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2025.02.12
2024年度経済学部卒業論文合同発表会が開催されました.

 経済学部合同卒業論文発表会は,溝上教授が演習Ⅳの担当になった2023年度から計量経済学が専門の宅間教授と一緒に始めた企画です.驚くことに,それまではリーガルエコノミクス学科は勿論,経済学部には卒業論文を他の先生方に聴講・審査してもらう場がなかったのです.しかし,学生が正解のない課題に対して取組み,苦労して分析し,書き上げた卒業論文を,公式な場で他者にPPTを用いて発表するという経験は,彼らが社会に出たときに最も役に立つ能力になることは自明です.ですから,私は旧職と同様に,この1年間,担当科目の中で最も力を入れ,きつく教育してきました.そのせいか,4月には7人いた卒論生は次々に離脱していき,結局は卒業論文の単位がないと卒業できない3人になってしまいましたが.

 昨年は2024.02.13に小葉,宅間,溝上の3研究室から計12件の発表がありました.今年は金子研と小葉研,米田研からも中間発表会への参加があり,最終の発表会への参加も期待されました.しかし,諸般の事情で,最終的には宅間研2,溝上3の,計5件の発表になりました.ただし,小葉,米田,安倉先生には副査として参加して頂きました.また,2022年に赴任された情報メディア論の江口先生も自主的に聴講していただきました.

 溝上研からは以下の3名が下記の発表をしました.
1)高井 直人シェアサイクル「チャリチャリ」の利用動態と発生需要の分析
2)矢田 悟士「のるーと上熊本」の利用実態の把握と利用促進のためのナッジ戦略の効果
3)竹下 佳佑高齢者の免許自主返納率に与える要因と支援策に関する分析

 けじめの時なので,スーツ着用,人を惹きつけるPPTを,原稿無しで,時間内に分かり易く発表せよという宿題に対して,彼らは概ね合格点でしたが,分析技法や結果の意味といった本質的な質問にはほとんど答えられない結果となりました.

 今年度は下記のようなスケジュールで進めてきました.
   ・演習Ⅲの成果発表会:2024年4月24日(水)4限,5限
   ・中間発表会:2024年10月9日(水)4限,5限
   ・最終成果発表会:2025年2月12日(水)4限,5限
 経済学部の学術面での充実を図るためにも,「演習Ⅳ(卒論)の実質化」のためにも,来年度も概ね上記のようなスケジュールで進めたいと思っています.目標としては,5つ以上の研究室から計15人以上の発表を!

2025.02.10
「『のるーと上熊本』の自動運転化に向けた協働のあり方」公開勉強会を開催しました.

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 2月10日(月)15:00より,「『のるーと上熊本』の自動運転化に向けた協働のあり方」と題した勉強会を本学1411教室で開催しました.この勉強会は,熊本学園大学高度学術研究プロジェクトの第1期採択案件で,溝上教授が研究代表者の「地域モビリティ共創研究」の2024年度第2回公開勉強会として,本学高度学術研究支援センターが主催,TaKuRooとEMoBIAが共催となって開催されたものです.

 2024年秋からTaKuRooが営業運行を開始した区域運行型オンデマンド乗合タクシー「のるーと上熊本」の自動運転化を実現するための産・学・官の協働のあり方を考えるために,同様のカート型車両を自動運転化してLEVEL4に近い形の実用運行を果たした名古屋大学未来社会創造機構モビリティ社会研究所の2名の特任教授から講演を頂きました.さらに,私から全九州の産・学・官体制で名古屋大学のノウハウをのるーと上熊本に横展開してもらうプロジェクトの提案を行いました.

 勉強会,および12:30からのるーと上熊本がサービスを提供している上熊本・池田地区における試乗会には,それぞれ39名,16名の参加を得,成功裏に終わることができました.また,勉強会後の懇親会には24名もの方に参加いただきました.試乗会では,エリア内には多くの住宅があるものの,上熊本駅からは急峻で狭隘な街路網しかなく,隙間風が通り抜けるゴルフカート型ではありますが,のるーと上熊本は地域住民にとっては有用な移動手段になっていることを実感されたのではないかと思います.

 勉強会では,講演者のお一人の名古屋大学の金森特任教授から,金森先生達が技術的支援を行い,春日井市と連携して運行している「高蔵寺ゆっくり自動運転」が現在の住民主体の運営管理による運行に至るまでの7年にわたる官・学の継続的な実証実験の経緯と工夫や苦労を説明頂きました.また,もう一人の講演者である赤木特任教授からは,国内外の自動運転技術の現状と名古屋大学自動運転プロジェクトで開発した自動運転ソフトウェアパッケージADENUの機能や特徴を説明頂きました.世界最先端であるWeumoはUSで,Baiduは北京などで自動運転タクシーサービスを展開してはいるが,その裏には重厚な遠隔アシストがあって初めて実現していること,ADENUはティアフォーのAutowareなどがBaidoのApolloが目指す世界とは違って事業やコストに見合った機能を提供するシステムであり,保守・運営サポートまでも目指していることなどを説明していただきました.金森先生,赤木先生ともに非常に有意義な講演であったと同時に,「のるーと上熊本」の自動運転化には最も適した自動運転システムであり,その実装備と持続的な運行・運営を可能にする絶好のパートナーであると確信したところです.

 金森先生からは「高蔵寺と比較して上熊本・池田地区ADENU導入はかなり難しそう」と言われましたが,赤木先生にはこのエリアをADENUの機能と性能向上のための実証フィールドとして使ってもらうと同時に,のるーと上熊本としてはまずはLEVEL2から,いずれはLEVEL4への自動運転化の実装実現という,互いにwin-winの関係になるようなプロジェクトを立ち上げられればと思います.参加いただいた民間企業や学術研究者の皆さんも「この技術はうちでやりたい!」とか「うちのシステムを付加するともっと自動化が可能になる!」などなど,種々の想いを抱かれたことと思います.その想いを結集してこのプロジェクトに参画頂ければ有り難いと思っています.
 そのためには何らかの国プロを獲得し,コンソーシアムを構築し,研究も技術も結集する必要があります.現役最後の大仕事,頑張るぞー!

2025.02.09
高の面白い話(30)

 1月13日は会社が年会を行う日でした。私はにぎやかな雰囲気が好きで、会社が団体活動を行うたびにとても楽しみにしていて、積極的に参加しています。しかし、今回の年会では、私がKTV(カラオケ)で酔っ払ってしまい、断片(脳が真っ白)になり、何が起こったのか覚えていないほどになりました。翌日は予定通りに深センから広州に顧客を訪問しましたが、体調の回復には三日間もかかりました。
 普段はメンツを大切にする人なのに、同僚の前で酔っ払ったことについて、私は強い恥じと自責を感じました。通常の仕事に影響はありませんが、一人だと思わず涙が出ることがありました。主人には言えません。彼は私の強がりが好きではありません。そして、私は彼の前で体面を保ちたいです。
 山東人だと言うと、“熱情好客”( 豪快で情熱的で客好き)のイメージがすぐに浮かぶ人が多く、酒席に座ったら、“山東人はお酒が強い”と言う人も多いだと思います。大学就職するまでは、私がお酒に触れる機会はめったにありませんでした。父はタバコを吸わないし、お酒も飲まないです。お酒を飲むシーンや敬酒(お酒を勧める)のシーンは、来客をもてなす会食に限られていました。2007年、卒業したばかりの私は営業の仕事をしました。山東市場の開拓を担当したため、総経理と一緒に客先を訪問してお酒を飲む機会が多かったです。当時、酒席で商談する気風が盛んでいました。初出茅廬で若く無知だった私が、総経理の目つきを見て、グラスを持ってお客様に敬酒することに慣れました。山東人は齊魯文化と儒家文化の影響を受けて、酒席のマナーやルールは非常に多いです。お酒を飲むとき、“一口闷”(一口飲み)にこだわり、豪快さと仗義(義気)を表します。山東人として誇りに思っていますが、南に着いても北の文化をそのまま使ってしまい、融通がきかない自分に腹を立ています。“山東人はお酒が強い”の大衆の心理が私に圧力と表現欲も与えたと思います。数えてみたら、自分はお酒を飲むリズムを守れなくて、数種類のお酒を混ぜて飲んで、年齢を無視して、気分に油断したなど沢山のタブーを犯しました。何と言っても、浅薄に酒量で豪快さを証明してしまい、酒卓は感情の交流、信頼の構築の場だと忘れました。
 私にとって、過去のことは取り返しがつかないし、手放すのも難しい、落ち込んだ気持ちは10日間続いました。1月22日は北方の小年でした。小年には除塵と祭灶の風習があります。私は朝早々に起きて、窓を開けて、明るい新年の歌を流して、そしてわざと音響の音量を最大にしました。この除旧布新、吉祥納福の素敵な日に借りて、ゴミを捨てるように、嫌なことを捨てなければないと自分に言い聞かせ、同時に”一切都是最好的安排“(すべてが最善の手配だ)、”今回の教訓は私を守っているかもしれない、今後さらなる損失を回避する警告でもある“と自分を慰めて、私は二度とこのようなことが起こらないように決心しました。

