大変遅くなりましたが,新年,明けましておめでとうございます.昨年もできる限り頻繁に身近な記事をHPにアップして,記事を楽しみにしている卒業生や友人達に見てもらおうと努力しましたが,なかなか筆も進みませんし,結構忙しくしています.今回が私からの今年初めての記事になりますが,これからもできる限りUPするので,暇なときにご覧下さい.
さて,1月23日(木)には2015年から依頼されて協力している東大まちづくり大学院の講義を行ってきました.今年で10年になるのですね.
歳のせいでしょうか,行きのフライトのチェックインをしようとQRコードをかざしても「ピー」という音と共にリジェクトされました.係の人から.「このフライトは既に出発しています」と.なんと,私が出発時刻と思い込んでいた時刻は羽田の到着時刻でした.あわててカウンターに行って事情を話すと,余程私の顔が憔悴しきっていたのでしょうか,「こっちへ来て下さい」と別のカウンターに連れて行かれ,「このチケットは変更不可ですが,今回に限って無料で次の便に変更します.」としてくれました.少し早めのフライトを予約していたので,1時間30分後の次のフライトでも,講義開始まで1時間20分ほど前には羽田に到着できそうでした.残念ながら着陸からゲートへの移動に時間がかかり,余裕は1時間.それからジョルダンの最短ルートを頼りに東大の講義室に着いたのは講義開始から10分遅れでした.
それでも4名のリアル受講者と10数人のリモート受講者,それに高見先生までも,昨年までの講義内容に若干の情報を加えて改訂した「熊本市の革新的な地域公共交通戦略 公共交通基本条例に基づく路線網再編計画と新たな補助制度・運営組織の提案」を真剣に聴いてくれました.リモート聴講者の中には昨年の受講生もいたようです.有り難いことです.
終了後はGOでタクシーを手配し,東大工学部正門前に配車されたタクシーで神楽坂のオシャレなイタリアンレストランへ. 10:00スタートになるけれど上京した私のためにIBSの上野君が研究室東京支部ミニOB会を企画してくれたのです.そこには,古澤君,森田君(パシコン),山本君(国交省),八戸君の(日本工営)が集まってくれ,近況や当時の話で終電直前まで盛り上がりました.上野君,皆さん,有難う.
翌日は二日酔いのまま,移転したばかりのIBSを訪問し,現在のパーソントリップ調査の実施や都市交通マスタープランの策定状況,その理念や目的・需要の分析と予測技術の動向などについて,森さんと石神さんにインタビューをしてきました.近年,適切なモーダルミックスを指向してきた総合交通体系という考え方がぼやけてきており,そのためのPTの位置付け,調査方法や活用方法も以前とは随分変わってきていること,分析技術的には相変わらず段階推定法を用いているが,配分に至っては大手建コンでさえ,それができるような技術者がいなくなってきていることなどが分かってきました.
都市モビリティプランであるSAMPではないですが,
行きの飛行機に乗り遅れるなど,様々なハプニングから始まった今回の上京はいろいろな意味で有意義な1泊2日となりました.今度はもう少し余裕を持ったスケジュールで上京します.そのときは今回参加できなかった在京の多くのOBとも会いたいと思っています.待っててください.
明けましておめでとうございます。昨年、文書を読んで頂き誠にありがとうございました。今年もどうぞ宜しくお願い致します。
2024年12月の記事はその月に書くべきでしたが、仕事が忙しかったのであっという間に2025年に踏み入りました。私が務めた会社に毎年恒例の“漢字一文字企画”がありまして、“2024→2025あなたにとっての漢字一文字は?”というテーマがあります。私の時間と精力は殆ど家庭と仕事にかけているので、深く考えずに私は漢字“好”を選びました。2024年を振り返ると、あらゆる面でますます良くなっています。不安や悩みがありますが、2025年に入ってあらゆる面で更に良くなっていきたいです。
12月は1年間の営業実績まとめと来年の営業予算を提出する時期です。私の2024年の営業実績は2023年より倍増しました。未回収金はなく、新規顧客5社が開発に成功し、そのうち2社は12月末に追加発注しました。これらの数字だけを見ると、この一年間の仕事上に良い成績を収めました。数字がきれいで、営業担当として光栄ですが、数字は達成感を測る唯一な要因ではないことをよく存じます。目標を達成するには個人の努力だけでなく、中国自動車市場の繁栄、貿易会社の強力な協同、日中チーム全員のご協力が大切です。業界のリズムはますます速くなり、進まざるを得ないことが多くて、未知に対する不確実性が高まっていることも実感しています。
時間とともに進むのは大変ですが、新しい体験を増やすことはいつも楽しいです。12月8日に“海峡両岸(昆山)マラソン”が開催され、私一家が歓楽跑の競技種目を参加しました。マラソンと言えば、プロのランナーだけが参加できる伝統的な競技スポーツかと思っていました。20年ほどトレーニングをしていない私には参加する機会があるとは思わなかったです。厳密に言えば、歓楽跑は非厳格な競技種目です。全長約6キロで、42.195キロのマラソンや21.0975キロのハフマラソンとは大違い、一般人としては、自宅の近くで手軽くマラソンを楽しめるようになって、本当に良かったと思います。
