![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本来なら2025年2月10日からは運行を開始する予定であった熊本城外を回遊する熊本市の自動運転バスでしたが,準備のための試験走行中に後続車両に接触される事案が発生して車両の修理が必要となり,漸く3月21日(金)から運行を開始しました.利用料金は無料,運行本数は6便/日,運行時間は午前10時~午後4時,乗車定員は15人で,予め予約が必要となります.
熊本城外を周遊するので当然,土,日も走っていると思い,21日(金)に熊本市LINEから申込をしようとしたところ,運行日は3月の21日(金),24日(月),25日(火),28日(金),31日(月)の平日のわずか5日間でした.そこで,24日(月)の朝1番の10:09桜の馬場城彩園発を予約しました.当日は寒の戻りと小雨で生憎の天気でした.桜の馬場城彩園に着くと,もと西税務署跡地に自動運転車両が待機しているのは見えるものの,どこが停留所なのか分からず,駐車場整理員に訪ねたところ,「停留所の看板が小さくて分からないですよね」と言って教えてくれました.
車両はティアフォー製の自動運転システムを装備したBYD製のMinibus2.0です.定員は自動運転時は着座のみの15名で,最高速度は自動時は 35km/h未満、手動時は70km/hです.今回の実証運行の事業者はBOLDLY株式会社であり,先日,岐阜のGIFU HEART BUSの案内でお世話になったBOLDRYの郷さんに社内で詳細な説明をして頂きました.
乗った感想です. | |
・ | 基本的には事前に3D地図上に走行経路や停止線を設定するのはGIFU HEART BUS のNAVYEシステムと同じ |
・ | しかし,LiDARだけでなくカメラを搭載しており,時々刻々の周辺の人や車などの障害物の移動ベクトルを検知しながら,自動,手動を自動的に切り替え |
・ | 障害を検視したときのブレーキの作動/解除はon/offのため,急でキツい |
・ | 車両が大きい分,複雑で狭い交差点や対向車両の車線はみ出しでは自動運転が解除されやすい |
・ | しかし,車線幅員が広い単路部は快適に自動走行 |
・ | GIFU HEART BUSに比べると,ティアフォーの自動運転システムははるかに高度で,快適性も高い |
TaKuRooが派遣している運転手さんに聞いたところ,自動/手動の切り替えによる運転の難しさはあるが,完全手動に比べて運転負荷はかなり軽減されるであろうとのことでした.
この自動運転バスの仕様や性能は良く分かりましたが,熊本市がどのような目的でこの場所でこのシステムを使った自動運転バスの実証実験を行ったのか,そこからどんなデータや知見を得たのか,また今後どうするのかは全く不明です.
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
先週末から急に暖かくなって全国で最初に開花が宣言された熊本の桜がつぼみを大きく膨らませている今日は,本学の学位授与式です.キャンパス内は羽織袴の女子学生と真新しいスーツを着飾った卒業予定者達で華やいでいます.今年は卒業生を送り出す2回目の卒業式ですが,昨年もそうであったように,私の研究室では何のイベントもなく,私にとっては寂しい学位授与式です.
食堂で一人で昼食をとっていると,知った顔の2人の女子学生が脇を通り過ぎていきました.彼女らは4年になって卒論が本格化した時期に卒論から離脱していった2人でした.何となく気まずい雰囲気.早々に食堂を離れ,部屋に戻ろうとエレベータを待っていたところ,卒研生2人(高井君と矢田君)と途中で離脱した2人(今村君,坂井君)のスーツ姿の男子学生が「先生!挨拶に来ました!」と駆け寄ってきました.部屋に招き,離脱学生2人の離脱後1年間の生活や4月以降の進路,最後まで食らいついてどうにかこうにか卒研を提出した2人の卒研遂行時の苦しみや提出後の感想などを聞きました.それから集合写真と1人ずつの写真を撮影しました.昨年の学位授与式の寂寥感とは違って,ちょっとだけどうれしい気持ちになりました.
今年は,私から卒研生に提案して会費制で「溝上研予餞会+謝恩会」を行うことにしていました.店に電話が繋がらないなどのトラブルもあって会場がなかなか決まらなかったのですが,最終的には今年の卒業生が3年の時に当時の4年生と合同で研究室懇親会を行った「竹ん子ら」で開催しました.在学生からは3年生の北原君,2年生の嶋村君が参加してくれました.そこには昼には挨拶に来れなかった卒研生の竹下君も参加し,卒研遂行時の苦しい日々や卒業式を迎えた今の達成感をしみじみと語ってくれました.また在学生は来年度からの卒研や演習Ⅲに対する意気込みや期待を表明してくれました.