 幸いなことに、今回の不愉快なことは春節(新年)の前に起きました。春節は“辞旧迎新”(旧を辞して新年を迎える)の日です。誰もが新しい年に対して美しい憧れを持っていて、過去に感謝し遺憾を成長の養分に変えて、春節も私たちにもっと時間を大切にするように思い出させてくれます。春節は中華民族の最も重要な伝統的な祝日として、2024年12月に国連教育科学文化機関の人類無形文化遺産代表作リストに正式に登録され、春節文化が世界的により広範な認可と保護を得ています。
 春節の世界遺産登録に成功した後、全国各地で“非遺風”が巻き起こり、伝統的な年中行事、例えば貼春聯、舞龍、獅子舞(舞獅)、庙会(まつり)などがより重視されて、文創年貨品は2025年春節の消費のホットスポットとなりました。より多くの外国観光客が中国に来て中国年を体験することになったそうです。昆山の春節を祝う雰囲気も濃厚でした。私は年宵花(新年を祝う花)と装飾画などを購入し、家と昆山事務所に対聯を貼りまして、新しい年が“平安喜楽,五福臨門”であることを願いました。

 主人の会社は1月24日から休みに入り、連休は2月5日までの13日間でした。このような長い休暇がめったにないため、彼が1月24日に煙台へ行って新年を迎え、1月30日(正月初二)の一朝に煙台から黄山に出発することを提案しました。そうすれば、両方の家族に配慮できます。私も心から両親と団欒したいと思いますので、主人の意見に賛成しました。実は、実家には嫁入りした娘が実家で過年(新年を祝わう)しない習慣と、正月初二(今年は1月30日)や正月初三(今年は1月31日)に嫁入りした娘は夫と一緒に実家に帰り、婿が義父、義母に新年の挨拶をし、妻の実家に昼食を食べる習慣があります。しかし、正月初六(今年は2月3日)に主人の表弟(いとこ)の結婚式を参加するため、やむを得ずに昔の伝統を破れました。両親は賢明で、私は遠くに嫁いで、南北の文化と伝統的な風習はもともと多くの違いがあって、なんじにも両立するのは難しいことを理解しています。両親はいつも私の決定を尊重して、ただ私たちを奔走させたくないです。今年私が家に帰って新年を祝うことを聞いて、やっぱり嬉しかったです。

 春運期間、帰省の高鉄の切符の購入が非常に難しいでしたが、今年は手間なく切符が買えました。ここ数年、煙台と威海は“雪窝” (雪の巣)と呼ばれ、両親は大雪が私たちの移動に影響を与えることを心配して、電話では“四九”や“ 五九”などの話がよく話してくれました。村では“数九”を通じて天気を予測する習慣を残しています。“数九”は古人が生産や生活の実践に基づいて自然界の天気の兆候に対する経験です。冬至から始まり、9日ごとに“一九”と呼び、“九九”の81日までになって寒気が尽き、天気が暖かくなることを表します。小学校二年生の語文教材に≪数九歌≫があります。
 “ 一九二九不出手,(一九二九は手を出さず)
   三九四九冰上走,(三九四九は氷の上を歩く)
   五九六九,沿河看柳,(五九六九は川沿いで柳を見る)
   七九河开,八九雁来,(七九には川が解け、八九には雁が来る)
   九九加一九,耕牛遍地走(九九に一九を足すと、耕牛が至るところを歩く)“
 ≪数九歌≫により、1月24日に実家に帰った日は、最も寒い“四九(1月17日~1月25日)”の終わりの時期でした。まず思いついたのは、主人に羽绒服(厚いダウンジャケット)を買ってあげることでした。両親に何の年貨品が必要かと聞くと、返事はいつも“人が帰って来ればいい、家には何でもあるから、何も買わないで”です。

 1月24日午後3時半ごろ、私が家に着きました。
 煙台に戻った最初の数日は天気がよくて、寒くありませんでした。同じ高鉄に乗っていた何人が威海、煙台、青島を旅行して雪景色を見に来ったことを思うと、今回、彼らが雪見えないだろうと思わずに思いました。  1月27日(除夕の前日)の朝、目が覚めると庭には雪が積もっていまして、そして、吹きすさぶ北風に雪が混じって舞い降りていました。あ、雪が降りました。
 父は掃帚(ほうき)を持って雪かきをして、早起きした次男もいたずらに道具を持って街で雪遊びしていました。前に掃いたばかりの路面はまた雪に覆われて、雪が一日断続的に降りました。
 気温が急降になって、暖かいオンドルに座って雪見をするのはとても幸せなことですが、両親はまだ忙しい“忙年”の行事する必要で、弟は養殖場で犬に餌をやるなど仕事があります。朝食後、山に住む養殖業者の遠縁の親戚が母親に電話をかけ、蒸干糧(面食を作る)用の酵母粉が欲しい、また、私一家が戻ったことを聞いて、牡蠣をいくつか用意してくれたと言いました。お二人は向かい合って行くことを約束して、母は急いで酵母の粉を持って迎えに出かけました。私は母と一緒に出かける勇気がありませんでした。暖かい場所で長く暮らしていて、雪をめったに見ない私は、実家の北風に吹かれて息苦しくなり、風霜に耐えられない温室の花になったようにビビっていました。その時の北風が特に猛烈で、目を開けられず息切れるほど辛かったです。私は“母はどうしてこんな悪天候に出かけるのですか、風が弱くなってから出かけたらいいじゃないの。”と父に文句を言いました。父は鍋を洗いながら、しようがない表情で私に”あなたの母は活菩薩だ”と笑って言ってくれました。村の大事も小事も人情や世故にこだわっています。母のそばにいるたびに、母の楽観的、寛容、“熱心腸”(心が温かい)、勇敢に感染されます。

私は小さい頃から寒がりでした。“棉袄棉裤”( 綿入れの服、綿入れのズボン)をはいても手と足が凍傷だらけになるので、学校のみんなが“毛衣毛裤”(毛糸の服、毛糸のズボン)をはいているのがうらやましいと思ったことがありました。その時代、凍傷軟膏を聞いたことありませんでしたが、母が村の達人からナスの枝やサンザシなどを火で焼いて傷口に塗る偏方を聞いて、色々試してくれました。サンザシの偏方と言えば、焼いたサンザシをペースト状に押し、凍傷の上に厚く敷いて布で包みます。敷いた最初は柔らかくて暖かく感じますが、すぐに冷たくなります。一晩敷いて、翌朝の登校時に取り除きます。手間はかなりかかりましたが、効果はなかったようです。凍傷は20年近く私を伴っていました。日本に行ってから凍傷はもうしないです。

 厳寒の冬に苦労して生活する必要がないという点から言うと、私は幸運です。両親と弟が1年360日、酷暑厳寒に関わらず養殖場で働くことがどれだけ大変か感慨深いとともに、実家の発展の苦境も感じました。冬になったら、労働力は使い道がないため、オンドルの上に隠れて暖をとり、マージャンをして時間をつぶすのも仕方がありませんが、村民の本音は、何か有意義なことをしてもっとお金を稼ぎたいです。
 両親は主人をとても気に入っています。両親は方言を話しますので、少しコミュニケーションの問題があると思います。北と南では生活習慣や方言、春節の料理も異なりますが、十六年も結婚したので、主人にも馴染めたと思います。両親はいつものように台所でおいしい料理を用意してくれました。弟一家は毎日村に来てくれて、5人の子供が一緒に遊んで歓声が絶えませんでした。もちろん、騒いたり、けんかのもよくありました。母はいつも“子供がいるこそ、家がもっと温度があるのよ”と寛容に言ってくれます。
 実家の過年と言えば、蒸干糧(面食を作る)、大掃除、貼対聯(対聯を貼る)、吃年夜飯(年夜飯を食べる)、看春節晩会(春節の夕べの番組を鑑賞),守夜(寝ずに新年を迎える)という一連の忙年の活動です。子どもたちのにぎわいと両親の忙しさに伴い、団欒な新年を迎えました。

 1月30日(正月初二)の朝、弟がを威海駅まで送ってくれました。新年の駅はいつもと同じように、旅客が多くて、座席のない乗客が車両の接続エリアの地面に座っていたのもありました。山東省と安徽省は1000キロ以上離れていて、私達は高鐵に乗り継いで12時間かりました。

 主人の家の気温が8度前後、私たちが着いた翌日から雨が降りし続けました。室内にはエアコンが使わななくて、火桶で暖まっています。火桶と言えば、徽州地区のほとんどの家庭にある木製の樽のような装置ですが、北の私にとって、主人の家に嫁いてから火桶の存在を知りました。主人の家でには楕円形の大火桶が2つ、丸い形の木製火桶が1つ、電気を挿した四角い電気火桶が1つあります。昼間のほとんどの時間を火桶の中で過ごします。炭火鉢を置く火桶の方が気持ちがいいと思います。その内部は中空で、底面に炭火鉢を置く、炭火鉢の下には大きな煉瓦や厚い板を敷いて断熱します。炭火鉢の上に、荷重用の鉄柵があります。桶の上に板を横にかけて人はその中に座ります。大きな火桶は2人で向かい合って座ることができ、お互いの距離を縮めることもできて、いい物件だと思います。座ってから布団で膝を覆うことで、熱気を長く保ちことができます。火桶に座って、おしゃべりをしたり、おやつを食べたり、テレビを見たり、携帯を見たりするのはとても快適です。主人のお兄さん夫婦と姪は毎年家に帰って新年を祝います。村に親戚も多いです。毎日、賑やかで楽しかったです。
 新年は会食が欠かせないです。1月31日(正月初三)の昼、主人の小舅舅(一番年下のおじさん)は後輩たちを招待しました。村の食事と言えば、油濃くて、塩辛くて辛いです。新年の料理に腌菜煮豆腐(お肉と豆腐の酸菜鍋)や牛肉鍋が欠かせなく、アルコールストーブで煮ながら食べるので、お酒を飲む時間が長くなって大丈夫、冬の会食に最適です。その日、男子たちが沢山飲みました。主人は楽しくて飲みすぎて、翌朝まで寝ました。