昆山マラソンが初めて開催されたのは2018年でした。今回は4年ぶりの開催となり、4回目となります。私は2014年に昆山に来て生活はじめましたが、昆山にマラソンを開催したことに注目したことがありませんでした。宣伝資料により、昆山マラソンの宗旨は“海峡両岸は家族”です。昆山には約4千社の台湾企業があり、約10万人の台湾人が暮らしています。ここ数年、離れていく台湾企業がありますが、マラソン大会を通じて、多彩な台湾文化と昆山の魅力を融和して、海峡両岸の経済文化交流と協力を拡大する望みは変わりがありません。
昆山マラソンにはマラソン、ハーフマラソン、歓楽跑の3つの競技種目が設置されています。歓楽跑のランナーの応募人数は3000人です。私は10月中旬に公式サイトで申し込みました。参加料は一人当たり100元で、公式サイトで費用を支払ってから申し込みが成功になります。マラソンの定員は5000人、ハーフマラソンは8000人です。応募者の人数が設定者の数の上限を超えた場合は、抽選が行われます。
二人の子供はマラソン大会を楽しみにしていました。特にスポーツ好きな次男が自信満々に順位や賞金を目指しました。子供の目には、私は最も努力して鍛える必要があります。彼らは厳しく私に“ママ太りすぎ”、“ママお腹が大きすぎでダイエットしなさい”と言ってくれて、“早く運動して、足を引っ張らないで”と注意してくれました。
中国には“好漢不提當年勇”(好漢はその年の勇を語らない)という話があります。中学時代の私は中長距離陸走選手でした。クラスや学校を代表して運動会に参加し、スパイクシューズを履いて、400メートルと800メートルの試合に参加していつも順位を獲得したのに、今は体力も持久力も劣っています。彼らが託児所に通っている間に、私が数回に家の近くのバスケットボール場で走り回ったことがありましたが、続かなかったです。自分のレベルは1、2キロ走ると息が切れるほどと存じます。6キロの歓楽跑が耐えられるかどうかについて自信がありません。
大会の前日、4つの参賽包(諸物品)を受け取りました。参賽包には火鍋のスープ、インスタントラーメン、植物乳、豆乳、ビール、コーヒー、レインコート、ティッシュペーパー…が入って、初参加の私達にとってサプライズでした。私が特に好きなのは好運蓮蓮という名がある参賽服です。参賽服は半袖で、速乾生地、青紫色のグラデーションに、昆山のランドマークである古蓮橋、凌空宝塔と台湾のランドマークである阿里山、日月潭の図案があり、昆山と台湾の融合を意味します。昆山は鹿城と呼び、昆山マラソンのロゴ―“鹿”も描いています。万人のランナーが鹿城昆山でマラソン精神を伝え、鹿城の美しい景色を鑑賞する意味があります。昆山人が并蒂蓮という蓮花が好きのようです。并蒂蓮が参賽服に咲いていて、幸運と円満を意味します。もちろんマラソンやスポンサーの情報も印刷されました。ざっと見積もってみると、参賽包だけでも100元の参加料に値します。マラソンの参加料は200元/人、ハーフマラソンは120元/人、参賽包はもっと豪華らしいです。また、マラソンとハーフマラソンコースの沿道には多くの食料補給があり、撮影者、応援者、医療スタッフと公式配速員が付き添い、獅子舞や柔力球などの文旅活動も試合に彩りを添えているようです。
マラソン当日は晴れていて、参賽服だけだと寒いでした。子供たちが風邪を引かないように、試合後すぐにダウンジャケットを着られるように、主人が会場近くに駐車しました。年に一度のマラソンは道路閉鎖や交通に悪影響を出るかなと思いましたが、交通が整然でした。
大会当日、約16000名のランナーが昆山城西体育センターで集合して、朝8時、銃を鳴らしてマラソンA区のランナーは走り出しました。スタート順はマラソンA区、ハーフマラソンB/C区、歓楽走D区の順でした。マラソン、ハーフマラソンのランナーの参加番号札にタイムチップがあり成績記録できますが、歓楽跑は特定の時間基準を達成する必要がないため、チップがありません。
私一家は参加服を着て、巨大な行列に立ちました。ランナー達は凄く情熱でスタートラインの雰囲気は盛り上がっていました。周辺には撮影者や応援者も沢山いました。歓楽跑は主に子供連れの家庭だと思っていましたが、各年齢の成人の参加者が非常に多かったことが分かりました。銃を鳴らして当初中々走れなかったですが、1キロからお互いが徐々に距離が開いてきました。走りにつれて、体がだんだん暑くなって汗をかき始めました。一瞬、ダイエットとランニングを続けたい気持ちがありました。やはり人が多ければ勢いも大きい、雰囲気に乗って、私も一気に4キロを走りました。長く続きランナーの行列が街の中の明るい風景になりました。
主人と長男体力が良くて、先にゴールまで走りました。次男と私はだんだん体力が続かなくなってきて、2、3回休んでからゴールまで辿り着きました。私は走ることに夢中になっていたので、次男にマラソン精神を教えるのを忘れていましたが、彼があきらめなくて、自分の限界に挑戦することもスポーツ精神の実行でした。主人と長男がゴールで私達の姿を待って撮影をしてくれました。終点にあるタイムボードを確認したら6キロの成績が約39分でした。子供達が賞金の話をしなくなりました。私たちはフルコースを完走することができて、すでに勝利しました。