卒研生を出すのはわずか2回目ですが,ちょっと嬉しい思い出に残りそうな学位授与式になりました.
おまけですが,矢田君が都市計画学会九州支部長賞を受賞し,卒科式で表彰されました.本人は学会というものが何で,この賞がどれほどの価値があるのか,全く分からずにいたようですが.
2025.03.16
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
弟は決定を堅持し、最終的には望みを叶えました。両親は土地、資金、人力などの面から弟を支えて、村から約1.5キロを離れた3ムーの自家耕地に5室の広い瓦ぶきの家と立派な貂の養殖場を建てました。母が実家の庭に建てた簡易の貂工房で十数年の貂の飼育経験があるので、最初の数年間、経験が欠ける弟の養殖事業を軌道に乗せるため、両親は弟と一緒に養殖場に住みました。その後、弟は結婚をし、3人の子供が生まれました。両親は弟の負担が重いことを知っています。近くに暮らしているし、手伝いに行かないと心に忍びないので、二人がほぼ毎日家から電動バイクに乗って養殖場へ行って、弟を全力でサポートしにきました。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
“貂皮大衣”(貂の毛皮の服装)といえば、当時はお金持ちこそ消費できるような存在でした。山東省は全国で毛皮動物養殖の第一位の省ですが、村で貂の養殖場は僅か3軒で、いずれも個人の小規模な“庭院作坊”(庭工房養殖)でした。弟は村で“養殖大戸”(大規模の養殖者)と言えて、ピーク時には年間5000匹以上の貂を飼育しており、“狐狸”(キツネ)と“貉子”(タヌキ)も飼っていました。
貂は甘やかすな動物です。皮質の厳しい基準に上回るため、養殖技術と繊細な心掛けが必要です。栄養バランスをとれるため、飼料の80%は新鮮な魚、肉、鶏レバー、卵、ミルクであり、野菜とトウモロコシのお粥及び各種ビタミン、魚肝油と飼料添加物を配合しなければならないです。
水貂は色によって一般的にカフェ貂、白貂、黒貂に分けられます。弟は貂の品種選びを非常に重視していました。遠い都市に行って毛皮質が高い高価な雄貂を探して、また、黒貂より珍しく高価な白貂とカフェ貂も導入しました。弟の養殖場は規模が大きいくなりましたが、母が小規模経営をしていた頃の伝統的な生産モデルを採用していました。変わったのは、母が1999年から2013年まで養殖していた時期が中国国産毛皮の黄金期で、黒貂の価格は一匹あたり4、5百元前後に達しましたが、2014年から2024年までは毛皮業界の10年の低迷期と呼ばれ、国産毛皮の価格は年々下落し、カフェ貂と白貂もよい単価に売れなくて、黒貂は一匹100元ほどになりました。食料価格が続々と上昇し、コロナの影響に加えて大量の養殖場が倒産或いは赤字になりました。両親は養殖を始めてから支出を減らすことに注意し、高価な完成品飼料を買わずに、年中無休で、近くの鶏養殖場と豚養殖場から死んだ鶏、豚、毛卵などを購入し下処理をして、蒸す作業を行います。貂の食材である野菜やトウモロコシなどは両親が栽培したものでコストに集計しないです。肉を煮るやトウモロコシのお粥を煮るときに使われた燃料は父が苦労して伐採した木や枝です。また、人を雇わないです。過負荷になっても、3人で頑張ってやり遂けます。
資金面の原因で作業室の条件は粗末でした。食材を粉砕する過程は人力に頼り、弟が百キロほどの冷凍魚や煮肉などを2メートルの高さの粉砕機に持ち上げ、少しずつ原料を投入し、骨までペースト状に粉砕します。凍った材料は冷たい、生臭い、かなりの重労働です。続いて2、3時間かけて貂1匹ずつに餌をやります。時期によっては1日に2回~3回投料します。貂の交配期の仕事はもっと大変です。2月にはまだ雪が降っているが、弟と両親は養殖場で3、4時間立って、貂の初配、複配、補配作業を行います。貂は優れた敏捷性と爆発力を持っています。手を噛ませずに素早く捕まえることは養殖者の体力と反応力の試練です。その後の分巣、ホルモン注射、換毛、群発性疾患の対応、皮むきの時期も、数千匹の貂を繰り返し捕捉する必要があり、弟は素晴らしい貂を捕まえる技術を身につけました。若くて学習力があり、数年足らずに養殖の達人になりました。みんな弟のことを“高老板”(高社長)と呼んでいます。弟は“老板夢”を実現したと思います。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
