●「二見園田一族と相良氏領国」『九州史学』187, 2021年
●「葦北七浦衆と葦北荘」春田直紀・新井由紀夫編『歴史的世界へのアプローチ』刀水書房, 2021年末予定 |
『雑花錦語集』『藻塩草』(ともに熊本県立図書館蔵の近世叢書)所収の田浦系図を、管見の限り従来は未翻刻として「葦北七浦衆と葦北荘」にて『雑花錦語集』を底本に翻刻作業と考証を行い、また「二見園田一族と相良氏領国」にて補考を施した。ところが、花岡興輝『近世大名の領国支配の構造』(国書刊行会, 1976年)に『藻塩草』を底本とする翻刻が収載されていることを知るに及んだ。確認が不十分であったことをお詫びしたい。ただし『藻塩草』所収本は『雑花錦語集』所収本を種本としている可能性が極めて高く、『雑花錦語集』を底本とした翻刻作業は無意味ではなかったと考えている。
【追記】
刊行が遅れた怪我の功名で「葦北七浦衆と葦北荘」の叙述は校正時の訂正が行えた。
●「中世球磨郡の在来領主と相良氏」熊本学園大学論集『総合科学』23-1・2, 2018年 |
以下については次の理由から、さらに訂正を要する。ⓐ定頼を「兵庫助」とする官途から観応2年に比定される6月9日島津貞久書状(相良家文書169)は、定頼が「畠山直顕代官後藤新左衛門尉幷和田又次郎等」が田上城に立て籠もるのを誘い出して、稲荷城に籠城しつつこれを釘付けにしたことを賞す。
ⓑ観応2年2月13日足利尊氏宛行状写(「薩藩旧記23所収樺山文書」『南北朝遺文』九州編3004)は、「上杉左馬助跡」の日向国臼杵院地頭職を島津資久に宛て行う。
ⓐⓑから、定頼に宛て行われた「上杉左馬助殿跡」真幸院75町・島津荘北郷160町も、この真幸院での軍事行動による観応宛行とするのが正しい。また、この軍事行動が定頼と、真幸院で活動してきた野口重義・平河師里らとの接点をつくり、文和年間のより本格的な人吉勢への参入の前提となった可能性を考えねばならない。なお文和恩賞と判断した重義分の北郷は、「上杉左馬助殿跡」とは明記されないので、定頼とは別途行動での観応宛行とも、文和宛行ともみる余地があり、決しがたい。
① 「三 2 南北朝期の平河氏と人吉相良勢」に、誤植が2ヶ所あった。a.100頁上段15行目 [誤]日向国三俣院・同国島津荘北方 [正]日向国三俣院・同国島津荘北郷② 同じく「三 2 南北朝期の平河氏と人吉相良勢」の100頁下段に、記述の不備があった。
b.99頁上段6行目 [誤]周辺所郡や隣接する日向北部 [誤]周辺諸郡や隣接する日向北部[誤]
真幸院内は彼と師里・重義にしか宛て行われていないから、これは師里と同様、観応年間の真幸院一帯での独自の活動の結果によるものと判断される。
[正]
真幸院内は島津荘北郷と同じく「上杉左馬助殿跡」とされ文和四年と考えられる、定頼に宛て行われた七十五町の他は、彼と師里・重義にしか宛て行われていないから、これは師里と同様、観応年間の真幸院一帯での独自の活動の結果によるものと判断される。
●「院政期播磨の受領と国衙領」『熊本史学』98, 2017年 |
河村昭一氏より「鎌倉期における播磨清水寺と住吉社の抗争(上)(下)」(『政治経済史学』500・501、2008年)をご恵与いただき、清水寺と住吉社との関係が、本稿で論じたよりも複雑な経緯を辿っていることを教えていただくこととなった。本稿の基本的論旨は維持できると思うが、清水寺について触れた部分には再考・修正を要する。後日に機会を得たい(2018年6月23日)。
①「三 2 播磨東部の保・荘と山岳寺院」に、「福田保(荘)」を「福井保(荘)」とする誤記が本文中に5(13頁)、注(20)に3(18頁)の8ヶ所 あった。また福田保のなかに料田を有するだけの清水寺について、それ自体を福田保に所在するとする、明白な事実誤認があった。当該箇所を以下のように差し 替えたい。なお、これについては掲載誌に正誤表掲載を依頼して正式の訂正をしたいが、次号発行までに時間がかかることが予想されるため、関係各位・読者諸賢に陳謝しつつ、まずここに記しておきたい。
[本文の誤]
ところで、清水寺は、住吉社領の久米・吉井・三草各荘に囲まれるように存在した、福井保中にあった。その初見は、文治四年(一一八八)に、梶原景時の播磨での押領所領「福井庄。西下郷。大部郷。」として登場するものだ(『吾妻鏡』文治四年六月四日条)。ところが、建久三年(一一九二)の大部荘との堺相論で、「福井保」として現れて以降、その呼称は保で一貫する(20)。先行して存在した福井保が、後白河院政期に平家の関与で立荘されたものの、平家没官領とされて後、保に戻されたという経緯が推定される。
