
 ビデオを紹介しながら、「外国人」と「外人」の違いについて講義した。「外人」の使い方、「外国人」の省略形であるかどうかなどについて話した。ビデオで紹介されたホームページを見るにはここにクリックしてください。

10月16日、第8回
 前回の続きとして「外人さん」という言葉のニュアンスを考察した。続いて、PC (political correctness)という概念を紹介した。「政治的に正しい」とされている表現の例としてJapanese (Japは差別用語)やAfrican American(Blackと比較して)、flight attendant (stewardessと比較して)を取り上げた。

10月27日、第9回
 イラストや漫画などと固定観念との関係について講義した。言葉の場合と同様に、イラストは特定の人種などに対する「見方」を提供している。それはどのような見方か、そしてその見方によって見る側の判断や行動がどう影響されうるか、それは見られる側にどのような影響を及ぼすかなどを考えることに価値があると思う。また、インターネットで黒人などに対する憎悪の念を広める言論(hate speech)の自由の問題に関するビデオを見せた。hate speechも見方(固定観念)を提供し、その見方の影響が懸念される。しかし、言論の自由も大切だ。言論の自由を維持しながら、hate speechの悪影響を防ぐためには、メディアを利用する人が高度な判断力を持っていなければなければならない。

11月6日、第10回
 アメリカ・インディアンのイメージがアメリカのスポーツ界でどのように利用されているかを紹介し、その問題を指摘した。スポーツ界でアメリカ・インディアンのイメージを利用することにより、アメリカ人は異文化軽視の習慣を身に付けながら、アメリカ・インディアンに関する有害な固定観念を広め続けている、と私は考えている。その後、「ちびくろサンボ」に関するビデオを見せ、コメントした。

11月10日、第11回
 前回の講義の「ちびくろサンボ」に対する私の意見に反論するコメントをもらったので、改めて説得しようとした。まず、本人たち(アフリカ系アメリカ人など)がそのイラストを見てどう感じるかよりも、表現されているイメージ(固定観念)が差別的な行動につながることが問題であると主張した。その例として、アフリカ系アメリカ人の警察官を取材したビデオを見せた。ビデオで、外見や固定観念で判断されることが彼らにとっていかに不利かが伝わったと思う。次に、個々のイラストや言葉の差別性に関して議論の余地があっても、イメージや固定観念は有害で有りうることははっきりしていると主張した。その意味で、少なくとも言えるのは、「ちびくろサンボ」に使われてきたイメージのなかには、有害なものも含まれている可能性がある。個々のイメージに関してはよく検討し議論すべきだ。最後に、中間テスト(11月17日)について説明した。テストは2つの著述式の問題からなる。一つはイメージという概念を中心に、これまでの講義内容を総括する問題。もう一つは姜信子さんの『ごく普通の在日韓国人』を要約する問題。参照不可。

11月13日、第12回
 中間テストに向けての復習として、この「講義ノート」をOHPに写し、これまでの授業内容と「イメージ」との関係を振り替えた。その途中に、第1と第2回目の講義で伝えようとしていた内容を別の角度から補うため、「WE'RE DIFFERENT, WE'RE THE SAME」という児童書をOHPに写し、朗読した。授業の後半では、「ニュース・ステーション」による1995年の沖縄暴行事件の報道を分析した。メディアを通して得たイメージや情報を鵜呑みにすることの危険性を強調した。