 主人の家では朝食と昼食は簡単です。夕食に義理の母がたくさん料理を作ってくれて、義理の母が作った紅焼肉(角煮)がとても美味しいです。義理の父は私に優しくて、いつも笑顔します。お兄さんも主人も親孝行の人で、主人の家の雰囲気もとても良いです。
 主人と私は家近くの河が大好きです。村では自由に爆竹を鳴らすことができて、主人は子供のように、私たちを連れて爆竹を持って河に魚を爆撃にいきました。私はまだ臆病になって、ひっきりなしに3人に安全に注意するように呼びかけました。沢山の爆竹を使いましたが、魚は一匹も取れなかったです。“醉翁之意不在酒”( 酔翁の意は酒にあらず)、主人と子供達が思う存分遊ぶことができて、本当に良かったと思います。

 2月3日(正月初六)は主人の表弟(いとこ、主人の母の妹の息子)がご結婚のおめでたい日でした。新婦は貴州人で、貴州は黄山から千キロ以上離れています。新婦の両親は貴州から安徽に送親を来ました。結婚前は新婦と新郎が会うことができない伝統があるため、新婦一家は県城のホテルに泊まっていました。結婚式は阿姨(主人の母の妹、おばさん)の家で行われて、当日、16卓の酒席があります。
 結婚式の前日、主人が部屋の飾りや宴会場の手配を手伝っていきました。結婚式の当日の朝5時、花嫁を迎る6台の高級車の車隊が揃いて、鮮やかな花を飾る作業を行いました。主人の車は婚車(頭車)に続いて、伴娘(花嫁付き添いの女性)と伴郎(花婿付き添いの男性)を乗せました。車隊は花嫁が泊まるホテルに迎親をして、迎親ゲームもホテルでしたらしいです。

 私と子供と約30人の親戚たちと一緒に、7時30分に村に入るバスに乗って、約1時間の山道を走ってから、阿姨の家に着きました。黄山の農村はよく発展していると思います。延途はすべて2階建てす。バスを降りてから客を迎える爆竹がパチパチと鳴りました。ここには迎客にも送客にも爆竹を鳴らす風習があります。室内外には真っ赤なおめでたいリボンや提灯、風船などが飾さられ、新郎と新婦が帰り前に、親戚たちが朝食を食べたり、お茶を飲んだりしました。
 約10時半頃、大きな爆竹が勢いよく鳴いて、新郎は新婦を背負して家のホールに入りました。地元の伝統により、拝堂儀式が行いました。拝堂式には通常、拜天地(天地を拝む)、拜高堂(両方の両親を拝む)和夫妻対拜(夫婦お互いの拝む)という3つの主要なステップがあります。この三拝の礼儀は伝統文化の伝承だけでなく、新人の美しい未来への祈りでもあります。

 新人を洞房に送ってから、宴会が始りました。目上の人は定席がありますが、私達は残ったテーブルに自由に座ってもいいです。車を運転した人が多くて、私達もお酒を飲まないので、宴会で気楽に食べられました。料理人は近くの村から雇ってきました。16テーブルの料理を作るのはけして容易ではありません。郷土料理は量が多く、都市のレストランの盛り付けのように考究しませんが、おいしかったです。

 あとから聞いた話ですが、証婚証人が読んだ証婚書は主人が作ったものでした。主人と表弟は仲が良くて、今回の結婚式で全力に手伝いました。自宅で婚宴を行うことで、支出の節約や習慣の伝承ができて、親族間の温かい人情を感じることもできます。阿姨夫婦は来客一人一人の世話をしないといけないので、大変お疲れ様でした。

 喜酒を飲んで喜気をつけ(沾喜气)て、私たちの休暇もそろそろ終わります。2月4日(正月初七)、主人と県城の舅舅(おじさん)の家に拝年(新年の挨拶)をしまして、2月5日(正月初八)私一家が昆山に帰りました。
 今年の年休は長くて、とても楽しかったです。私は思わず、毎日家族団欒で、お金があって暇がある日を過ごすことができたらいいなと感嘆しました。その願いはいつか叶うかもしれませんが、新しい年が始まり、仕事と生活をしっかりしなければないと存じます。過年(年夜飯)の餃子の中で、主人も私もたくさんのお金(コイン)を食べました。今年はきっと豊収年だと思います。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.02.07
久しぶりのOB会福岡支部,楽しかったね.

 2月7日(金)は,この10年来,協力している九経連交通委員会の企画部会に出席するため,昼過ぎには新幹線で福岡へ.この日は2,3日前から続いているこの冬一番の寒波で,出発の熊本でもかなり寒かったのですが,久留米辺りから雪が降り出し,博多駅直前で雪によるポイント異常のため,新幹線がストップ.しばらくの間,緊急停車していましたが,異常なしでスタートし10分遅れで到着しました.

 早めの新幹線に乗ったので会議には間に合いました.この日の関心は,土田国交省モビリティサービス推進課長の「地域交通の再新動向とMaaS2.0」という講演.地域公共交通を取り巻く現状,交通空白解消のための官民連携プラットフォーム,日本版・公共ライドシェアについての解説は要点がまとまっており,非常に分かり易く,参考になりました.特に,黎明期から抜け出さないどころか,最近ではその声さえ余り聴かなくなったMaaSの今後の展開となるMaaS2.0の目指す姿と推進スキームは注目でした.

 18:30からの計画研OB会福岡支部まで2時間ほどあったので,同じ委員会に出席していた福山コンサルタントの國分さんにお願いして,九地整の近くにある福山コンサルタント本社で時間を潰させてもらいました.既に退職された中村宏さんが在職中に,数回,訪問したことのあるところでした.そこには本研究室OBで昨年度から社長に就任した栄徳さんが東京本社から丁度来ていて,自社,および計画系建設コンサルタントの人材や技術不足の悩み,現在進行中の熊本都市圏PT調査のマスタープランの方向などについての意見交換を行いました.

 福山コンサルタントからは計画研OB会福岡支部会場まで歩いて20分くらいです.途中,急激に気温が下がった上に雪も降り出し,風が強くなってきました.なぜか幹事役を引きうけてくれたのは広島の復建調査設計本社勤務の竹隈君でした.会場は博多JRJPビルの中の「博多ワイン醸造所 竹乃屋」.JRJPビルというからKITTE博多と早合点して行ってみたのですが,そこにはそのような店は無い.なんとその南にJRJP博多ビルという別のビルがあり,その2階に大きなガラス窓の中にワイン醸造用のタンクが見えるおしゃれな店はありました.

 集まってくれたのは,2002修了で幹事の竹隈君に加えて,1995卒,1997修了の柴田君(福大),1996卒の森坪さんと1997卒の樺島君(共に福岡県庁),1998卒・2000修了の本田君(富士通)と吉田夫妻(KCS),それに2016修了の超新人,とはいっても就職してもう8年になる河口さん(パシコン)の計7人です.前回のOB会福岡支部は竹隈君が広島本社に転勤する送別会だったので,2年ぶりの開催でした.

 竹乃屋は博多に幾つかある居酒屋チェーンのようで,この店だけがワイン醸造施設を設置したおしゃれな店とのことです.ワイン醸造所とあるので,料理は小洒落た洋風料理かと思っていたのですが,通常の居酒屋と同じようなメニューでしたが,竹乃屋名物の鶏皮をはじめとした串ものは大変美味でした.長野のブドウを使った博多ワインはちょっと・・・.福岡支部のメンバーは仕事上や家族ぐるみの付き合いもあるようで,相変わらず仲が良く,自己紹介や近況報告などをしているうちにあっという間に9時になってしまいました.溝上教授は,翌日の大学の一般入試担当のため,余り深酒もせず,2次会も失礼して帰宅の途につきました.

 帰りの新幹線は雪のためにJR西日本やJR東海のダイヤに乱れが生じており,飛び乗ったつばめの自由席は満席で,久しぶりに立ち席でしたが,博多-熊本間が35分くらいで良かったです.一方で,困ったのは,熊本駅についても,まだ10時過ぎだというのにすでに健軍方面への市電は無し,バスも1時間に1本しか無いことです.観光地や地方都市での2次交通の充実が大きな目標となっている地域交通政策ですが,熊本市という政令市でも同じ問題が現実にあるのです.最近の市電の度重なる重大事故のため,管理運営体制を強化する目的で,熊本市は来年度に予定していた上下分離を延期しました.しかし,今のままの市電は全く使えん!!サービス向上と経営効率化のためには早く上下分離して上は民営化した方がよっぽど良いのでは?!と実感する日でした.

 全国のOBの皆さん,私が各地に出張する折は声をかけるので,集まってください.よろしく.

2025.01.27
2025年,明けましておめでとう.研究室東京支部のOBと楽しく飲みました!今年もバリバリ?働きます.

 大変遅くなりましたが,新年,明けましておめでとうございます.昨年もできる限り頻繁に身近な記事をHPにアップして,記事を楽しみにしている卒業生や友人達に見てもらおうと努力しましたが,なかなか筆も進みませんし,結構忙しくしています.今回が私からの今年初めての記事になりますが,これからもできる限りUPするので,暇なときにご覧下さい.
 さて,1月23日(木)には2015年から依頼されて協力している東大まちづくり大学院の講義を行ってきました.今年で10年になるのですね.

