既発表論文の訂正・補訂など



●「院政期播磨の受領と国衙領」『熊本史学』98, 2017年
①「同 2 播磨東部の保・荘と山岳寺院」に、「福田保(荘)」を「福井保(荘)」とする誤記が本文中に5(13頁)、注(20)に3(18頁)の8ヶ所あった。また福田保のなかに料田を有するだけの清水寺について、それ自体を福田保に所在するとする、明白な事実誤認があった。当該箇所を以下のように差し替えたい。なお、これについては掲載誌に正誤表掲載を依頼して正式の訂正をしたいが、次号発行までに時間がかかることが予想されるため、関係各位・読者諸賢に陳謝しつつ、まずここに記しておきたい。
[本文の誤]
ところで、清水寺は、住吉社領の久米・吉井・三草各荘に囲まれるように存在した、福保中にあった。その初見は、文治四年(一一八八)に、梶原景時の播磨での押領所領「福庄。西下郷。大部郷。」として登場するものだ(『吾妻鏡』文治四年六月四日条)。ところが、建久三年(一一九二)の大部荘との堺相論で、「福保」として現れて以降、その呼称は保で一貫する(20)。先行して存在した福保が、後白河院政期に平家の関与で立荘されたものの、平家没官領とされて後、保に戻されたという経緯が推定される。
 位置関係からみて住吉社領と福保とは、天治紛争の解決の後に、連動して枠組が確定された可能性が高いのではないか。

[正]
ところで、清水寺も料田を得た福保は、住吉社領の久米・吉井・三草各荘に囲まれるように存在した。その初見は、文治四年(一一八八)に、梶原景時の播磨での押領所領「福庄。西下郷。大部郷。」として登場するものだ(『吾妻鏡』文治四年六月四日条)。ところが、建久三年(一一九二)の大部荘との堺相論で、「福保」として現れて以降、その呼称は保で一貫する(20)。先行して存在した福田保が、後白河院政期に平家の関与で立荘されたものの、平家没官領とされて後、保に戻されたという経緯が推定される。
 位置関係からみて住吉社領と福保とは、連動して枠組が確定されたのではないか。清水寺の寺域もその可能性があろう。

[注(20)の誤]
…福保の堺相論は、その大部荘とのものであることから、福保=福荘で間違いない。

[正]
…福保の堺相論は、その大部荘とのものであることから、福保=福荘で間違いない。


②「三 院政期播磨の国衙領体制 1 播磨西部の国衙領と荘園制」(10〜11頁)に、先行研究の見落としによる不十分な記述があった。特に「別納名々」を在庁別名由来としたのは、当該先行研究によれば失考である。よって再録の機会などを得た場合、当該箇所を以下のように補訂したい。
[原型]
その内訳は判明する限りで、明石郡の明石津別符・玉造保・櫨谷保、河西郡の市別符、神西郡の高岡北条、飾西郡の飾万津別符、揖東郡の石見郷と、所在地は不明だが「別納名々」であった(『看聞御記』応永二三年十一月二十一日・同二五年四月五日・同年十二月十二日・同二六年六月七日・永享六年二月二十二日・嘉吉元年六月九日条)。その多くは保・別符であり、明石郡がめだつ他は、ほぼ播磨西部に集中する。また高岡北条や石見郷のように、一定の領域と規模が想定される所領があるのも、西部の特徴だ。加えて、「別納名々」は在庁別名であろうから、その濃度はさらにあがる。
 一方、かかる保や別符は、…

[補訂]
伏見宮家の播磨国衙領知行については市沢哲氏の研究がある。そこでは国衙領は国衙近傍と市川沿いを中心に播磨中心部に集中し、東・西にはほぼみられないと指摘されている[市沢二〇一一]が、そこで検出された国衙領には保・別符も多く含まれる。また西部については次のように考えられよう。
 かかる保や別符は、…

また引用文献の一覧に

市沢  哲 二〇一一年「伏見宮家の経営と播磨国国衙領—『徴古雑抄』所収「播磨国国衙領目録」の研究—」同『日本中世公家政治史の研究』校倉書房

を追加する。

●「院政期の肥前社会と荘園制」『中世的九州の形成』高志書院, 2016年(初出2012年)
本稿では「佐々木文書」を院政期の肥前の様相を明らかにするための主史料として用い、その真正性の証左として、
ⓐ正応元年10月13日北条為時(時定)袖判下文(「佐々木文書」8
ⓑ正応元年10月17日北条為時(時定)袖判下文(「佐々木文書」9
の筆跡が
①弘安7年12月5日同書下(「河上神社文書」鎌15375)
②弘安8年8月19日同書下(「松浦山代文書」鎌15645)
③弘安8年9月9日同書下(「松浦山代文書」鎌15693)
④弘安8年10月27日同下文(「松浦山代文書」鎌15713)
⑤弘安8年2月23日同書状(「高城寺文書」鎌15438)
⑥弘安11年5月晦日同書下(「高城寺文書」鎌16506)
 (どれも佐賀県立図書館所蔵の写真帳で確認)
といった同人発給の正文と一致することを挙げた。このうち①は、国学院大学デジタルミュージアムの「宮地直一博士写真資料」所収「肥前国川上社古文書写真」で写真閲覧が可能となった。該当写真はこれである。ⓐ・ⓑに付したリンク先の写真と、ぜひ見比べていただきたい。

小川 弘和
Back to INDEX