11月17日、第13回
 中間テスト実施。

11月20日、第14回
 姜信子さんのゲスト講義。姜さんはビデオやカセット・テープで映像や音を紹介しながら、次のような興味深い話をした。(下記の記録が断片的なものになってしまっていることをお許しいただきたい。)
  • 姜さんは今まで四つの名前(たけだ・のぶこ、きょう・のぶこ、かん・しんじゃ、いまむらさん)で呼ばれてきた。自己紹介を兼ねて、それぞれのアイデンティティーを説明した。
  • 「リーチェ」の歌のビデオを流して、「リーチェ」の音楽が日本に入るために、なぜ英語で歌う必要があったか。アメリカ経由でなければ韓国のポップスが日本に入れない、という不思議な現状を考えさせられた。
  • 日本には「韓国の歌=演歌」という発想が根強い。日本では演歌歌手として有名なチョー・ヨンピル(趙 容弼) も、韓国ではロックを出発点に、演歌もこなすマルチプレーヤー。韓国から日本への音楽の道では演歌以外が「通過禁止」となってきた。
  • 韓国に日本と 同じ童謡があるのはなぜか。姜さんはその歴史的理由や意味を説明した。
  • 「日本国民」は明治に作られた概念であり、音楽は「日本国民」を作る上で重要な役割を果たしてきた。韓国でも、指導者が「韓国国民」を作るために音楽を使った。
  • 明治期の日本では、西洋音楽は「文明」の音楽であり、日本伝統の俗謡や芸能音楽がいやしいと考えられた。日清戦争を境に、それまではやっていた清の音楽が廃れ、それまで一般の人々には根づかなかった日本的な洋楽音階として作られたヨナ抜き音階が、軍歌の形で一気に受け容れられた。日本人の頭の中の「世界地図」は中国中心のものから西洋中心のものへと変わっていった。日本の指導者は音楽を使って、この意識の変化を誘導した。
  • 日本人が韓国を支配するようになると、韓国の唱歌を禁止し、日本の唱歌を歌わせた。 その中には、「鉄道唱歌」のメロディを借用して教訓的な韓国語歌詞で歌われる「学徒歌」もあった。
  • 「創氏改名」は韓国人を天皇の軍隊に入れるために、日本人とは異なる名前を排除するという発想も含んだ政策であった。軍隊とは名前だけでなく、あらゆる異なるものを切り捨てる組織である。
 日韓関係を考える上でも、「日本人」とは何かを考える上でも、非常に示唆に富んだ話だったと思う。姜さん、ありがとう!
 講義後に、姜さんは学生の質問に答えたり、サインの依頼に応じたりした。(ゲスト講義後の風景を見るためにはここをクリックしてください。)また、学生がカードに書いた質問や感想に対して、丁寧な返事を翌日送ったくれた。(姜さんからのお手紙を見るためにはここをクリックしてください。)今回、姜さんの話してくれた内容についてもっと詳しく知りたい方に、姜さんの『日韓音楽ノート』をお勧めする。

11月24日、第15回
 日本文化における「名前」(個人名)の役割について講義した。日本では名前は昔から「本人のもの」というよりも、社会が与える「肩書」や「資格」のようなものであると主張した。言い換えれば、日本では名前は単なる便宜上の呼び名ではなく、人は何者か(地位、所属などを含めて)を示すものである。しかし、他の文化では必ずしも同じような認識がある訳ではない。アメリカでは名前は本人のものであると考える傾向が強いため、日本人と日本滞在のアメリカ人との間で名前をめぐる文化摩擦が起きることもある。こうした摩擦を未然に防ぐ方法、そして名前の表記や呼び方と個人のアイデンティティーとの関係について考察した。その後、日米における労働情況や労働倫理に関する講義をはじめた。まず、日本とドイツの労働状況を比較するビデオを見せ、若干のコメントをした。

11月27日、第16回
 前回の講義後に受けた質問に答えるため、名前の順序の文化的ルーツについて解説した。(そのとき、OHPに写したものを見るためには、ここをクリックしてください。)その後、1991年ごろにNHKが放送した「日米市民討論」という番組の中の日本人は働きすぎかどうかに関する部分を見せた。働くことをめぐって日本人とアメリカ人の価値観などが180度違うという通念(固定観念)が番組の前提になっていたが、その「常識」の型にはまらない日米の市民の発言が見事にその前提を崩して行った。ビデオを見せた主な目的は「日本人は働きバチ。アメリカ人はレジャーを大事にする。」という固定観念の問題性、そしてマスメディアを鵜呑みにすることの危険性を認識させることだった。