勝利の完走者に対して、 道を挟んで歓迎の列がありました。水とミルク以外に完賽牌(完走メダル)が配られました。メダルを受け取ったことはやっはりサプライズでした。メダルは蘇式窓枠を底にして、ハスの葉の元素を加えて、傲立たる并蒂蓮、そして生き生きとした龍の図案があります。重くて豪華な感じをし、良い記念物になります。
会場で暫く写真を撮って、寒く感じました。車に戻って、ダウンジャケットを着いて体が暖かくなりました。外が寒いので、私はマラソンとハフマラソンの現場を見に行きませんでした。ネット上には昆山マラソンの生中継やショートビデオ、大会に関する書き込み、投稿がたくさんあります。知りたい内容は簡単に確認できます。私がマラソンの内容を頻繫に検索したので、ビッグデータはマラソンに関する情報をたくさんプッシュしてくれました。情報により、中国ではマラソンやランニングがブームとなっています。マラソンは単なるスポーツ分野を超え、国民のフィットネスを促進するほか、“マラソン経済”にも発展し、文化、観光、ビジネス、政治を融合した総合型民生プロジェクトとなっています。
他の地域から昆山マラソンを参加に来たランナーが多かったらしいです。ブロガーたちが昆山マラソンを好評する声もありました。歓楽跑の初心者ランナーとして、私も昆山政府と関係機関のマラソンに対する重視と誠意を感じました。海峡両岸の経済発展と文化交流の目標を実現できれば最高ですが、“スポーツ強国”となる道のりにおける着実な一歩だと思います。
マラソンの文章は書くと長くなってしまいます。マラソンは2000年以上の歴史があるそうです。昆山マラソンも長く続けてほしいですね。
私にとって、12月のもう一つの新しい体験は皮影戯(ピーインシ)です。皮影戯は中国の有名な伝統的な民間芸術であり、歴史、民俗、詩詞歌賦、絵画、彫刻、演技、吹拉弾唱(打楽器や弦楽など演奏と歌唱)など多くの芸術手段を一体化した“映画”のようで、その原型が2000年前の漢代に遡ることができます。次男と一緒に鑑賞した皮影戯はには“豪華大作 百年劇団 古典国粋 親子皮影戯《大鬧天宮》という立派な名があります。ポスターによると、演出地は昆山文化藝術中心の大劇場であり、舞台はパノラマワイドスクリーンを採用します。演出者は“馬氏皮影” 劇団です。皮影戯は年代や地域によって、多くの派閥に分かれているようです。“馬氏皮影”は河北省唐山に位置し、清朝末期に創始され、今は6代目に伝承されています。皮影戯業界の巨匠が自ら舞台に登場と思うと、自宅の近くで国家級無形文化遺産を楽しめて、ぜひ子供達と一緒に体験してみたいです。長男は“西遊記”や“斉天大聖(孫悟空)”の鑑賞には全く興味がなくて、スマホゲームが遥かに面白いと言い、頑固に留守番をしました。
鑑賞券は座席により180元、280元、380元です。開演30分前に入場券を購入した原因かもしれませんが、280元の座席が半額になりました。私と次男二人で280元をかかりました。劇場ホールの入り口には唐僧、孫悟空、猪八戒、沙和尚などの皮影を展示していました。観覧したり購入したりすることができます。触ってみって、皮影は硬く弾力があり、色が鮮やかで透明感があり均等の厚さがあるようです。人形の手、ひじ、腰、足などの関節部分をそれぞれ分けて細工してから、合わせて組み立てています。
劇場は半分以上の観客がいって、なぜか良い座席が沢山空きました。子供連れの家族が多かったです。開場のシーンは、漢武帝の妃の李夫人が亡くなった後、漢武帝は彼女をとても懐かしんで、大臣李少翁は綿織物で李夫人の像を刻み、色をつけ、手足に木の棒を入れて、明かりに照らされながら幕の後ろで人形を操り、李夫人の影が生き生きと映し出して、漢武帝は大喜びしたという皮影戯の起源の物語を演出しました。
続いて、シーンは古代から現代の中国の民間に切り替わりました。父親と皮影戯の技を受け継ぎたい娘との会話を通じて、皮影戯の歴史伝承の責任感と豊かな文化芸術の蓄積、後継プロの職人の苦労さを表現しました。2つ目のシーンが終わると、馬氏皮影の6代目の後継者兼司会者が舞台に立ちました。彼女は若くて親切で舞台感覚が良いです。皮影を学ぶ経験と皮影の基礎知識を簡単に紹介してから、いよいよ本題に入りました。
大昔、花果山という名の山があり、山頂には巨石が露出していました。天地開闢から日月の精華を吸収し、仙胎を育み、何と巨石が石猿を産みました。物語は石猿出世、金箍棒を強奪、蟠桃盛宴、大鬧天宮(大暴れ天宮)、斉天大聖の5つの章節に分けて、合計70分間の演出が続きました。《大鬧天宮》は中国四大名著の一つである《西遊記》に記載した物語です。子供の頃、孫悟空を題材にしたドラマ、アニメ、小児書がたくさんありました。孫悟空には金箍棒、火眼金睛、72の変化があり、とんぼ返りをすると10万8000里になります。どんな困難があっても乗り超えられる英雄のような存在です。