理想と現実の差は明らかです。養殖業者は商流の最下端にあり、定価権はありません。飼育した毛皮の品質が良くても、特殊価格が得られません。年間の最初の収入は8月頃にホルモン注射された貂の出荷であり、次は年末の大規模な出荷を待つしかありません。家には父だけが安定した収入があります。父は弟にしばしば助けを与えます。資金繰りが苦しいときは、食料を前借りることがありますが、いくら食料を供給する業者と信頼関係があっても、みんな小商売なので、誰も重い資金圧力を抱えたくないです。数年利益が出ない状況でも、弟は将来の相場に希望を持っていました。銀行からローンを借り始め、歯を食いしばって頑張りました。養殖にこだわった初心を守るためと、10年以上も両親と苦労して経営してきた養殖場への未練がある原因かなと思います。
お金を稼えば苦労しても耐えますが、、何年努力しても報われないのは絶望的で辛いことです。養殖場は弟のすべての収入源であり、金銭面の危機感はみんなに深く不安をさせます。家族メンバーの距離がなくて摩擦が生じやすいです。意見が異なる時は不平や不満が悪化しやすく、喧嘩が頻繁になっていました。養殖は退屈な作業です。養殖場は村から離れていて隣人いません。ストレスを解消するために弟はよく麻雀店に行きます。父は弟が麻雀をするのが大嫌いです。母は二人の間に挟まれ、双方の気持ちを調停し、辛い立場にあります。私は年中無休で苦労している両親を見て弟に腹を立てます。弟を責めるとき、また彼が大変だと思って、いつも手放さない両親がしつこいと思います。また、私は両親と弟のことを大事だと言いますが、養殖場には貢献していません。最も親しい家族ですが、どうやら落ち着いてコミュニケーションを取るのが難しいようで、誰もが矛盾の中で生きています。
2023年、弟は貂の養殖場を閉鎖しました。
弟がどれだけ辛い葛藤をしたのかわからないですが、家に養殖場があることは私にとって誇りのことでした。しかし、私はずっと外で働いていて、家庭事業の発展を助けることはしませんでした。家に帰った時、両親と弟は養殖の仕事が汚い理由で手伝ってさせませんでした。私が住宅ローンを背負してから、経済的に弟を支えることもできなくなりました。貂の養殖場を閉鎖してから、弟一家が昆山に来ました。彼はついに村から身を引くことができて、きれいな服を着ることができました。
11年頑張り続けてきた養殖場を空にしたくないかもしれませんが、同年、弟は肉食犬の養殖を始めました。弟の考察により、犬の養殖のコストが低いです。成年犬は50キロまで育つことができて、キロ単価が10元でも1000元が売れます。犬の養殖と貂の養殖とはほぼ同じ手順です。犬は繊細な飼養がいりませんが、食事量は大きいです。両親がまた鶏、豚、トウモロコシ粥を煮る仕事を始めました。
人は貂がかわいい、犬がかわいそう、動物を殺して皮や肉を売るのは残酷だと思っていることを存じます。私は弟に殺生の仕事をしてほしくないですが、養殖は職業の一種であり、生計を立てる手段です。政府は養殖業者への補助金制度がありますが、敷居が高くて私達の手には届けません。弟は農村戸籍で五険一金の保障がなく、両親は弟一家の将来に焦ります。両親と通話するたびに、一番多い内容は弟のことです。彼は明るく気前がよく、苦労にも耐えているので、ただチャンスが必要だと思います。
義妹(弟の嫁)は正直者です。ひたすら子供の世話をして、弟の言うことを聞く方です。両親も私も意見を言うのが好きで、私たちは彼が村を出て発展の機会を探すことを望んでいます。去年から、私と主人は弟が昆山や深センに就労することを動員しました。お正月に主人の兄さんと交流したとき、彼の会社の従業員が1万近くの月給をもらえると聞き、弟に話しました。弟は心を動かしました。彼は率直に主人と兄に、ただ体力と時間を使って2年間お金を稼ぎたい、ローンを返済し、家族を養いたいと伝えました。
2月22日の朝、主人と弟が兄の会社に到着しました。兄は職場と仕事の内容、待遇などを紹介しました。午後、主人は弟を連れて、住宅を借りて、布団と日用品などを買いました。夜、兄は社長と同僚を呼んで弟と一緒に食事をしました。
2月23日、弟は仕事を始めました。生産ラインには化学品のにおいがあり、1日に10時間を立つ仕事らしいです。2月24日の昼頃、弟が電話をかけてきました。やめたいと言ってくれました。弟の時給は18元です。1日10時間を働いで全月無休としても、せいぜい5040元しか稼ぐことができません。さらに、職場の2人の同僚から“来月から注文が少なくなり残業がなくなるかもしれない”の話を聞いて、彼ががっかりしました。家に帰ることに決意しました。