 歳のせいでしょうか,行きのフライトのチェックインをしようとQRコードをかざしても「ピー」という音と共にリジェクトされました.係の人から.「このフライトは既に出発しています」と.なんと,私が出発時刻と思い込んでいた時刻は羽田の到着時刻でした.あわててカウンターに行って事情を話すと,余程私の顔が憔悴しきっていたのでしょうか,「こっちへ来て下さい」と別のカウンターに連れて行かれ,「このチケットは変更不可ですが,今回に限って無料で次の便に変更します.」としてくれました.少し早めのフライトを予約していたので,1時間30分後の次のフライトでも,講義開始まで1時間20分ほど前には羽田に到着できそうでした.残念ながら着陸からゲートへの移動に時間がかかり,余裕は1時間.それからジョルダンの最短ルートを頼りに東大の講義室に着いたのは講義開始から10分遅れでした.
 それでも4名のリアル受講者と10数人のリモート受講者,それに高見先生までも,昨年までの講義内容に若干の情報を加えて改訂した「熊本市の革新的な地域公共交通戦略 公共交通基本条例に基づく路線網再編計画と新たな補助制度・運営組織の提案」を真剣に聴いてくれました.リモート聴講者の中には昨年の受講生もいたようです.有り難いことです.

 終了後はGOでタクシーを手配し,東大工学部正門前に配車されたタクシーで神楽坂のオシャレなイタリアンレストランへ. 10:00スタートになるけれど上京した私のためにIBSの上野君が研究室東京支部ミニOB会を企画してくれたのです.そこには,古澤君,森田君(パシコン),山本君(国交省),八戸君の(日本工営)が集まってくれ,近況や当時の話で終電直前まで盛り上がりました.上野君,皆さん,有難う.

 翌日は二日酔いのまま,移転したばかりのIBSを訪問し,現在のパーソントリップ調査の実施や都市交通マスタープランの策定状況,その理念や目的・需要の分析と予測技術の動向などについて,森さんと石神さんにインタビューをしてきました.近年,適切なモーダルミックスを指向してきた総合交通体系という考え方がぼやけてきており,そのためのPTの位置付け,調査方法や活用方法も以前とは随分変わってきていること,分析技術的には相変わらず段階推定法を用いているが,配分に至っては大手建コンでさえ,それができるような技術者がいなくなってきていることなどが分かってきました.
 都市モビリティプランであるSAMPではないですが,

  1. ①「どのような都市をつくるか」を最上位の目標として,県・市の合い言葉「自動車1割減,交通渋滞半減,公共交通2倍」という達成目標に向けて都市計画マスタープランや立地適正化計画をベースに,道路,公共交通,自転車・徒歩などの全てのモビリティの方策パッケージをバックワードで組み上げていくこと
  2. ② 需要分析技法としては,個人の行動を分析することができる動的なアクティビティベースドモデルを基本としてネットワーク上での交通流動もシミュレーションで再現すること
が必要という結論に至りました.現在,その分析と計画策定を進めている第5回熊本都市圏PT調査ですが,上記を実現し,当初の総合交通体系への復権のターニングポイントとなるようにしたいと決意しました.

 行きの飛行機に乗り遅れるなど,様々なハプニングから始まった今回の上京はいろいろな意味で有意義な1泊2日となりました.今度はもう少し余裕を持ったスケジュールで上京します.そのときは今回参加できなかった在京の多くのOBとも会いたいと思っています.待っててください.

2025.01.05
高の面白い話(29)

 明けましておめでとうございます。昨年、文書を読んで頂き誠にありがとうございました。今年もどうぞ宜しくお願い致します。

 2024年12月の記事はその月に書くべきでしたが、仕事が忙しかったのであっという間に2025年に踏み入りました。私が務めた会社に毎年恒例の“漢字一文字企画”がありまして、“2024→2025あなたにとっての漢字一文字は?”というテーマがあります。私の時間と精力は殆ど家庭と仕事にかけているので、深く考えずに私は漢字“好”を選びました。2024年を振り返ると、あらゆる面でますます良くなっています。不安や悩みがありますが、2025年に入ってあらゆる面で更に良くなっていきたいです。

 12月は1年間の営業実績まとめと来年の営業予算を提出する時期です。私の2024年の営業実績は2023年より倍増しました。未回収金はなく、新規顧客5社が開発に成功し、そのうち2社は12月末に追加発注しました。これらの数字だけを見ると、この一年間の仕事上に良い成績を収めました。数字がきれいで、営業担当として光栄ですが、数字は達成感を測る唯一な要因ではないことをよく存じます。目標を達成するには個人の努力だけでなく、中国自動車市場の繁栄、貿易会社の強力な協同、日中チーム全員のご協力が大切です。業界のリズムはますます速くなり、進まざるを得ないことが多くて、未知に対する不確実性が高まっていることも実感しています。

 時間とともに進むのは大変ですが、新しい体験を増やすことはいつも楽しいです。12月8日に“海峡両岸(昆山)マラソン”が開催され、私一家が歓楽跑の競技種目を参加しました。マラソンと言えば、プロのランナーだけが参加できる伝統的な競技スポーツかと思っていました。20年ほどトレーニングをしていない私には参加する機会があるとは思わなかったです。厳密に言えば、歓楽跑は非厳格な競技種目です。全長約6キロで、42.195キロのマラソンや21.0975キロのハフマラソンとは大違い、一般人としては、自宅の近くで手軽くマラソンを楽しめるようになって、本当に良かったと思います。

 昆山マラソンが初めて開催されたのは2018年でした。今回は4年ぶりの開催となり、4回目となります。私は2014年に昆山に来て生活はじめましたが、昆山にマラソンを開催したことに注目したことがありませんでした。宣伝資料により、昆山マラソンの宗旨は“海峡両岸は家族”です。昆山には約4千社の台湾企業があり、約10万人の台湾人が暮らしています。ここ数年、離れていく台湾企業がありますが、マラソン大会を通じて、多彩な台湾文化と昆山の魅力を融和して、海峡両岸の経済文化交流と協力を拡大する望みは変わりがありません。

 昆山マラソンにはマラソン、ハーフマラソン、歓楽跑の3つの競技種目が設置されています。歓楽跑のランナーの応募人数は3000人です。私は10月中旬に公式サイトで申し込みました。参加料は一人当たり100元で、公式サイトで費用を支払ってから申し込みが成功になります。マラソンの定員は5000人、ハーフマラソンは8000人です。応募者の人数が設定者の数の上限を超えた場合は、抽選が行われます。

 二人の子供はマラソン大会を楽しみにしていました。特にスポーツ好きな次男が自信満々に順位や賞金を目指しました。子供の目には、私は最も努力して鍛える必要があります。彼らは厳しく私に“ママ太りすぎ”、“ママお腹が大きすぎでダイエットしなさい”と言ってくれて、“早く運動して、足を引っ張らないで”と注意してくれました。

 中国には“好漢不提當年勇”(好漢はその年の勇を語らない)という話があります。中学時代の私は中長距離陸走選手でした。クラスや学校を代表して運動会に参加し、スパイクシューズを履いて、400メートルと800メートルの試合に参加していつも順位を獲得したのに、今は体力も持久力も劣っています。彼らが託児所に通っている間に、私が数回に家の近くのバスケットボール場で走り回ったことがありましたが、続かなかったです。自分のレベルは1、2キロ走ると息が切れるほどと存じます。6キロの歓楽跑が耐えられるかどうかについて自信がありません。

 大会の前日、4つの参賽包(諸物品)を受け取りました。参賽包には火鍋のスープ、インスタントラーメン、植物乳、豆乳、ビール、コーヒー、レインコート、ティッシュペーパー…が入って、初参加の私達にとってサプライズでした。私が特に好きなのは好運蓮蓮という名がある参賽服です。参賽服は半袖で、速乾生地、青紫色のグラデーションに、昆山のランドマークである古蓮橋、凌空宝塔と台湾のランドマークである阿里山、日月潭の図案があり、昆山と台湾の融合を意味します。昆山は鹿城と呼び、昆山マラソンのロゴ―“鹿”も描いています。万人のランナーが鹿城昆山でマラソン精神を伝え、鹿城の美しい景色を鑑賞する意味があります。昆山人が并蒂蓮という蓮花が好きのようです。并蒂蓮が参賽服に咲いていて、幸運と円満を意味します。もちろんマラソンやスポンサーの情報も印刷されました。ざっと見積もってみると、参賽包だけでも100元の参加料に値します。マラソンの参加料は200元/人、ハーフマラソンは120元/人、参賽包はもっと豪華らしいです。また、マラソンとハーフマラソンコースの沿道には多くの食料補給があり、撮影者、応援者、医療スタッフと公式配速員が付き添い、獅子舞や柔力球などの文旅活動も試合に彩りを添えているようです。

 マラソン当日は晴れていて、参賽服だけだと寒いでした。子供たちが風邪を引かないように、試合後すぐにダウンジャケットを着られるように、主人が会場近くに駐車しました。年に一度のマラソンは道路閉鎖や交通に悪影響を出るかなと思いましたが、交通が整然でした。

 大会当日、約16000名のランナーが昆山城西体育センターで集合して、朝8時、銃を鳴らしてマラソンA区のランナーは走り出しました。スタート順はマラソンA区、ハーフマラソンB/C区、歓楽走D区の順でした。マラソン、ハーフマラソンのランナーの参加番号札にタイムチップがあり成績記録できますが、歓楽跑は特定の時間基準を達成する必要がないため、チップがありません。