12月1日、第17回
 前回の労働に関する講義の続きとして、アメリカの伝統的な「働く倫理」を紹介し、日米の労働情況を比較した。現在のアメリカはけっして「レジャー大国」ではなく、世界的に見て、「働く倫理」にしても、労働時間にしても日本とアメリカは180度違うのではなく、むしろかなり似ている、と主張した。また、1992年の宮沢元首相の働く倫理発言を取り上げ、その発言が引き起こした文化摩擦について解説した。大きく分けて、その軋轢の原因は二つあった。一つはアメリカ人が依然として一所懸命働くことが大切だと考えていたことだ。「怠け者」と言われていると思ったら、アメリカの伝統的な倫理観に基づいてひどく侮辱されたと考え、激しく反発したのだ。もう一つは、アメリカのメディアが宮沢氏の発言の主旨を正確伝えなかったことだ。講義で説明したように、宮沢氏の発言の主旨はかなり歪曲された形で報道された。ここで日米の労働倫理に関する話は終了した。次に、男女の役割分担や性差別に関する講義を始めた。実は、男女の役割分担を考えずに「日本人はよく働く」という言葉の意味を十分に理解できないので、このテーマは労働に関する話の延長とも言える。まず、日本とアメリカの「女らしさ」の違いを考えるきっかけとして、Sailor Moonというアニメのアメリカ化に関するビデオを見せて、若干のコメントをした。

12月4日、第18回
 日米やその他の国における男女の役割分担について講義した。次にアメリカのイリノイ州で起きた三菱セクハラ訴訟の経緯を紹介し、解説した。この訴訟は史上最大のセクハラ訴訟である。日本とアメリカのセクハラに関する認識の違いを浮き彫りしたと言える。特に、経営側の責任をめぐる常識のギャップは重要だったように思う。ただ、ビデオなどで示したように、アメリカはまだまだ深刻なセクハラが多く、日本とのギャップは一般に思われているほど大きくない。

12月8日、第19回
 前回の続きとして性差別に関する話を進めた。また、最近問題になっている県立大学外国人教師差別問題に関するビデオを見せ、コメントした。

12月11日、第20回
 クリントン大統領の不倫・偽証疑惑を取り上げた。その際にOHPに映した内容を見るには、ここをクリックしてください。その後、県立大学外国人教師差別問題に関するビデオを見せ、解説した。また、この問題に関する講演会とシンポジュームが今月の12日に開かれることになっていたので、関心のある方には出席することを勧めた。その講演会に関する報告などを見るにはここをクリックしてください。

12月18日、第21回
 アメリカのイラク攻撃について話した。まず、私自身が今回の攻撃などのような事件に関する情報をどのようにして入手するのかについて話した。日本でアメリカのテレビニュース(PBS、ABC)を見るにはNHKの衛星放送が便利だ。各種のアメリカ新聞に関しては、インターネットで見ることができる。アメリカのラジオ(NPR)も、RealPlayerというソフトを使えば、インターネットを通して聞くことができる。(残念ながら、情報教育センターではまだ聞くことができない。)授業でこの音声(テープに録音したもの)を少し聞かせた。インターネットの話の関連で、十月に訪れたLiverpool John Moores Universityでのインターネットの活用にも言及した。John Moores大では多くの教員が講義内容をホームページで公開しているし、本学で言えば「図書館」と「情報教育センター」が一つになっていて、学生にとってインターネットが非常に身近な存在になっている。イラク攻撃に関してはアメリカの外交政策を批判的に説明した。残りの時間を私の韓国訪問の感想や大学教員の「終身雇用」に関する説明(県大問題関連の質問への返答)に当てた。