私は工場に閑散期と繁忙期があることを知っていますが、弟を村から踏み出せるために、主人も私もわざと年末の高収入を伝えました。弟の立場から見ると、嫁と幼い子供たちを離れ、養殖場の犬を両親に任せて、家から2000キロ以上離れた見知らぬ都市で、1ヶ月に5000元を稼いで、1ヶ月に400元の賃貸料また食費を除いて、3、4千元しか残られない生活するのは魅力がないことを存じます。確かに、この程度の収入は実家でも稼ぐことができます。
弟は帰郷すると決めたことは私にだけ話しました。しかし、私の本能は弟を説得して続けさせることでした。5000元の月給のためではなく、経験を積んでより高い収入や将来の機会を得るために忍耐が必要だと思います。私は彼を気を落ち着かせて、ただ一日知り合った人々の真偽不明の話によって自分の判断を左右されないように言いました。弟は現実的です。彼は自分が速いお金が必要だと知っていて、実際の収入と聞いた収入が大きく異なることをすぐ認識しました。
私は弟の考えに問題がないことを知っていますが、弟が自分の考え通りに12年間続けてきたので、環境を変えてみてもいいと思います。私にとって、心配したのは弟が家に帰ってまだ養殖をするなら両親は休みの日がなくなります。私は寝返りをし眠れなかったです。漏らしてしまう理由がないようにひたすらに長文の分析をしました。弟も眠れなかったようです。私のメッセージを見てから“私を罪悪感を抱かせて家に帰るの方がよいか!?”、“私の人生はあなたたちの道に沿って行かせなければならないのか!”と返信くれました。弟は私に、“たくさんのお金を稼ぐのは何のためか”?“ あなたと姐夫(主人のこと)はどんな生活をしていますか””?と尋ねたことがありました。よく考えてみると、私の生活も自分が思っているほど良いではないです。私と主人は仕事のために、家庭と感情の代償を払いました。ここ数年、弟はお金を稼げなかった以外、生活の質は私よりずっと良いです。
弟は情義に厚い、子供、嫁、両親と養殖場は弟の肋軟骨です。母はいつも人にはそれぞれの運命があると言います。私も同感です。でも、つい独りよがりになってしまい、誰もが持つ使命や追求する幸福は異なるこを忘れました。家族でも境界感を持たなければならないですね。山東人は特に熱心で、かえって好意を持って悪いことをしてしまいます。私は弟に閑散期の給与水準を隠すことを起因で、彼の生活リズムを乱しり、自責する気持ちを引き起こしました。
2月24日、弟は義妹に連絡し、兄と夫に感謝の連絡をしました。部屋を退去手続きを済んで、帰宅の火車に乗りました。2月25日の午後7時、弟は牟平駅に到着しました。両親は餃子を用意し、義妹と友人たちが駅に迎えに行きました。弟が帰宅すると、家の中は再び賑やかになりました。
主人と私は相変わらず仕事に忙しく、3月2日~3月8日に私がベトナム出張に行きました。
コロナ前、ベトナム団体旅行が大人気でした。中国の隣国で、航空券の価格は比較的安くて、ビザも簡単に取得できます。私の友人の数人はベトナムに行ったことがありまして、ホーチミン、ハノイ、ダナンなど観光地は異域の風情とリゾートスタイルに満ちていると聞きましたが、私はなかなか行く時間がありませんでした。
会社はベトナムのホーチミン市に事務所を開設しました。総経理のおかげで海外出張のチャンスを得ました。スケジュールとしては、私は総経理とベトナムの同僚と一緒に8社の顧客を訪問し、二つの展示会の見学を行いました。初め行った国ですが、同僚たちと一緒なので安全面の心配がもなく、仕事内容も重くなくて、今回の出張体験はとても良かったです。
飛行機を降りて新一空港に着くと、大勢な外国人が見えて、通関待ちの列がとても長かったです。中国国内で快速通関サービスを購入しても、30分を待ちました。総経理と合流後、ホテルのチェックインを済んで、総経理が私をホーチミンの中心部に連れて行ってくれて、ホーチミン広場、ピンクの教会、中央郵便局などを観覧しました。夜はベトナム事務所長と食事をし、ホーチミンの夜景を満喫しました。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
ベトナムといえば、私が子供の頃、村にはベトナムから妻を買った事例がありました。その時から、ベトナムは貧しい国というイメージがあり、ベトナムの女性は黒くて背が低いと思いました。でも、ホーチミン市で滞在した一週間、私のこれまでのベトナムに対する誤解が打ち破り、視野を広げて、たくさんの驚きと発見を得ることができました。