素人の私から見れば、皮影戯に演出した孫悟空、竜王、玉帝、王母、天兵天将、太上老君、如来仏などの人物像がはっきりしていて、複雑な感情、戦闘シーン、誇張した芸術手法が幕に映し出されて、衝撃的な音楽と自然なナレーションが合わせて、子供たちは興味津々に見ていました。不足な点と言うと、楽器の伴奏は録音を使ったようで、角度の原因なのか動きの切り替えが速すぎの原因なのか分かりませんが、影がぼやけているときがありました。次男はストーリーが幼稚だと思い、スマートフォンを遊びたかったです。せっかくの体験だと思い、最後まで真面目に鑑賞することを説得しました。
演出が順調に終わり、司会者と観客がインタラクションしました。司会者は500個の道具を操作するには3人の職人しかいないと紹介し、幕切れで観衆の拍手にこたえて職人達が舞台に現れました。私は外見で人を判断する人です。ポスターを見て、皮影戯業界の巨匠が演出と期待しましたが、弟子でしたので、がっかりしました。その瞬間、入場料が高いなと思ってしまいました。私には若者に対する包容力と芸術に対する鑑賞力が欠けているだけでなく、芸術文化とお金を混同してしまうこともしています。私のような人は少なくないと思います。これも文化伝承の困難の一因でしょう。多くの古い芸術形式は私たちの生活から遠ざかっています。一般人としては、お金を稼ぐのは容易ではなく、お金で物事の価値を測ることに慣れています。芸術の価値は計り知れないもので、消えてしまうのは非常に残念なことを存じます。国は文化の伝承と文化的自信を重視しています。多くの職人がなくなり、古い材料もだんだん消えていくことは事実ですが、達人は民間にいることを信じます。振り返ってみると、お若い3人が数百の道具を操作しながら物語を歌うのは偉いです。“一口で語れば千年の故事、両手の舞いで百万の兵”という 素晴らしい皮影戯がこれからも長く続けてほしいです。
12月25日は主人と私の結婚記念日です。多くの方がクリスマスを祝う雰囲気の中、二人は結婚16年周年を迎えました。主人が外賣(宅配サービス)を頼んで昆山事務所に花束を送ってくれました。彼のロマンチックに意外でしたがとても嬉しかったです。私はプレゼントを選ぶ時間がなくて、Sam‘sの宅配サービスを使い、チョコレートを買いました。生活に追われている私たちが恩愛に浸るだけではないことを存じますが、美しい願いはあったほうが良いですね。
人生が戯(芝居)のようだと言う人もいれば、人生はマラソンのようだと言う人もいます。40歳で人生を語るのはまだ早いかもしれません。これからの長い人生に、着実に努力して素晴らしい日々を送りたいと思います。
2025年、私たちがますます良くなることを願います。
※文章は高さんの記述のまま掲載しています.
ここ数年、家庭内や自分の身の回りで起こっていることをめぐって、私が文書を書き続けています。これらの文書は往々にして文才と見識を欠け、ただありのままに真面目に記録をしていて、中国語で言えば“流水帳”だと思います。 11月に入り、私は相変わらず充実した日々を送っています。2週間の間、上海、蘇州への短距離出張のほか、広州、深セン、恵州、東莞、香港、安徽黄山にも行きました。今月の“流水帳”( 現象の記載を羅列しただけ)が長いです。文書を最後まで読んで頂き誠にありがとうございます。
11月の4日と5日、2人のタイの顧客が昆山事務所に来ました。6月のタイ展示会以来、私は定期的に当時の来訪者と連絡を保しています。今回、訪れた会社は自動車関連業界で、当社製品に興味を持ち、先進的で環境に優しい日本製品をタイに広げたいです。9月頃、先方が複数のサンプルを昆山に送り、私が加工を手配して完成品をタイに送りました。約一ヶ月の物性試験を経て、良い物性結果が得たので、先方がわざわざ昆山に商談に来ました。私には顧客の訪問接待に慣れています。送迎機から商談資料の準備、パートナー工場見学、ビジネス接待まで丁寧に対応し、上達ではない英語も十分に活用できました。商談に打ち込んだ自分は達成感を感じて、2日間とも楽しく興奮した状態でした。
11月9日と10日は会社の“団建日”(会社旅行)でした。団建の場所は総経理が選定した深セン市街地か100キロ以上離れた恵州にある海辺別荘でした。会社は一軒家の別荘を借りました。部屋の数が社員人数を上回っているし、家族連れは許可です。ただ、自宅から集合場所までの家庭メンバーの往復交通費は自払いになります。別荘の宣伝を見て、私は清新でロマンチックな環境に惹かれました。別荘は白調で、複数の娯楽施設があり、内装が清潔で豪華そうに見えました。こんな立派な別荘にいると、子供も退屈しないでしょう。しかも、昆山はもう寒くなってきて、深センの気温はちょうどいいし、水泳もできます。この機会を借りて、子供と一緒に視野を広げて、リラックスできればいいなと思い、子供を連れて団建に参加することを申し込みました。
偶然にも、主人の会社の団建日も同じ日でした。私たちが深センに行くことを聞いて、日本出張を終えたばっかりの主人も深センの出張を前倒し、私たちと深センで合流して、うちの会社の団建に参加することを決まりました。主人が忙しい中、会社のイベントに参加してくれてとても嬉しいです。 一方、子供たちは海辺の別荘で休暇することを聞いて、日を数えて楽しみにしていました。2日間の学校休みを取るので、予習と復習に励むように何度も言い聞かせました。彼らはいたずらをしたら、私は航空券を払い戻して脅かしてしまい、二人がすぐにおとなしくなりました。