 私一家は参加服を着て、巨大な行列に立ちました。ランナー達は凄く情熱でスタートラインの雰囲気は盛り上がっていました。周辺には撮影者や応援者も沢山いました。歓楽跑は主に子供連れの家庭だと思っていましたが、各年齢の成人の参加者が非常に多かったことが分かりました。銃を鳴らして当初中々走れなかったですが、1キロからお互いが徐々に距離が開いてきました。走りにつれて、体がだんだん暑くなって汗をかき始めました。一瞬、ダイエットとランニングを続けたい気持ちがありました。やはり人が多ければ勢いも大きい、雰囲気に乗って、私も一気に4キロを走りました。長く続きランナーの行列が街の中の明るい風景になりました。

 主人と長男体力が良くて、先にゴールまで走りました。次男と私はだんだん体力が続かなくなってきて、2、3回休んでからゴールまで辿り着きました。私は走ることに夢中になっていたので、次男にマラソン精神を教えるのを忘れていましたが、彼があきらめなくて、自分の限界に挑戦することもスポーツ精神の実行でした。主人と長男がゴールで私達の姿を待って撮影をしてくれました。終点にあるタイムボードを確認したら6キロの成績が約39分でした。子供達が賞金の話をしなくなりました。私たちはフルコースを完走することができて、すでに勝利しました。

 勝利の完走者に対して、 道を挟んで歓迎の列がありました。水とミルク以外に完賽牌(完走メダル)が配られました。メダルを受け取ったことはやっはりサプライズでした。メダルは蘇式窓枠を底にして、ハスの葉の元素を加えて、傲立たる并蒂蓮、そして生き生きとした龍の図案があります。重くて豪華な感じをし、良い記念物になります。

 会場で暫く写真を撮って、寒く感じました。車に戻って、ダウンジャケットを着いて体が暖かくなりました。外が寒いので、私はマラソンとハフマラソンの現場を見に行きませんでした。ネット上には昆山マラソンの生中継やショートビデオ、大会に関する書き込み、投稿がたくさんあります。知りたい内容は簡単に確認できます。私がマラソンの内容を頻繫に検索したので、ビッグデータはマラソンに関する情報をたくさんプッシュしてくれました。情報により、中国ではマラソンやランニングがブームとなっています。マラソンは単なるスポーツ分野を超え、国民のフィットネスを促進するほか、“マラソン経済”にも発展し、文化、観光、ビジネス、政治を融合した総合型民生プロジェクトとなっています。

 他の地域から昆山マラソンを参加に来たランナーが多かったらしいです。ブロガーたちが昆山マラソンを好評する声もありました。歓楽跑の初心者ランナーとして、私も昆山政府と関係機関のマラソンに対する重視と誠意を感じました。海峡両岸の経済発展と文化交流の目標を実現できれば最高ですが、“スポーツ強国”となる道のりにおける着実な一歩だと思います。

 マラソンの文章は書くと長くなってしまいます。マラソンは2000年以上の歴史があるそうです。昆山マラソンも長く続けてほしいですね。

 私にとって、12月のもう一つの新しい体験は皮影戯(ピーインシ)です。皮影戯は中国の有名な伝統的な民間芸術であり、歴史、民俗、詩詞歌賦、絵画、彫刻、演技、吹拉弾唱(打楽器や弦楽など演奏と歌唱)など多くの芸術手段を一体化した“映画”のようで、その原型が2000年前の漢代に遡ることができます。次男と一緒に鑑賞した皮影戯はには“豪華大作 百年劇団 古典国粋 親子皮影戯《大鬧天宮》という立派な名があります。ポスターによると、演出地は昆山文化藝術中心の大劇場であり、舞台はパノラマワイドスクリーンを採用します。演出者は“馬氏皮影” 劇団です。皮影戯は年代や地域によって、多くの派閥に分かれているようです。“馬氏皮影”は河北省唐山に位置し、清朝末期に創始され、今は6代目に伝承されています。皮影戯業界の巨匠が自ら舞台に登場と思うと、自宅の近くで国家級無形文化遺産を楽しめて、ぜひ子供達と一緒に体験してみたいです。長男は“西遊記”や“斉天大聖(孫悟空)”の鑑賞には全く興味がなくて、スマホゲームが遥かに面白いと言い、頑固に留守番をしました。

 鑑賞券は座席により180元、280元、380元です。開演30分前に入場券を購入した原因かもしれませんが、280元の座席が半額になりました。私と次男二人で280元をかかりました。劇場ホールの入り口には唐僧、孫悟空、猪八戒、沙和尚などの皮影を展示していました。観覧したり購入したりすることができます。触ってみって、皮影は硬く弾力があり、色が鮮やかで透明感があり均等の厚さがあるようです。人形の手、ひじ、腰、足などの関節部分をそれぞれ分けて細工してから、合わせて組み立てています。

 劇場は半分以上の観客がいって、なぜか良い座席が沢山空きました。子供連れの家族が多かったです。開場のシーンは、漢武帝の妃の李夫人が亡くなった後、漢武帝は彼女をとても懐かしんで、大臣李少翁は綿織物で李夫人の像を刻み、色をつけ、手足に木の棒を入れて、明かりに照らされながら幕の後ろで人形を操り、李夫人の影が生き生きと映し出して、漢武帝は大喜びしたという皮影戯の起源の物語を演出しました。

 続いて、シーンは古代から現代の中国の民間に切り替わりました。父親と皮影戯の技を受け継ぎたい娘との会話を通じて、皮影戯の歴史伝承の責任感と豊かな文化芸術の蓄積、後継プロの職人の苦労さを表現しました。2つ目のシーンが終わると、馬氏皮影の6代目の後継者兼司会者が舞台に立ちました。彼女は若くて親切で舞台感覚が良いです。皮影を学ぶ経験と皮影の基礎知識を簡単に紹介してから、いよいよ本題に入りました。

 大昔、花果山という名の山があり、山頂には巨石が露出していました。天地開闢から日月の精華を吸収し、仙胎を育み、何と巨石が石猿を産みました。物語は石猿出世、金箍棒を強奪、蟠桃盛宴、大鬧天宮(大暴れ天宮)、斉天大聖の5つの章節に分けて、合計70分間の演出が続きました。《大鬧天宮》は中国四大名著の一つである《西遊記》に記載した物語です。子供の頃、孫悟空を題材にしたドラマ、アニメ、小児書がたくさんありました。孫悟空には金箍棒、火眼金睛、72の変化があり、とんぼ返りをすると10万8000里になります。どんな困難があっても乗り超えられる英雄のような存在です。

 素人の私から見れば、皮影戯に演出した孫悟空、竜王、玉帝、王母、天兵天将、太上老君、如来仏などの人物像がはっきりしていて、複雑な感情、戦闘シーン、誇張した芸術手法が幕に映し出されて、衝撃的な音楽と自然なナレーションが合わせて、子供たちは興味津々に見ていました。不足な点と言うと、楽器の伴奏は録音を使ったようで、角度の原因なのか動きの切り替えが速すぎの原因なのか分かりませんが、影がぼやけているときがありました。次男はストーリーが幼稚だと思い、スマートフォンを遊びたかったです。せっかくの体験だと思い、最後まで真面目に鑑賞することを説得しました。

 演出が順調に終わり、司会者と観客がインタラクションしました。司会者は500個の道具を操作するには3人の職人しかいないと紹介し、幕切れで観衆の拍手にこたえて職人達が舞台に現れました。私は外見で人を判断する人です。ポスターを見て、皮影戯業界の巨匠が演出と期待しましたが、弟子でしたので、がっかりしました。その瞬間、入場料が高いなと思ってしまいました。私には若者に対する包容力と芸術に対する鑑賞力が欠けているだけでなく、芸術文化とお金を混同してしまうこともしています。私のような人は少なくないと思います。これも文化伝承の困難の一因でしょう。多くの古い芸術形式は私たちの生活から遠ざかっています。一般人としては、お金を稼ぐのは容易ではなく、お金で物事の価値を測ることに慣れています。芸術の価値は計り知れないもので、消えてしまうのは非常に残念なことを存じます。国は文化の伝承と文化的自信を重視しています。多くの職人がなくなり、古い材料もだんだん消えていくことは事実ですが、達人は民間にいることを信じます。振り返ってみると、お若い3人が数百の道具を操作しながら物語を歌うのは偉いです。“一口で語れば千年の故事、両手の舞いで百万の兵”という 素晴らしい皮影戯がこれからも長く続けてほしいです。

 12月25日は主人と私の結婚記念日です。多くの方がクリスマスを祝う雰囲気の中、二人は結婚16年周年を迎えました。主人が外賣(宅配サービス)を頼んで昆山事務所に花束を送ってくれました。彼のロマンチックに意外でしたがとても嬉しかったです。私はプレゼントを選ぶ時間がなくて、Sam‘sの宅配サービスを使い、チョコレートを買いました。生活に追われている私たちが恩愛に浸るだけではないことを存じますが、美しい願いはあったほうが良いですね。

 人生が戯(芝居)のようだと言う人もいれば、人生はマラソンのようだと言う人もいます。40歳で人生を語るのはまだ早いかもしれません。これからの長い人生に、着実に努力して素晴らしい日々を送りたいと思います。

 2025年、私たちがますます良くなることを願います。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2024.11.24
高の面白い話(28)

 ここ数年、家庭内や自分の身の回りで起こっていることをめぐって、私が文書を書き続けています。これらの文書は往々にして文才と見識を欠け、ただありのままに真面目に記録をしていて、中国語で言えば“流水帳”だと思います。 11月に入り、私は相変わらず充実した日々を送っています。2週間の間、上海、蘇州への短距離出張のほか、広州、深セン、恵州、東莞、香港、安徽黄山にも行きました。今月の“流水帳”( 現象の記載を羅列しただけ)が長いです。文書を最後まで読んで頂き誠にありがとうございます。