位置関係からみて住吉社領と福井保とは、天治紛争の解決の後に、連動して枠組が確定された可能性が高いのではないか。
[正]
ところで、清水寺も料田を得た福田保は、住吉社領の久米・吉井・三草各荘に囲まれるように存在した。その初見は、文治四年(一一八八)に、梶原景時の播磨での押領所領「福田庄。西下郷。大部郷。」として登場するものだ(『吾妻鏡』文治四年六月四日条)。ところが、建久三年(一一九二)の大部荘との堺相論で、「福田保」として現れて以降、その呼称は保で一貫する(20)。先行して存在した福田保が、後白河院政期に平家の関与で立荘されたものの、平家没官領とされて後、保に戻されたという経緯が推定される。
位置関係からみて住吉社領と福田保とは、連動して枠組が確定されたのではないか。清水寺の寺域もその可能性があろう。
[注(20)の誤]
…福井保の堺相論は、その大部荘とのものであることから、福井保=福井荘で間違いない。
[正]
…福田保の堺相論は、その大部荘とのものであることから、福田保=福田荘で間違いない。
②「三 院政期播磨の国衙領体制 1 播磨西部の国衙領と荘園制」(10〜11頁)に、先行研究の見落としによる不十分な記述があった。特に「別納名々」 を在庁別名由来としたのは、当該先行研究によれば失考である。よって再録の機会などを得た場合、当該箇所を以下のように補訂したい。
[原型]
その内訳は判明する限りで、明石郡の明石津別符・玉造保・櫨谷保、河西郡の市別符、神西郡の高岡北条、飾西郡の飾万津別符、揖東郡の石見郷と、所在地は不 明だが「別納名々」であった(『看聞御記』応永二三年十一月二十一日・同二五年四月五日・同年十二月十二日・同二六年六月七日・永享六年二月二十二日・嘉 吉元年六月九日条)。その多くは保・別符であり、明石郡がめだつ他は、ほぼ播磨西部に集中する。また高岡北条や石見郷のように、一定の領域と規模が想定さ れる所領があるのも、西部の特徴だ。加えて、「別納名々」は在庁別名であろうから、その濃度はさらにあがる。
一方、かかる保や別符は、…
[補訂]
伏見宮家の播磨国衙領知行については市沢哲氏の研究がある。そこでは国衙領は国衙近傍と市川沿いを中心に播磨中心部に集中し、東・西にはほぼみられないと 指摘されている[市沢二〇一一]が、そこで検出された国衙領には保・別符も多く含まれる。また西部については次のように考えられよう。
かかる保や別符は、…
また引用文献の一覧に
市沢 哲 二〇一一年「伏見宮家の経営と播磨国国衙領—『徴古雑抄』所収「播磨国国衙領目録」の研究—」同『日本中世公家政治史の研究』校倉書房
を追加する。
●「院政期の肥前社会と荘園制」『中世的九州の形成』高志書院, 2016年(初出2012年) |
本稿では「佐々木文書」を院政期の肥前の様相を明らかにするための主史料として用い、その真正性の証左として、
ⓐ正応元年10月13日北条為時(時定)袖判下文(「佐々木文書」8)
ⓑ正応元年10月17日北条為時(時定)袖判下文(「佐々木文書」9)
の筆跡が
①弘安7年12月5日同書下(「河上神社文書」鎌15375)
②弘安8年8月19日同書下(「松浦山代文書」鎌15645)
③弘安8年9月9日同書下(「松浦山代文書」鎌15693)
④弘安8年10月27日同下文(「松浦山代文書」鎌15713)
⑤弘安8年2月23日同書状(「高城寺文書」鎌15438)
⑥弘安11年5月晦日同書下(「高城寺文書」鎌16506)
(どれも佐賀県立図書館所蔵の写真帳で確認)
といった同人発給の正文と一致することを挙げた。このうち①は、国学院大学デジタルミュージアムの「宮地直一博士写真資料」所収「肥前国川上社古文書写真」で写真閲覧が可能となった。該当写真はこれである。ⓐ・ⓑに付したリンク先の写真と、ぜひ見比べていただきたい。
本稿では「佐々木文書」を〈写であるとしても中世作成の原本に忠実なもの〉と判断するにとどまった。これに対して林譲「源頼朝袖判平盛時奉書(佐々木文書)について—正文と写の史料学—」(『駒沢史学』94、2020年)ではさらに踏み込んで、平安・鎌倉期の文書を具体的には3点取りあげて正文と判断している。その判断は平安・鎌倉期の文書全般に敷衍し得るものであり、これによって「佐々木文書」の価値は確定したものといえるだろう。