家族の航空券は自腹なので、なるべく安い便を探しました。一般的には、上海から広州への直行便は深センへより安い、早朝と深夜の便がさらに安いです。総合的に考えて、朝7時頃出発の航空券を買いました。9時半頃に広州白雲空港に到着してから現地の顧客の訪問にも間に合います。
11月8日の朝4時頃、家がタクシーで上海虹橋空港に向かいました。飛行機は定刻に離陸しました。航空券は400元弱でしたが、吉祥航空会社のBoeing 787大型機に乗れました。しかも、機内は快適で食事を付き、テレビも見られました。子供達は映画を見たり、朝食を食べたり、寝る気がありませんでした。しかし、白雲空港から顧客に直行する途中、二人とも熟睡しました。顧客の工場に到着してもどうしても目が覚めませんでした。予定では、同僚と私は工場で合流します。私は1時間ほど早く着きました。工業団地には休憩所がなくて、守衛員に椅子を借りて二人を寝かすつもりでしたが、守衛員が私訪問予約した方を呼んできました。顧客に迷惑をかけたくないですが、先方が守衛室に来てくれて、熱心に会社のロビーのソファーまで案内頂きました。会社の車が到着後、子供達を車に抱いました。訪問先はスパマッサージシリンダー、サーフィンプールなど健康製品のトップ企業です。訪問は計画通りに行いました。顧客訪問中、会社の運転手が子供達の世話を手伝ってくれました。今思えば、この度、子供連れの訪問は気まずいもので、顧客に申し訳ないと思います。
広州から深センへ行く途中、二人は携帯電話を争って、言うことを聞かなかったです。他人の見方に気にしますが、彼らを叱るのを我慢して、その代わりに、同僚に謝りしました。子供たちが大きくなったら一緒に活動したくなくなるかもしれませんね。今の時間を大切にするべきだと思います。
夜10時過ぎ、主人は顧客の現場から私たちが泊まったホテルに来ました。家族4人が予定通りに深センで集まりました。ホテルに睡眠補助マットレスとスマート家電、巨大スクリーンがあり、子供たちが音声でカーテンの開閉を制御したり、映画の投影を見たりして、深夜12時頃、催促の中でやっと眠りました。私たちは翌日の恵州の旅を楽しみにしていました。
9日の朝、深センの同僚たちがホテルに集合来ました。みんな家族を連れていたので、初対面の方が紹介し合いました。団建参加者は計28人、8人は子供でした。別荘がスペースのみ貸し出しで、会社はバーベキュー用の食材、飲み物など山ほど用意しました。専用車が別荘に向かって3時間ほど走りました。昼食は別荘周辺の“大排档”(海辺の屋台)で済ませました。観光スポットにおける“大排档”の物価が高いです。中心メニューは新鮮な魚介類で、美味しかったです。大人も子供も満腹でした。
別荘は4階建てです。1階には将棋室、ビリヤード台、カラオケ、ゲーム機などの娯楽施設があり、部屋は2階に集中します。私たちの部屋にベットが3つあり、部屋の面積が広く、光もよく、ドアを開けると休憩席もあります。荷物を置いてから、みんなが再び専用車に乗り別荘から約2、3キロ離れた野外にクロスカントリー、射撃、CSプログラム(野戦ゲーム)を体験しました。
オフシーズンのせいかもしれませんが、団体客は私たちを含めて2組だけでした。最初体験したのはクロスカントリーでした。クロスカントリーカーの車体が重いでした。決まった山道が曲がり、路面がでこぼこで、急な坂が多いです。車に乗ってから、この体験には力と度胸が必要だと気づきました。一台の車に最大2人乗りです。主人と次男は1台の車に乗り、私と長男が1台に乗りました。平道で練習した後、みんなが次々と山道に向かって走りました。運転上手だった主人に対して、私は非常に下手でした。エンジンが何度も止まって、車の向きを変えることができなくなりました。従業員は“あなたが無理だよ”と注意くれましたが、私は諦めたくなかったです。怖がれば怖がるほど悪い道ばっかり選びました。主人が都度助けてくれたおかげで、無事にゴールに辿り着きました。息子たちは勇敢でした。ずっと励ましてくれて道の案内もしてくれました。ドキドキしましたが、楽しい体験でした。
4時以降、観光客は私たちだけになりました。二個目の体験は射撃(剣を撃つ)でした。主人は相変わらず勇躍で、弓を引く姿勢がハンサムで射撃の成績もよかったです。男性は力があって、大半が良い成績を収めました。誰かがブル(Bull’s eye)に当たった時全員が歓呼しました。大型弓矢は女性と子供にとって少し大変でした。主人が弓を握る手法を指導くれました。外れても恥ずかしくありません。楽しい体験でした。暗くなる前に3つ目のCS体験を終了必要があるので、射撃がそそくさと終わりました。
指定されたCSのエリアに樹が多いらしいです。参加者の中に7名の子供がいるので、スタッフは安全上の注意事項について詳しく説明しました。水玉で人を打つのは少し痛いです。目を傷つけないように、全員が保護メガネをかけました。被った服の色によって、赤チームと黒チームに分けられました。我が家は赤チームでした。両チームは水玉箱を抱え、各自の銃を担いで、演習エリアに入りました。森の中の視界が悪かったです。近眼メガネをかけていない私は敵営すら見えませんでした。いっそ自発的に弾丸の交換役を担当しました。陣地に密集な弾丸の音が響き、私は何度も弾丸に当たりました。主人は銃を持って敵営に突入し、弾丸補給に来た時、頭が汗だらけでした。全員が闘志を燃やしていました。品質の問題で、いくつかの銃が途中で使えなくなりましたが、大人が良い銃を子供達に譲り、弾丸が終わりまでゲームを続きました。勝敗が分からないけど、大人も子供も遊びに夢中になり、撃たれて泣った子供はいませんでした。ただ、予測外のことに、黒チームのある同僚のメガネが弾丸で割れました。やっはり赤チームの優勝でしたね。