 11月の4日と5日、2人のタイの顧客が昆山事務所に来ました。6月のタイ展示会以来、私は定期的に当時の来訪者と連絡を保しています。今回、訪れた会社は自動車関連業界で、当社製品に興味を持ち、先進的で環境に優しい日本製品をタイに広げたいです。9月頃、先方が複数のサンプルを昆山に送り、私が加工を手配して完成品をタイに送りました。約一ヶ月の物性試験を経て、良い物性結果が得たので、先方がわざわざ昆山に商談に来ました。私には顧客の訪問接待に慣れています。送迎機から商談資料の準備、パートナー工場見学、ビジネス接待まで丁寧に対応し、上達ではない英語も十分に活用できました。商談に打ち込んだ自分は達成感を感じて、2日間とも楽しく興奮した状態でした。

 11月9日と10日は会社の“団建日”(会社旅行)でした。団建の場所は総経理が選定した深セン市街地か100キロ以上離れた恵州にある海辺別荘でした。会社は一軒家の別荘を借りました。部屋の数が社員人数を上回っているし、家族連れは許可です。ただ、自宅から集合場所までの家庭メンバーの往復交通費は自払いになります。別荘の宣伝を見て、私は清新でロマンチックな環境に惹かれました。別荘は白調で、複数の娯楽施設があり、内装が清潔で豪華そうに見えました。こんな立派な別荘にいると、子供も退屈しないでしょう。しかも、昆山はもう寒くなってきて、深センの気温はちょうどいいし、水泳もできます。この機会を借りて、子供と一緒に視野を広げて、リラックスできればいいなと思い、子供を連れて団建に参加することを申し込みました。

 偶然にも、主人の会社の団建日も同じ日でした。私たちが深センに行くことを聞いて、日本出張を終えたばっかりの主人も深センの出張を前倒し、私たちと深センで合流して、うちの会社の団建に参加することを決まりました。主人が忙しい中、会社のイベントに参加してくれてとても嬉しいです。 一方、子供たちは海辺の別荘で休暇することを聞いて、日を数えて楽しみにしていました。2日間の学校休みを取るので、予習と復習に励むように何度も言い聞かせました。彼らはいたずらをしたら、私は航空券を払い戻して脅かしてしまい、二人がすぐにおとなしくなりました。

 家族の航空券は自腹なので、なるべく安い便を探しました。一般的には、上海から広州への直行便は深センへより安い、早朝と深夜の便がさらに安いです。総合的に考えて、朝7時頃出発の航空券を買いました。9時半頃に広州白雲空港に到着してから現地の顧客の訪問にも間に合います。

 11月8日の朝4時頃、家がタクシーで上海虹橋空港に向かいました。飛行機は定刻に離陸しました。航空券は400元弱でしたが、吉祥航空会社のBoeing 787大型機に乗れました。しかも、機内は快適で食事を付き、テレビも見られました。子供達は映画を見たり、朝食を食べたり、寝る気がありませんでした。しかし、白雲空港から顧客に直行する途中、二人とも熟睡しました。顧客の工場に到着してもどうしても目が覚めませんでした。予定では、同僚と私は工場で合流します。私は1時間ほど早く着きました。工業団地には休憩所がなくて、守衛員に椅子を借りて二人を寝かすつもりでしたが、守衛員が私訪問予約した方を呼んできました。顧客に迷惑をかけたくないですが、先方が守衛室に来てくれて、熱心に会社のロビーのソファーまで案内頂きました。会社の車が到着後、子供達を車に抱いました。訪問先はスパマッサージシリンダー、サーフィンプールなど健康製品のトップ企業です。訪問は計画通りに行いました。顧客訪問中、会社の運転手が子供達の世話を手伝ってくれました。今思えば、この度、子供連れの訪問は気まずいもので、顧客に申し訳ないと思います。

 広州から深センへ行く途中、二人は携帯電話を争って、言うことを聞かなかったです。他人の見方に気にしますが、彼らを叱るのを我慢して、その代わりに、同僚に謝りしました。子供たちが大きくなったら一緒に活動したくなくなるかもしれませんね。今の時間を大切にするべきだと思います。

 夜10時過ぎ、主人は顧客の現場から私たちが泊まったホテルに来ました。家族4人が予定通りに深センで集まりました。ホテルに睡眠補助マットレスとスマート家電、巨大スクリーンがあり、子供たちが音声でカーテンの開閉を制御したり、映画の投影を見たりして、深夜12時頃、催促の中でやっと眠りました。私たちは翌日の恵州の旅を楽しみにしていました。

 9日の朝、深センの同僚たちがホテルに集合来ました。みんな家族を連れていたので、初対面の方が紹介し合いました。団建参加者は計28人、8人は子供でした。別荘がスペースのみ貸し出しで、会社はバーベキュー用の食材、飲み物など山ほど用意しました。専用車が別荘に向かって3時間ほど走りました。昼食は別荘周辺の“大排档”(海辺の屋台)で済ませました。観光スポットにおける“大排档”の物価が高いです。中心メニューは新鮮な魚介類で、美味しかったです。大人も子供も満腹でした。

 別荘は4階建てです。1階には将棋室、ビリヤード台、カラオケ、ゲーム機などの娯楽施設があり、部屋は2階に集中します。私たちの部屋にベットが3つあり、部屋の面積が広く、光もよく、ドアを開けると休憩席もあります。荷物を置いてから、みんなが再び専用車に乗り別荘から約2、3キロ離れた野外にクロスカントリー、射撃、CSプログラム(野戦ゲーム)を体験しました。

 オフシーズンのせいかもしれませんが、団体客は私たちを含めて2組だけでした。最初体験したのはクロスカントリーでした。クロスカントリーカーの車体が重いでした。決まった山道が曲がり、路面がでこぼこで、急な坂が多いです。車に乗ってから、この体験には力と度胸が必要だと気づきました。一台の車に最大2人乗りです。主人と次男は1台の車に乗り、私と長男が1台に乗りました。平道で練習した後、みんなが次々と山道に向かって走りました。運転上手だった主人に対して、私は非常に下手でした。エンジンが何度も止まって、車の向きを変えることができなくなりました。従業員は“あなたが無理だよ”と注意くれましたが、私は諦めたくなかったです。怖がれば怖がるほど悪い道ばっかり選びました。主人が都度助けてくれたおかげで、無事にゴールに辿り着きました。息子たちは勇敢でした。ずっと励ましてくれて道の案内もしてくれました。ドキドキしましたが、楽しい体験でした。

 4時以降、観光客は私たちだけになりました。二個目の体験は射撃(剣を撃つ)でした。主人は相変わらず勇躍で、弓を引く姿勢がハンサムで射撃の成績もよかったです。男性は力があって、大半が良い成績を収めました。誰かがブル(Bull’s eye)に当たった時全員が歓呼しました。大型弓矢は女性と子供にとって少し大変でした。主人が弓を握る手法を指導くれました。外れても恥ずかしくありません。楽しい体験でした。暗くなる前に3つ目のCS体験を終了必要があるので、射撃がそそくさと終わりました。

 指定されたCSのエリアに樹が多いらしいです。参加者の中に7名の子供がいるので、スタッフは安全上の注意事項について詳しく説明しました。水玉で人を打つのは少し痛いです。目を傷つけないように、全員が保護メガネをかけました。被った服の色によって、赤チームと黒チームに分けられました。我が家は赤チームでした。両チームは水玉箱を抱え、各自の銃を担いで、演習エリアに入りました。森の中の視界が悪かったです。近眼メガネをかけていない私は敵営すら見えませんでした。いっそ自発的に弾丸の交換役を担当しました。陣地に密集な弾丸の音が響き、私は何度も弾丸に当たりました。主人は銃を持って敵営に突入し、弾丸補給に来た時、頭が汗だらけでした。全員が闘志を燃やしていました。品質の問題で、いくつかの銃が途中で使えなくなりましたが、大人が良い銃を子供達に譲り、弾丸が終わりまでゲームを続きました。勝敗が分からないけど、大人も子供も遊びに夢中になり、撃たれて泣った子供はいませんでした。ただ、予測外のことに、黒チームのある同僚のメガネが弾丸で割れました。やっはり赤チームの優勝でしたね。

 別荘に帰る途中で、みんなのお腹が空きました。作業者が炭火の準備をできて、夕食は4階の露天バーベキューでした。別荘を経由して購入したバーベキューの食材は高いですが質が良くありませんでした。最初焼いたのは会社がSam’Sで購入した高級牛とヒツジスのステーキでした。高級肉が炭火でこんがり焼き、口の中に柔らかく広げて、香ばしくてとても美味しかったです。飲み物もお酒も数種類用意してあり、おやつも果物もかなり豊富でしたので、あっという間に大きなテーブルがいっぱいになりました。同僚たちやご家族はあまりお酒を飲まないです。気分が燃え上がるにつれて、男性たちは同じテーブルに囲まり、最初飲まなかった方もコップを持ち上げました。

 大きい子供は思春期に入って別荘に着いてから姿を見せなかったです。バーベキューも親が部屋まで送って一人で食べたようでした。小さい子供は急いて何口か食べてから携帯電話やゲームをしに行きました。息子たちはゲーム機に惹かれて、早々に1階へ遊びに行きました。

