2001年度の講義ノート

ここで講義内容を簡単に記録していきたいと思います。「簡単」な記録ですので、もちろん出席する代わりにはなりませんが、欠席しなければならない場合は、ここを見れば授業の流れなどが大体わかると思います。「ノート」なので、論文調で書きます。


4月17日、第1回
 最初に、OHPの調子が悪かったので、通常授業が半分経過したところで見せるビデオを流した。昔のニュース・ステーションの特集で、日本の証明写真で笑ってはいけないのは「何でやねん?」、という内容であった。この講議で扱う「文化」の概念を紹介するために選んだのである。その後に、「今日の予定」を説明した。「「論」」では比較文化論というテーマは「論者の目的、専門分野、経験等によって内容が大きく異なる」ことを説明した。その関連で、本講議で私自身が展開する文化論を理解したいただくために「私の目標」を説明してから「自己紹介」を行った。次に「比較文化論」の「文化」に移り、本講議で使う「文化の定義」を説明した。最後に、自己紹介にあった「『違い』は一般に思われているほど決定的ではない」という点との関連で『We're Different, We're the Same』という絵本を紹介した。他人と自分との違いと共通点を当時に認識させる、大切なメッセージを持った本だと思う。今後、できるだけ毎回、このように5分か10分の「英語の時間」を設けたいと考えている。英語が苦手な人がテストなどで不利にならないようにできるだけ日本語で解説し、英語でしか言っていないことをテストに出さないことにする。
4月24日、第2回
 前回の「文化の定義」の中で思い込みの危険性を指摘した。この続きとして「思い込むこと」について講議した。思い込みを避けるためには「考え込む」ことが重要であることと、コミュニケーションを取りながら考えることが重要であると主張した。コミュニケーションの大切さを印象づけるために2名の受講者に協力していただき、ドミノを使ったゲームをした。その後、「思い込み」の例として、罪のない黒人が黒人であるとことで犯罪者扱いされるビデオを見せた。最後に「比較」というスライドや二人の受講生に書いてもらったアンケートを使って、この講議で終始比較中心に講議を進めていかない理由を説明した。この方針は講議の目標と深い関係があるも指摘した。
5月1日、第3回
 前回の続きとして「視点としての属性」や「日米の外国人観」を使って、本人と他者との間に「外国人」という属性の意識の仕方にギャップが生じた場合に人間関係があまりうまくいかないことについて講義した。「外国人」という属性を意識しすぎると人間関係があまりうまくいかない場合もある。授業の後半ではアメリカABCのNightlineという討論番組のビデオを見せた。ビデオでは黒人の警察官が受ける差別を扱ったものである。外見や固定観念で判断することがいかに不当なことかを印象づけるビデオである。ここでも、1つの属性(今回は「人種」)を意識しすぎる弊害について考えた。
5月8日
 休講(北海道出張)
5月15日、第4回
 第2回目と第3回目の講義で見たような人種による排除はアメリカだけの問題ではもちろんなく、日本でも起こり得る。今回は北海道の小樽にある「湯の花温泉」による外国人排除と同温泉を訴えている有道出人氏の活動に関するビデオを紹介し、その問題のいくつかの側面について考えた。
5月22日、第5回
 前回の続きとして、北海道の温泉問題に関するビデオ(前回と異なるもの)を見せ、3色のカード(yes, no, ? を示すもの)を使って、さまざまな角度からディスカッションを行った。私として特に強調したい点は、この問題に関して私たちの間に意見の違いがあっても、少なくとも容姿だけで日本国籍を持つ人の排除していくことには「思い込み」があったという点について合意できるはずだということだ。こうした「思い込み」を未然に防ぐためにはどうすべきかがこの授業の重要なテーマだと思う。
5月29日、第6回
 今日は「文化論の悪用」に関する講義を始めた。最初の項目の「戦争の手段 」との関連で、「Faces of the Enemy」というビデオを見せ、戦争と文化論の関係について解説した。ビデオと同じ主旨の本としてFaces of the Enemyがあり、『敵の顔』という題の日本語訳が図書館にあるので、関心のある方に見ていただきたい。また、ビデオで登場したJohn Dower教授のWar Without Mercyの日本語訳である『人種偏見』も図書館にある。ビデオに見られるような「敵」の描き方は今でも見られることがある。その例として、小林よしのりの『戦争論』(本学の図書館にはないが、『小林よしのり氏の「戦争論」批判』ならある)を取り上げた。OHPで小林氏がどのように「敵」を描き、どのようにその敵の人間性を否定しているかを指摘した上で、異質な外国人のイメージで日本人としてのアイデンティティーの強化を促す手法を指摘した。
6月5日、第7回
 「文化論の悪用」の中の2つ目の項目「人をまとめる・従わせる手段」を説明した。ビデオはAna Bortzさんの判決に関するものであった。Ana Bortzさんが起こした裁判についてというスライドを使って説明した。最後に3つ目の項目「排除の手段」を説明した。
6月12日、第8回