別荘に帰る途中で、みんなのお腹が空きました。作業者が炭火の準備をできて、夕食は4階の露天バーベキューでした。別荘を経由して購入したバーベキューの食材は高いですが質が良くありませんでした。最初焼いたのは会社がSam’Sで購入した高級牛とヒツジスのステーキでした。高級肉が炭火でこんがり焼き、口の中に柔らかく広げて、香ばしくてとても美味しかったです。飲み物もお酒も数種類用意してあり、おやつも果物もかなり豊富でしたので、あっという間に大きなテーブルがいっぱいになりました。同僚たちやご家族はあまりお酒を飲まないです。気分が燃え上がるにつれて、男性たちは同じテーブルに囲まり、最初飲まなかった方もコップを持ち上げました。
大きい子供は思春期に入って別荘に着いてから姿を見せなかったです。バーベキューも親が部屋まで送って一人で食べたようでした。小さい子供は急いて何口か食べてから携帯電話やゲームをしに行きました。息子たちはゲーム機に惹かれて、早々に1階へ遊びに行きました。
子供の邪魔がなくて、みんなと一緒にいるのはとても楽しいです。。私が積極的にみんなと乾杯しました。お肉がすぎると食べられない、お酒が多すぎると飲めない中年人ばっかりなので、用意した食材が半分ほど残ってしまいました。バーベキューの後は自由活動の時間でした。主人と一緒に残った食材を冷蔵庫に入れてから、カラオケに行きました。歌上手な主人は2、3曲歌い終わるとソファーで寝てしまいました。主人は仕事が忙しくて疲れていたことを知っています。彼は遊ぶのが好きな人で、今日は思い切り遊びました。彼は責任感があり、体験プログラムでは、自発的に通訳を務めたり、人を助けたりしました。私から見れば彼は優秀ます。
同僚たちは夜中12時頃までマージャンやゲームなどをしていました。私も深夜までカラオケを歌いました。部屋に戻る前に、主人を起こして2人の子供を見に行ったとき、彼らはまだ暗かったゲーム室で楽しそうにゲームをしていました。
10日の11時半頃にチェックアウトしますので、朝、多くの同僚が海に行きました。別荘には朝食がないため、優しい総経理がパン屋へ人数分のパンを買ってきました。午前中は自由行動でした。海に行ってない方がカラオケを歌い続けたり、天台に行ってリラックスしたりしました。主人は長男にビリヤードを教えて、私は次男と天台に行って、彼が水泳をしました。
11時過ぎ頃、リラックスした楽しい団建が終了しました。同僚たちが余った物資を分かちあい、専用車で深センに戻ります。主人と子供は翌日の朝の便なので、私たちは深センに帰らずに、海辺でぶらぶらしてから広州に行く予定でした。別れた時、長男が惜しまず泣ってしまい、わずか1日ですが彼と同僚の子供と友達になりました。
こちらの海は“九铭屿海”と言います。海風は涼しいです。もう旅行の閑散期に入ったので、観光客が少なかったです。私は砂浜でヨガをし、主人と次男は小魚や小カニを捕まえに行きました。長男は最初、私から遠くないところに砂を掘っていましたが、疲れたと言って携帯電話を遊びました。次男が数匹小さなカニを捕まえて嬉しそうに見せてくれました。その後、彼が泣き出して、暗礁から滑りしてしまい、かかとがケガしました。熱心な子連れの観光客が絆創膏と消毒水をくれました。泣き終わって彼がカニを捕まえに続きました。主人はバケツを持って水たまりの水を排出し、底に魚がいるかどうかを見てみようと奮発しました。
遊び疲れましたので、主人が食事に行こうと催促しました。海辺の“大排档”は高いと存じます。美団アプリでお得コースを探したら、1キロ離れた“大排档”に150元ほどのコースがあることを発見しました。主人とタクシーで見てみようと決まりました。期待の通りに、この店が広くて、店員も熱心でした。本来は150元のコースを狙いましたが、店員と交流後主人が豪快にボストンザリガニを含む298元のコースを決めました。コースの海鮮のサイズは重量で売る海鮮により小さいですが、どれも新鮮でした。主人とお酒2本を注文して、大満足でじっくり食事をしました。スーツケースがまだビーチにあることすっかり忘れてしまいました。
満腹になってタクシーでビーチに戻ろうとした時、30分間経っても車がありませんでした。ビーチから遠くないので、歩いて帰ることをしました。子供は歩いたり跳んだりして楽しかったですが、スーツケースのことをずっと思う私が焦りました。余計な心配でしたが、スーツケースが安全でした。
4時過ぎのビーチは寂しかったです。そろそろ広州へ行くべきでした。最初に料金を節約するため、滴滴アプリに選んだのは一口価格や安い車種ばっかりでした。しかし、30分間経っても注文を受ける人はいませんでした。やむを得ず普通車種を追加しました。
惠州のネット予約車の数量が少ない原因か、目的地まで遠い或いは時間が遅いのせいか知らないですが、注文は様々な理由でキャンセルされました。注文から1時間が過ぎても車に乗れないとき、私がまだ焦り始めました。しかし、主人全然心配しない様子でした。