 子供の邪魔がなくて、みんなと一緒にいるのはとても楽しいです。。私が積極的にみんなと乾杯しました。お肉がすぎると食べられない、お酒が多すぎると飲めない中年人ばっかりなので、用意した食材が半分ほど残ってしまいました。バーベキューの後は自由活動の時間でした。主人と一緒に残った食材を冷蔵庫に入れてから、カラオケに行きました。歌上手な主人は2、3曲歌い終わるとソファーで寝てしまいました。主人は仕事が忙しくて疲れていたことを知っています。彼は遊ぶのが好きな人で、今日は思い切り遊びました。彼は責任感があり、体験プログラムでは、自発的に通訳を務めたり、人を助けたりしました。私から見れば彼は優秀ます。

 同僚たちは夜中12時頃までマージャンやゲームなどをしていました。私も深夜までカラオケを歌いました。部屋に戻る前に、主人を起こして2人の子供を見に行ったとき、彼らはまだ暗かったゲーム室で楽しそうにゲームをしていました。

 10日の11時半頃にチェックアウトしますので、朝、多くの同僚が海に行きました。別荘には朝食がないため、優しい総経理がパン屋へ人数分のパンを買ってきました。午前中は自由行動でした。海に行ってない方がカラオケを歌い続けたり、天台に行ってリラックスしたりしました。主人は長男にビリヤードを教えて、私は次男と天台に行って、彼が水泳をしました。

 11時過ぎ頃、リラックスした楽しい団建が終了しました。同僚たちが余った物資を分かちあい、専用車で深センに戻ります。主人と子供は翌日の朝の便なので、私たちは深センに帰らずに、海辺でぶらぶらしてから広州に行く予定でした。別れた時、長男が惜しまず泣ってしまい、わずか1日ですが彼と同僚の子供と友達になりました。

 こちらの海は“九铭屿海”と言います。海風は涼しいです。もう旅行の閑散期に入ったので、観光客が少なかったです。私は砂浜でヨガをし、主人と次男は小魚や小カニを捕まえに行きました。長男は最初、私から遠くないところに砂を掘っていましたが、疲れたと言って携帯電話を遊びました。次男が数匹小さなカニを捕まえて嬉しそうに見せてくれました。その後、彼が泣き出して、暗礁から滑りしてしまい、かかとがケガしました。熱心な子連れの観光客が絆創膏と消毒水をくれました。泣き終わって彼がカニを捕まえに続きました。主人はバケツを持って水たまりの水を排出し、底に魚がいるかどうかを見てみようと奮発しました。

 遊び疲れましたので、主人が食事に行こうと催促しました。海辺の“大排档”は高いと存じます。美団アプリでお得コースを探したら、1キロ離れた“大排档”に150元ほどのコースがあることを発見しました。主人とタクシーで見てみようと決まりました。期待の通りに、この店が広くて、店員も熱心でした。本来は150元のコースを狙いましたが、店員と交流後主人が豪快にボストンザリガニを含む298元のコースを決めました。コースの海鮮のサイズは重量で売る海鮮により小さいですが、どれも新鮮でした。主人とお酒2本を注文して、大満足でじっくり食事をしました。スーツケースがまだビーチにあることすっかり忘れてしまいました。

 満腹になってタクシーでビーチに戻ろうとした時、30分間経っても車がありませんでした。ビーチから遠くないので、歩いて帰ることをしました。子供は歩いたり跳んだりして楽しかったですが、スーツケースのことをずっと思う私が焦りました。余計な心配でしたが、スーツケースが安全でした。

 4時過ぎのビーチは寂しかったです。そろそろ広州へ行くべきでした。最初に料金を節約するため、滴滴アプリに選んだのは一口価格や安い車種ばっかりでした。しかし、30分間経っても注文を受ける人はいませんでした。やむを得ず普通車種を追加しました。

 惠州のネット予約車の数量が少ない原因か、目的地まで遠い或いは時間が遅いのせいか知らないですが、注文は様々な理由でキャンセルされました。注文から1時間が過ぎても車に乗れないとき、私がまだ焦り始めました。しかし、主人全然心配しない様子でした。

 5時のビーチは暗くなってきました。もう料金を考えている場合ではないと思い切って、私が一気に十数車種を呼びました。暫く経って、よっやく車乗れました。注文を受けた若いドライバーは滴滴アプリの初心者ぽいでした。礼儀正しく強硬に往復の高速料金を払わせてくれました。私は暗くなった海を早く離れたい一心で、もう他の車を探したくないです。彼の車は新能源自動車です。途中、30分間充電もかかりました。車に乗れた途端、子供達がぐっすり寝りました。

 広州白雲空港近くのホテルに着いたのは夜9時半でした。広州のホテルは深センにより安いです。ホテルに無料の洗濯室があり、汚れた服を一時間ほど洗濯と乾燥を完成しました。夕食は“炭火鶏煲”(炭火鉢鶏鍋)でした。お店の定番は新鮮の鶏の鍋です。まず、鶏を食べて、その後、野菜など食材を鍋に茹でます。お鍋がおいしかったです。スープが体を温めて、疲れも癒してくれました。子供は屋台の牛雑煮も食べてみたいので、1人分を買いました。主人が大忙しいので、一緒に外食することは滅多にないです。会社団建のおかげで、ゆったり幸せな時間を過ごせました。ホテルに戻った時もう12時になりました。順調なら、ドライバーも家に着いたかもしれません。

 11日の午前5時、ホテルの無料シャトルバスに乗って、主人と子供たちを広州白雲空港まで見送りしました。6時過ぎの空には大きな火焼雲が現れました。午前7時、私は東莞に出発しました。東莞は広州と深センの間に位置し、改革開放以来、東莞は“三来一補”モデル(来料加工、来品組立、来料加工と補償貿易)を実行し、完全な産業チェーンと密集した産業クラスターを構築しました。工業団地には多くの会社が集まっていて、老朽化しているように見えました。訪問先の2社とも大規模な生産ラインがなくて、清潔な作業環境もないですが、製品が安くて中国国内外に広く拡販しています。自分の製品を話すと、社長は自信満々です。私は北方人です。心から南方の商人の知恵と度胸に感心します。

 今夜泊まったホテルは“中国電子第一街”の名を乗る“深セン華強北”の近くにあります。メリットは会社周辺のホテルにより安くて、皇崗口岸から近いです。

 12日の朝、私が深センから地下鉄で香港展覧会へ行きました。皇崗口岸は24時間開放される深センの客貨総合港で、深セン市と香港特別行政区を結ぶ港です。日本で勤務した期間、二三回香港に行ったことがありましたが、口岸から地下鉄で行くのは初めてでした。皇崗口岸の通関の全過程は非常に便利で迅速でした。昆山で香港・マカオの通行証と“签注”の申請も1週間しかかからなかったです。通関後、中国内陸の携帯電話とインターネットが接続できなくなりました。幸いなことに、携帯電話の国際ローミング機能を開通しました。少し準備不足でしたね。

 皇崗口岸地下鉄駅から目的地のMTR会展駅まで約40分間かかりました。駅から出ると、壮麗なビクトリア港と、明るい日差しの下で広い道路、色とりどりの車両、立派な高層ビルが目に飛び込んできました。こちらの新館は香港湾仔に位置し、世界最大の展覧館の一つでもあります。無料シャトルバスを乗って、AWEアジア国際博覧館(旧館)で開く同名の展示会に参加できます。入場料は420香港ドルですが、招待状があるので無料で入場できました。

 展示会では、美容や化粧品関連の原材料、機械設備、包装、契約製造、自社ブランドなどをカバーし、広東省と浙江省の出展者は特に多く以外、日韓、欧米の企業も多く出展していました。新国産品勢力は革新的な活力を示す一方、国際ブランドの影響力も根強いです。巨大な中国市場では、アンチエイジング、軽医美、環境に優しいスマートの製品の競争が激化になるそうだと思います。

 午後4時半ごろ、私が展示会場を離れて無料シャトルバスに乗って尖沙咀に行きました。10年以上ぶりなので、私にとって全く覚えがありませんでした。立派なデパートに高級かつ高価な国際ブランドばっかりです。私の消費水準はこのレベルから遥かに遠し、為替レートのメリットもないし、私が買物しませんでした。デパートの一角の屏風を開けて、夕方のビクトリア港の美しい景色を暫く楽しんてから、西九龍駅から深セン福田駅行きの高鉄を乗りました。

 西九龍駅での通関も簡単でスムーズでした。僅か14分で私は香港から深センに戻りました。携帯電話の信号が回復し、自由自在の時間もあるので、昼食の分を含めてしっかり食べたいですね。

 私は烧腊が大好きです。抖音アプリで子が父の業を受け継ぐ老舗を検索しました。お店は“深セン華強北”のエリアにあります。店内は狭いですが、ほぼ満員でした。このような店こそおいしいはずだと思います。私は3人組とテーブルを組みました。ガチョウ焼き、チャーシュー、油鶏の3種類の組み合わせを注文しました。甘口のダレに付けてから食べるのが特に美味しいと思います。昆山にもいつかこんなおいしい烧腊店が開くといいですね。59元は少し高いですが、満腹になれて大満足しました。

 焼腊店へ行く途中、河北省石家荘市で出張中の主人から電話をかけてきました。彼の奶奶(おばあさん)が亡くなりました。

 13日の朝7時、私は深センから広州への高鉄を乗りました。広州で顧客訪問と試作を行い、夜、昆山に戻りました。14日の夜、私たちは昆山から安徽黄山へ出発しました。深夜12時頃に村に着きました。