 前回の「文化論の悪用」の4つ目の項目「改革の手段」と5つ目の項目「正当化の手段」について講義した。「改革の手段」の例としてNHKのドキュメンタリーを取り上げた。ワイドショーによるプライバシー侵害などを指摘するこの番組の中ではアメリカの報道が節度あるものとして紹介される。紹介されることがらにはうそはないが、日本の報道の問題点を強調する目的でアメリカのメディアの一部しか取り上げていないので、アメリカの報道を美化する結果になっている。アメリカのメディアにも日本のワイドショーと同じ程度、あるいはそれ以上に節度のない、低俗な番組があることを示すために、アメリカのトークショー(talk show)を批判的に取り上げている討論番組(ABCのNightline)のビデオを見せた。なお、授業では紹介しなかったが、1998年に同じ問題について書いた新聞記事があり、ここをクリックすれば閲覧することができる。
6月19日、第9回
 「文化論の悪用」の中の最後の2項目(「議論を阻止する手段」及び「金儲けの手段」)について講義した。 ビデオは「金儲けの手段」と関連のあるもので、アメリカのLate Show (David Letterman司会)という番組の中でのMUJIBUR & SIRAJULのコーナーを見せて、問題点について説明した。
6月26日、第10回
 前回の「文化論の悪用」の「金儲けの手段」のもう一つの例として「ここがヘンだよ日本人」のビデオの一部を見せ、「『ここがヘンだよ日本人』の催眠術にかかるな!」及び 「『ここがヘンだよ日本人』について」のスライドを使って批評した。
7月3日、第11回
 「言葉と思考について」というスライドを使って講義した。今回は最初の2つの項目、つまり「言葉と物の分類」と「言葉の人間の行動」を説明した。後者に関しては、言葉は単なる「言い方」ではなくて、その背後にある概念が思考の単位と密接な関係にあるので、人間の行動に重要な影響を及ぼすことがあることを強調した。ビデオは戸田奈津子氏とのインタービューであった。
9月18日、第12回
 日米における「イジメ」について講議した。イジメは普遍的な現象だが文化によってはその受け止め方などに大きな差がある。今回の講議の中心的なテーマはその受け止め方の違いであった。OHPに映した主なスライドはここにある。日米間のイジメ関連の違いの一つはアメリカではイジメが重要な社会問題とはあまり考えられていない反面、人種差別やセクハラが重視される傾向がある。その例として、「セクハラ」の処分を受けた小学生に関するビデオを見せた。日本では逆にイジメが重要な社会問題であるという見方がしっかりと定着しているため、大人の社会にも「イジメ」が見出されることがある(この現象に関するビデオも見せた)。日本語でいう「イジメ」とアメリカ英語でいう「bullying」の重みやニュアンスに大きな違いがあって、それぞれの社会でのイジメ現象の受け止め方の違いはこの言葉の違いと密接な関係があると主張した。
9月25日、第13回
 「同時多発テロ事件について」感想を述べた。
10月2日、第14回
 「外人」と「外国人」という言葉の違いについて講義した。まず、マクドナルドのインドへの出店に関するテレビ朝日の「ニュースステーション」の特集のビデオを見せた。特集の後に久米宏キャスターの「外人は片言であってほしい」というコメントに対して抗議があったことを説明した。次に、それぞれの言葉やその背後にある概念の違いを示す図を使って説明した。「外人」は単に「外国人」の別の言い方や省略形ではなく、異なる概念であることは重要なポイントだ。概念が違うので、使うか使わないかは言われる側の気持ちだけではなく、言う側にとっても言葉の選択が重要だと思う。つまり、自分自身の思想に合う概念はどれかについて考え込んでみることは言う側にとってもプラスになると思う。この後、ニュースステーションの「外人」に関する特集を見せた。(これは「外人は片言であってほしい」というコメントに対する抗議を受けて、企画されたものである。)最後に、NHKで放送された武田鉄矢氏によるMichael Latta氏とのインタビューのビデオを見せた。インタビューのなかでLatta氏が「外人」という言葉に関する持論を展開した。その後の講義で、ビデオにあった「アイアム内人」という字幕の問題性を指摘した。
10月9日、第15回
 ゲスト講義
10月16日、第16回
 前回のゲスト講義で姜信子氏が名前とアイデンティティーについて講義したことを受けて、少し違った角度から名前について講義した。「名前について」と「名前の順序の言語的ルーツ」というスライドを使って、話を進めた。言いたかったことは二つある。1つは外国人の名前の表記などについては、まず本人の希望を聞いてできるだけそれを尊重した方がいいだろうということであった。もう1つは名前は言葉であって、言語体系と密接な関係にあるので、呼び方は相手が日本人か外国人であるかよりも、何語で話しているのかが重要だろうということであった。
10月23日、第17回