ホーチミン市の繁華街に国際的な雰囲気が漂っています。至るところに外国人を見かけます。さまざまな肌の色や異なる言語がここで交わっています。道路には車やバイクが絶えず、街を歩くとビルが立ち並び、街道沿いにはおしゃれなカフェがたくさんあります。ベトナムには美しい女性が多くて、肌が白くで、暑い気候の原因か思想が開放なのか知りませんが、“露背装”(バックレスドレス)を着る女性が多いです。監視カメラはあまりありませんが、治安はいい感じです。夜の生活は豊富です。バーもナイトクラブも屋台も華やかで、独特の文化や風土が伝わってきます。また、ベトナムは若い人が多く、女性は苦労に耐える
品質があると聞きました。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
歴史や政治などの原因で、ベトナム人と中国人の関係は複雑です。南部と北部では中国人に対する印象にも違いがあると聞きました。二名のべトナム人の同僚はとても親切です。私たちは日本語で交流します。二人とも勉強意欲がある方で、中国語や手話の勉強をしています。ベトナムは英語の普及率が高くてとてもうらやましいです。訪問先の顧客にはベトナム人、華僑、中国人もいます。一週間の顧客訪問のおかげで、現代的な日系企業工場から伝統的なベトナム工房まで見学できました。車で1、2時間の間にも、老朽化した住宅や粗末なテント市場が見えて、ここでは伝統と現代、落後と発展が融合している感じします。顧客と交流したとき、中国国内の加工方法や設備がやっはり先進だと感じます。ベトナムは中国ほど残酷な競争がまだないです。大量な中国企業と外資がベトナムで工場を建設していますが、ベトナムのサプライチェーンはまだ不足しているらしいです。でも、こんなに人口が多くて、こんなに活気があって、将来はきっともっと発展するでしょう。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
仕事の合間にホーチミンの食文化も体験できました。ベトナムのローカル名物の春巻きやフォーなどは独特の香辛料の組み合わせがあり、爽やかでおいしいです。中国で食べたことがない高級海鮮も食べられて、新鮮で大変美味しかったです。驚いたことに、和食や洋食も本格的に作られておいて、さまざまな顧客のニーズを満たしています。昼食後、街角のカフェで香り高いコーヒーやフレッシュジュースを味わい、夕食後はバーで軽く一杯を楽しみ、英語と日本語が流暢なママとおしゃべりをしながら、この都市のゆったりとしたリズムを感じながら楽しい時間を過ごします。もちろんお金をもっていることが前提です。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
お金の話をすると、ホーチミンの消費が高いと感じました。一番頭を悩ませるのはベトナム盾です。“0”の数が多すぎて、人民元に換算するのは難しいです。また、電子マネーは普及率が低く、私が現金を持ち歩く習慣がないのでとても不便だと思います。ホーチミン市の住宅価格は高いと聞きました。多くの中国人投資者が住宅購入に来ている原因もあるらしいです。私たちが泊まったホテルは1泊が約370元です。朝食がおいしく、フロントは24時間受付をし、スタッフが流暢な英語を話すことができて、無料の送迎サービスもあります。私のフライトは深夜2時でした。同僚から新一空港がいつも混むなので10時に空港に向かう方が良いとアドレスしてくれました。私は預け荷物がなかった搭乗もスムーズでした。杭州空港に到着したのは翌朝の7時でした。
旧暦2月10日(3月9日)は母の66歳の誕生日です。実家では、66歳の母親のために娘が“一刀肉”を切るという古い伝統があります。母のお誕生日を祝うため、私は杭州空港から青島空港に直行し、また、青島から牟平への高速鉄道に乗り換えて、午後4時過ぎ牟平駅に着きました。弟は家にいると安心です。弟一家が私を迎えに来てくれました。母の誕生日用のお肉も予約くれました。誕生日当日、母は私の“一刀肉”、弟のケーキ、義妹と子供たちの鮮花をもらいました。母はとても喜んでいました。私たちは母の健康と長寿を祝福します。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
3月10日私は威海を出張して、11日に青島出張へ行きました。夜、2007年に就職した会社の社長は多くの同僚を集めてみんなで楽しい食事をしました。翌日、私は昆山に戻りました。社長は弟が会社に来たいかどうかを丁重に尋ねて頂きました。年齢制限はないと教えてくれました。社長の話を聞いて私がうれしいです。ただ、弟にはまだ話したくないです。彼に先に自分の歩きたい道を歩かせて、彼が本当に私が必要とする時に有意義な協力を与えたいと思っています。