12月22日、第22回
 講義の前半には、「日米のコミュニケーションのおける責任」という図を使って、日本とアメリカのコミュニケーション上の常識の違いについて話した。いくつかの例でこの図の意味を説明してから、大平健著の『やさしさの精神病理』(岩波新書[新赤版]409、1995年)を紹介した。著者の説が正しければ、現在の日本の若者のコミュニケーションにおいて、聞き手の責任がさらに重くなっていることを指摘した。その後、「建前」と「本音」について話した。両者の間のギャップが大きくなればなるほど、「聞き手」の責任が重くなると言えよう。日本のコミュニケーションの常識は国際的な場では通用しないことが多いので、明確に自分の考えを伝えて、あまり相手の「察し」に頼らない方が良いだろう。ただし、伝えるべきことを明確に伝えた方が良いと言っても、相手の気持ちを考えずに、何でもずけずけ言っていいという訳ではない。やはり、アメリカ人も相手が傷つく恐れがある場合には、それなりに気を使って話している。日本ほどの遠慮は必要ないが、アメリカでは「言いたい放題」で良いと考えるのは誤解である。

12月25日、第23回
 中根千枝氏の理論から見た日本的なコミュニケーションに関する講義を始めた。講義でスクリーンに映したレジメを見るには、ここをクリックしてください。その後、熊本在住の浜田知明先生の反戦作品に関するビデオを見せた。浜田先生の作品の一つを見るにはここをクリックしてください。浜田先生のように活動こそが日本人として誇りに思うべきもので、けっして「自虐史観」や「恥さらし」ではないという意見を述べた。

1月9日、第24回
 前回の中根千枝氏の理論に関する講義を終了した。(時間があれば、中根氏の理論から見た日本の教育制度について話したかったが、できなかった。)その後、ニュー・ステーションの98年の最後の特集(2003年の日本の大手銀行を舞台にしたドラマ)を見せてコメントした。コメントの主なポイントは、日本について何かを言うためにアメリカが引きあい出される場合は、アメリカのことが歪曲して伝えられることが多い、ということであった。つまり、番組の製作者は日本のどこかが悪いと言いたい場合はアメリカを理想化し「アメリカのようにならなきゃ」という印象を与えるが、日本の現状や伝統文化の良さを強調したい場合、アメリカを極端に悪く描く傾向がある。理想化したアメリカのイメージも、極端に悪いアメリカのイメージも、誤解を招くステレオタイプであり、有害だ。深く考えながらメディアを見なければならない。ちなみに、講義では説明する時間がなかったが、アメリカの日本に関する報道や本、映画(例えば、Rising Sun)などに同様の傾向が見られる。

1月12日、第25(最終)回
 中間テストを返した。(出席できなかった人は直接研究室に受け取りに来てください。)中間テストで私が「イメージ」について伝えたかったことが十分に伝わらなかったと感じたので、図を使ってもう一回説明してみた。その図を見るには、ここをクリックしてください。また、何人かの受講生はテストの中で私の主張に対する反論を試みたが、多くの場合はあまり評価できなかった。それは反論を受け入れたくないからではなく、相手の主張や論理(理由)を無視して反対の意見を述べることはコミュニケーションとして好ましくない、と考えるからだ。説明する際に使った図を見るには、ここをクリックしてください。最後に、司馬遼太郎氏の「21世紀に生きる君たちへ」を紹介するビデオを見せた。司馬氏は私が25回にわたって伝えたいと思っていたことを小学生にも理解しやすいことばで、巧みに表現なさったと思う。(このエッセイは司馬遼太郎著の『十六の話』〔中央公論社、1997年〕に含まれているようだが、残念ながらまだ本学の図書館にない。4月以降に入るそうだ。)
 なお、テストについて12月25日にも1月9日にも多少の説明をしたが、ここでその要点を書く。テストの前半(配点50点)は講義に関する5つの問題からなる。講義で紹介した内容のポイントや例を簡単に書くような問題が多いだろう。範囲は主に中間試験後の内容だが、中間試験前の内容も出てくるかも知れない。後半は中根千枝氏の本に関する問題(配点50点)である。本で展開されている理論の骨組みを説明した上で、いくつかのことがらとの関係を説明することになる。詳しく書けるように準備してください。参照不可である。頑張ってください。

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