 日米のコミュニケーション方式の違いについて講義した。「日米のコミュニケーションにおける責任」というスライドを使って日本とアメリカのコミュニケーション上の常識の違いについて話した。その後、「建前」と「本音」について話した。両者の間のギャップが大きくなればなるほど、「聞き手」の責任が重くなると言えよう。日本のコミュニケーションの常識は国際的な場では通用しないことが多いので、明確に自分の考えを伝えて、あまり相手の「察し」に頼らない方が良いだろう。ただし、伝えるべきことを明確に伝えた方が良いと言っても、相手の気持ちを考えずに、何でもずけずけ言っていいという訳ではない。やはり、アメリカ人も相手が傷つく恐れがある場合には、それなりに気を使って話している。日本ほどの遠慮は必要ないが、アメリカでは「言いたい放題」で良いと考えるのは誤解である。
10月30日、第18回
 1991年ごろにNHKが放送した「日米市民討論」という番組の中の日本人は働きすぎかどうかに関する部分をビデオで見せた。働くことをめぐって日本人とアメリカ人の価値観などが180度違うという通念(固定観念)が番組の前提になっていたが、その「常識」の型にはまらない日米の市民の発言が見事にその前提を崩して行った。ビデオを見せた主な目的は「日本人は働きバチ。アメリカ人はレジャーを大事にする。」という固定観念の問題性、そしてマスメディアを鵜呑みにすることの危険性を認識させるためであった。
11月6日、第19回
 前回にビデオで紹介した日米の労働倫理に関する講義を続けた。さまざまな統計を紹介しながら、アメリカはけっして「レジャー大国」ではなく、世界的に見て、「働く倫理」にしても、労働時間にしても日本とアメリカは180度違うのではなく、むしろかなり似ている、と主張した。ビデオはドイツの労働事情に関するニュース・ステーションの特集であった。ドイツと比較すると、日本とアメリカはむしろ似ている。また、同ビデオは労働の在り方と性的な役割分担の関係の重要さを物語っていることを指摘した。
11月13日、第20回
 米海兵隊員による少女暴行事件に関するニュース・ステーションの報道(1995年11月8日)にスポットを当てた。まず、ニュース・ステーションでABCの報道に触れていたので、その報道のビデオを見せた。その後、ニュース・ステーションの報道のビデオを流した。ビデオを一度見た後に、その中身を詳細にけんとうするために、番組でなされた解説をOHPに映した。そのスライドはここにある。解説を分析しながら、番組で取り上げられたNew York Timesの記事をOHPに映し、検討した。ニュース・ステーションの報道のまずさを強調した、同様に誤解を招き、固定観念を広める報道はアメリカでもよく行われる。固定観念や先入観に捕らわれないためにはメディアを批判的に見る必要がある。
11月20日、第21回
 「地域社会の一員としての外国人」というスライドを使って講義した。このテーマは前回の米海兵隊員による少女暴行事件との関連で選んだ。つまり、米軍の沖縄駐留は「従来型『共生』」であって、一番の問題は「地位協定」に象徴されるような外国人と日本人の明確な役割分担や地位の違いであると思う。今回は「多文化主義型『共生』」のメリットのところまで説明した。
11月27日、第22回
 前回の「地域社会の一員としての外国人」に関する講義を続けた。外国人が住民票に載らないことにも言及し、「住民票に関する一緒企画のページ」を引用して、いくつかの問題を紹介した。ビデオは数カ国の国籍法(大きく分けて「血統主義」と「生地主義」に別れる)を見せた。
12月4日、第23回
 「地域社会の一員としての外国人」の中の「帰化について」を中心にして講義した。ビデオはいわゆる国籍条項に関するものであった。
12月11日、第24回
 「日米の法文化」について講義した。ビデオは前回の「地域社会の一員としての外国人」との関連でKumamoto Internationというメーリングリスト(ML)に関するものであった。
12月18日、第25回
 「日米の法文化」に関する講義を終了した。
1月8日、第26(最終)回
 中根千枝著『タテ社会の人間関係』について講議した。利用したOHPスライドは「中根千枝著の『タテ社会の人間関係』の中心的な概念」や「日本の教育制度と『場』」「「場」におけるコミュニケーション」であった。その後、司馬遼太郎氏の「21世紀に生きる君たちへ」を紹介するビデオを見せた。司馬氏は私が23回にわたって伝えたいと思ってきたことを小学生にも理解しやすいことばで、巧みに表現なさったと思う。(このエッセイは司馬遼太郎著の『十六の話』[中央公論社、1997年]に含まれている。本学の図書館の一階にある。[914.6||SH15])最後に、期末試験について説明した。形式は中間試験と似ていて、前半に講義内容に関する問題がある。これらの問題には簡潔な答えで十分だ。論述形式の問題については、次のような問題になることを説明した。
下記の事柄から三つ選び、中根千枝著『タテ社会の人間関係』で展開されている理論との関係をできるだけ詳しく説明せよ。
「下記の事柄」の例はとしては終身雇用、慰安旅行、一体感、契約、能力主義などが挙げられる。本を読みながら、理論の鍵概念である「場」と「資格」と本で取り上げられている事柄との関係について考えるように勧めた。なお、中間試験と同じく、参照不可だ。
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