 主人の奶奶の葬式は11月16日でした。奶奶は90歳の高齢でした。17年前、主人の爷爷( おじいさん)が亡くなってから、奶奶は5人の息子の家で交代に住み始めました。主人の話により、奶奶の5人の息子とお嫁は親孝行でした。奶奶は伝統的な農村の女性でした。個人意識が薄くて、若った頃から夫や息子、お嫁さんのいう事を聞く人らしいです。今年夏頃まで、奶奶はまだ丈夫でした。17年間息子の家で暮らしましたが、生活の自立ができて、滅多に子孫に迷惑をかけないいません。村では土葬の伝統があります。奶奶が亡くなった時、すべての子孫や親族がひざまずいて葬式を参加しました。

 村の風習によれば、葬儀に参列した当日に村を出なければ、3日間は村にいなければならないです。主人のお兄さんは深センで暮らしいています。勤務先の社長は黄山市太平県出身で、深センで創業し、会社が立派に発展した後、実家の太平県に分公司を設立しました。兄は分公司に会議に行くので、午後、私たちと一緒に出発しました。主人の舅舅(おじさん)と兄の同級生も分公司に勤めています。夜、みんなでおいしい徽菜を食べました。食事が終わって、私と子供達がホテルに戻り、兄と主人が知り合いと夜食を食べに行きました。

 太平県に滞在した時間は楽しかったです。17日の朝、バイキングを食べて昆山に戻る予定でしたが、主人が少し休憩したくて、二人はホテルに戻って昼食まで寝ました。最近、二人とも長距離移動で疲れています。夜7時頃、私たちは昆山に戻りました。

 18日、新しく買ったマンションの不動産証明書が手に入りました。面積は37平方メートルで、総額は122万元でした。学区は昆山で最も良い公立中学校であり、“学区房”と呼ばれています。マンション探しいから決まりまで、主人は私に任せました。学区房は比較的に保値だ(値を保つ)と思い、面積が小さいので総額が低い、ローンが少ないです。ここ数年、昆山の住宅価格は大幅に下落しました。国は不動産を救うために多くの政策を打ち出しました。今後、昆山の不動産市場がどうなるかは分かりませんが、息子たちが順調に中学校に入って、高校生になって、大学に行けたら何よりだと思います。

 中国では“有圧力才有動力”( プレッシャーがあってこそ動力がある)という言葉があります。長男に“軒”(車+干)と名付けました。主人と冗談めかして“子供に車を買ってあげて、あとは彼の努力次第だ”と言いました。美しい願いですが、親である私たちには、仕事に励み、子供に成長と発展に必要な物質などできるだけ多く用意して、子供には、私たちより高いスタートを大切にし、しっかりと努力を続けてほしいです。自分の美しい生活は自分の手で作らなければならないですね。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2024.11.15
岡山で開催された「都市交通決起集会」に参加しました.

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 岡山大学で開催中の土木計画学研究発表会・秋大会に合わせて,東大伊藤准教授,トラフィックブレイン太田氏が先導するBeyond5Gサブ研究グループが主催した「都市交通決起集会」に参加してきました.

 「日本では、人口100万人以上の大都市圏であっても車依存が著しい。・・・中略・・・2000年代には存在感のあったパーソントリップ調査を起点とした都市・地域交通戦略も形骸化の兆しがある。そのような状況を打破するために、渋滞が社会問題化している熊本都市圏では「車1割削減、渋滞半減、公共交通2倍」という大胆な目標を掲げた産官学の取組が始まりつつある。また岡山、広島都市圏では、事業者間協調を軸に公費投入も交えた事業環境改善の取組も始まっている。本勉強会では、岡山大学にて開催される土木計画学研究発表会に集まる都市交通有識者らと共に、各都市の事例を参照しながら、都市公共交通政策の再興について討議する。」というのが,このおどろおどろしい名前の集会の開催趣旨である.
 現役を引退し,第一線の学会には参加するつもりはない私が,17:45~20:45の3時間だけのためにこの決起集会に参加したのは,第1部で「熊本都市圏「車1割削減、渋滞半減、公共交通2倍」をめざして」という話題提供を行う太田恒平(株)トラフィックブレイン 代表取締役が暴走した場合にそれを止め,正しい道に戻すためです.

 第1部の

熊本都市圏「車1割削減、渋滞半減、公共交通2倍」をめざして
(株)トラフィックブレイン 代表取締役 太田恒平 氏
日本の都市交通政策における地域公共交通計画の現状と課題
(一財)計量計画研究所 研究員 何 玏 氏
岡山・広島の公共交通の将来像
岡山市 交通政策課 副主査 平田晋一 氏
広島電鉄(株) 交通政策課長 進矢光明 氏
呉工業高等専門学校 教授 神田佑亮 氏

の3つの講演の後,流通経済大学 教授 板谷和也,関西大学 教授 宇都宮浄人,両備ホールディングス 常務執行役員 大上真司,RACDA 会長 岡将男,富山大学 特別研究教授 金山洋一,ウィーン工科大学 上席研究員 柴山多佳児,富山大学 特別研究教授 中川大,丸尾計画事務所 専務取締役・クロスセクター効果研究会 幹事長 西村和記,中央大学 教授 原田昇,広島大学 教授 藤原章正,計量計画研究所 業務執行理事 牧村和彦,立教大学 教授 松戸浩,熊本学園大学 教授 溝上章志,運輸総合研究所 所長 屋井鉄雄,福島大学 教授 吉田樹が第1部の講演に対して2分間の意見,および予め太田氏から課された質疑に対して3分間の応答を行うという,恐怖のリレー討議マラソンが行われた.

 3都市の関係者と言うことで,主催者側の研究フィールドの熊本代表でもある溝上教授が第一走者でしたが,あまりにも短い時間なので,時間内に用意した内容をうまく説明することができませんでしたが,主要な主張はできたのではないかと思います.質疑に対する応答の内容は下記でした.

 その後,目利きの銀次 岡山西口駅前店を貸し切っての懇親会で議論を深めました.熊本でもいつもその行動や発言にハラハラさせられるBeyond5Gグループですが,熊本都市圏の都市交通政策の在り方を真剣に考え,具体的に行動していることは確かです.今後も彼らが暴走した場合にそれを止め,正しい道に戻すよう,協力していきたいと思っています.

2024.11.02
とびしま街道ライドに行ってきました.

 当初は9月下旬に開催された霞イチ(霞ヶ浦1周)ライドに参加する予定でしたが,熊大在任中の研究室の卒業生同士の結婚式に招かれたために,参加できませんでした.私と同様に別件で霞イチライドに参加できなかった藤原広大教授に相談したところ,以前,藤原教授が非常に良い景色や経験をしたという「とびしま海道ライド」が11月2,3日の1泊2日の日程で実現しました.

 とびしま海道は昨年4月に走破したしまなみ海道の南側の島々を巡る,往復で50km程度のコースです.前日までは秋晴れが続いていたのですが,2日前くらいに台湾を経由して西方の中国に向かっていた台風が温帯低気圧に変わって,突如,東向きに進路を取ると同時に,日本の南にあった前線を刺激し,前日の11月1日から西日本は大雨になりました.1日の午後は広大で広大セミナーが開催され,新進気鋭の手研究者による英語による研究成果の発表が行われ,東広島駅近くのホテルに一緒に泊まっていた甲斐(Kay Axhausen)東大客員教授と共に,久しぶりにアカデミックな空気に浸ることができました.その後は,力石広大教授,発表者と一緒に日本伝統家屋風の居酒屋でミニ懐石料理と広島特産の新酒に舌鼓.しかし,雨は強まるばかり.

 スタート予定の2日は朝から大雨で,新幹線は大阪-博多間が不通になり,東広島駅13:00に集合予定の山本名大教授と嶋本宮崎大准教授が揃ったのは既に16:00.15:00には雨もすっかり上がって真っ青な空になったのですが,1日目は輸送用の車で宿泊予定の民泊施設まで自転車を運ぶだけになりました.着いたのは既に17:00過ぎで,辺りはかなり暗くなっていました.しかし,民泊施設の民泊cafe「とみつね」は古民家をリフォームしたおしゃれでしっぽりした雰囲気で良かった.実は,潮待ちの天然の良港とされていた大崎下島の御手洗は,江戸時代は北前船の寄港地,参勤交代の船宿などがあった地区で,今でも大小の商家や茶屋,船宿,住宅,神社,寺院などが多数,それも面的に残っているだけでなく,集落内を小路が網の目のように巡っている.また,大波止や石橋,高燈籠,石垣護岸,雁木等,港町の生活上必要な土木的建造物が当時のまま現存しているとても素晴らしい集落なのです.平成6年には重要伝統的建造物群保存地区として国から選定されました.夕食には「何でこんな所にこんな素敵なイタリアンレストランが!?給仕の女性は何故か英語ペラペラ!?」 のイタリアンを堪能しました.


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 翌日は朝から快晴に恵まれ,9:00にスタート.宿泊地から大崎下島の海岸線を右回りに周回し,豊浜大橋からは青のルートに沿って梶ヶ浜の25kmをライドしました.途中,2つの橋の手前の橋詰めにはかなり急で長い坂があり,危うく押しチャリになりそうでしたが,どうにか頑張って走破できました.平坦な道であれば何事もなく行けるのですが,ややきつめの上り坂となると,若い方達のようにスイスイとは上っていけない我が脚力を今回も情けなく思うライドでした.甲斐先生の借りたe-バイクが羨ましくも思えました.

 坂が少なく,天気が良くて風がない時のロードはなんと気持ちが良いのでしょう.早速,帰りの新幹線の中で,瀬戸内産ではないですがシチリア産レモンのサワーを飲みながら,嶋本先生と次の春先の宮崎ライドの計画をしました.