5時のビーチは暗くなってきました。もう料金を考えている場合ではないと思い切って、私が一気に十数車種を呼びました。暫く経って、よっやく車乗れました。注文を受けた若いドライバーは滴滴アプリの初心者ぽいでした。礼儀正しく強硬に往復の高速料金を払わせてくれました。私は暗くなった海を早く離れたい一心で、もう他の車を探したくないです。彼の車は新能源自動車です。途中、30分間充電もかかりました。車に乗れた途端、子供達がぐっすり寝りました。
広州白雲空港近くのホテルに着いたのは夜9時半でした。広州のホテルは深センにより安いです。ホテルに無料の洗濯室があり、汚れた服を一時間ほど洗濯と乾燥を完成しました。夕食は“炭火鶏煲”(炭火鉢鶏鍋)でした。お店の定番は新鮮の鶏の鍋です。まず、鶏を食べて、その後、野菜など食材を鍋に茹でます。お鍋がおいしかったです。スープが体を温めて、疲れも癒してくれました。子供は屋台の牛雑煮も食べてみたいので、1人分を買いました。主人が大忙しいので、一緒に外食することは滅多にないです。会社団建のおかげで、ゆったり幸せな時間を過ごせました。ホテルに戻った時もう12時になりました。順調なら、ドライバーも家に着いたかもしれません。
11日の午前5時、ホテルの無料シャトルバスに乗って、主人と子供たちを広州白雲空港まで見送りしました。6時過ぎの空には大きな火焼雲が現れました。午前7時、私は東莞に出発しました。東莞は広州と深センの間に位置し、改革開放以来、東莞は“三来一補”モデル(来料加工、来品組立、来料加工と補償貿易)を実行し、完全な産業チェーンと密集した産業クラスターを構築しました。工業団地には多くの会社が集まっていて、老朽化しているように見えました。訪問先の2社とも大規模な生産ラインがなくて、清潔な作業環境もないですが、製品が安くて中国国内外に広く拡販しています。自分の製品を話すと、社長は自信満々です。私は北方人です。心から南方の商人の知恵と度胸に感心します。
今夜泊まったホテルは“中国電子第一街”の名を乗る“深セン華強北”の近くにあります。メリットは会社周辺のホテルにより安くて、皇崗口岸から近いです。
12日の朝、私が深センから地下鉄で香港展覧会へ行きました。皇崗口岸は24時間開放される深センの客貨総合港で、深セン市と香港特別行政区を結ぶ港です。日本で勤務した期間、二三回香港に行ったことがありましたが、口岸から地下鉄で行くのは初めてでした。皇崗口岸の通関の全過程は非常に便利で迅速でした。昆山で香港・マカオの通行証と“签注”の申請も1週間しかかからなかったです。通関後、中国内陸の携帯電話とインターネットが接続できなくなりました。幸いなことに、携帯電話の国際ローミング機能を開通しました。少し準備不足でしたね。
皇崗口岸地下鉄駅から目的地のMTR会展駅まで約40分間かかりました。駅から出ると、壮麗なビクトリア港と、明るい日差しの下で広い道路、色とりどりの車両、立派な高層ビルが目に飛び込んできました。こちらの新館は香港湾仔に位置し、世界最大の展覧館の一つでもあります。無料シャトルバスを乗って、AWEアジア国際博覧館(旧館)で開く同名の展示会に参加できます。入場料は420香港ドルですが、招待状があるので無料で入場できました。
展示会では、美容や化粧品関連の原材料、機械設備、包装、契約製造、自社ブランドなどをカバーし、広東省と浙江省の出展者は特に多く以外、日韓、欧米の企業も多く出展していました。新国産品勢力は革新的な活力を示す一方、国際ブランドの影響力も根強いです。巨大な中国市場では、アンチエイジング、軽医美、環境に優しいスマートの製品の競争が激化になるそうだと思います。
午後4時半ごろ、私が展示会場を離れて無料シャトルバスに乗って尖沙咀に行きました。10年以上ぶりなので、私にとって全く覚えがありませんでした。立派なデパートに高級かつ高価な国際ブランドばっかりです。私の消費水準はこのレベルから遥かに遠し、為替レートのメリットもないし、私が買物しませんでした。デパートの一角の屏風を開けて、夕方のビクトリア港の美しい景色を暫く楽しんてから、西九龍駅から深セン福田駅行きの高鉄を乗りました。
西九龍駅での通関も簡単でスムーズでした。僅か14分で私は香港から深センに戻りました。携帯電話の信号が回復し、自由自在の時間もあるので、昼食の分を含めてしっかり食べたいですね。
私は烧腊が大好きです。抖音アプリで子が父の業を受け継ぐ老舗を検索しました。お店は“深セン華強北”のエリアにあります。店内は狭いですが、ほぼ満員でした。このような店こそおいしいはずだと思います。私は3人組とテーブルを組みました。ガチョウ焼き、チャーシュー、油鶏の3種類の組み合わせを注文しました。甘口のダレに付けてから食べるのが特に美味しいと思います。昆山にもいつかこんなおいしい烧腊店が開くといいですね。59元は少し高いですが、満腹になれて大満足しました。
焼腊店へ行く途中、河北省石家荘市で出張中の主人から電話をかけてきました。彼の奶奶(おばあさん)が亡くなりました。
13日の朝7時、私は深センから広州への高鉄を乗りました。広州で顧客訪問と試作を行い、夜、昆山に戻りました。14日の夜、私たちは昆山から安徽黄山へ出発しました。深夜12時頃に村に着きました。
主人の奶奶の葬式は11月16日でした。奶奶は90歳の高齢でした。17年前、主人の爷爷( おじいさん)が亡くなってから、奶奶は5人の息子の家で交代に住み始めました。主人の話により、奶奶の5人の息子とお嫁は親孝行でした。奶奶は伝統的な農村の女性でした。個人意識が薄くて、若った頃から夫や息子、お嫁さんのいう事を聞く人らしいです。今年夏頃まで、奶奶はまだ丈夫でした。17年間息子の家で暮らしましたが、生活の自立ができて、滅多に子孫に迷惑をかけないいません。村では土葬の伝統があります。奶奶が亡くなった時、すべての子孫や親族がひざまずいて葬式を参加しました。
村の風習によれば、葬儀に参列した当日に村を出なければ、3日間は村にいなければならないです。主人のお兄さんは深センで暮らしいています。勤務先の社長は黄山市太平県出身で、深センで創業し、会社が立派に発展した後、実家の太平県に分公司を設立しました。兄は分公司に会議に行くので、午後、私たちと一緒に出発しました。主人の舅舅(おじさん)と兄の同級生も分公司に勤めています。夜、みんなでおいしい徽菜を食べました。食事が終わって、私と子供達がホテルに戻り、兄と主人が知り合いと夜食を食べに行きました。
太平県に滞在した時間は楽しかったです。17日の朝、バイキングを食べて昆山に戻る予定でしたが、主人が少し休憩したくて、二人はホテルに戻って昼食まで寝ました。最近、二人とも長距離移動で疲れています。夜7時頃、私たちは昆山に戻りました。
18日、新しく買ったマンションの不動産証明書が手に入りました。面積は37平方メートルで、総額は122万元でした。学区は昆山で最も良い公立中学校であり、“学区房”と呼ばれています。マンション探しいから決まりまで、主人は私に任せました。学区房は比較的に保値だ(値を保つ)と思い、面積が小さいので総額が低い、ローンが少ないです。ここ数年、昆山の住宅価格は大幅に下落しました。国は不動産を救うために多くの政策を打ち出しました。今後、昆山の不動産市場がどうなるかは分かりませんが、息子たちが順調に中学校に入って、高校生になって、大学に行けたら何よりだと思います。
中国では“有圧力才有動力”( プレッシャーがあってこそ動力がある)という言葉があります。長男に“軒”(車+干)と名付けました。主人と冗談めかして“子供に車を買ってあげて、あとは彼の努力次第だ”と言いました。美しい願いですが、親である私たちには、仕事に励み、子供に成長と発展に必要な物質などできるだけ多く用意して、子供には、私たちより高いスタートを大切にし、しっかりと努力を続けてほしいです。自分の美しい生活は自分の手で作らなければならないですね。
※文章は高さんの記述のまま掲載しています.
岡山大学で開催中の土木計画学研究発表会・秋大会に合わせて,東大伊藤准教授,トラフィックブレイン太田氏が先導するBeyond5Gサブ研究グループが主催した「都市交通決起集会」に参加してきました.
「日本では、人口100万人以上の大都市圏であっても車依存が著しい。・・・中略・・・2000年代には存在感のあったパーソントリップ調査を起点とした都市・地域交通戦略も形骸化の兆しがある。そのような状況を打破するために、渋滞が社会問題化している熊本都市圏では「車1割削減、渋滞半減、公共交通2倍」という大胆な目標を掲げた産官学の取組が始まりつつある。また岡山、広島都市圏では、事業者間協調を軸に公費投入も交えた事業環境改善の取組も始まっている。本勉強会では、岡山大学にて開催される土木計画学研究発表会に集まる都市交通有識者らと共に、各都市の事例を参照しながら、都市公共交通政策の再興について討議する。」というのが,このおどろおどろしい名前の集会の開催趣旨である.
現役を引退し,第一線の学会には参加するつもりはない私が,17:45~20:45の3時間だけのためにこの決起集会に参加したのは,第1部で「熊本都市圏「車1割削減、渋滞半減、公共交通2倍」をめざして」という話題提供を行う太田恒平(株)トラフィックブレイン 代表取締役が暴走した場合にそれを止め,正しい道に戻すためです.
第1部の
・ | 熊本都市圏「車1割削減、渋滞半減、公共交通2倍」をめざして | |
(株)トラフィックブレイン 代表取締役 太田恒平 氏 | ||
・ | 日本の都市交通政策における地域公共交通計画の現状と課題 | |
(一財)計量計画研究所 研究員 何 玏 氏 | ||
・ | 岡山・広島の公共交通の将来像 | |
岡山市 交通政策課 副主査 平田晋一 氏 | ||
広島電鉄(株) 交通政策課長 進矢光明 氏 | ||
呉工業高等専門学校 教授 神田佑亮 氏 |
の3つの講演の後,流通経済大学 教授 板谷和也,関西大学 教授 宇都宮浄人,両備ホールディングス 常務執行役員 大上真司,RACDA 会長 岡将男,富山大学 特別研究教授 金山洋一,ウィーン工科大学 上席研究員 柴山多佳児,富山大学 特別研究教授 中川大,丸尾計画事務所 専務取締役・クロスセクター効果研究会 幹事長 西村和記,中央大学 教授 原田昇,広島大学 教授 藤原章正,計量計画研究所 業務執行理事 牧村和彦,立教大学 教授 松戸浩,熊本学園大学 教授 溝上章志,運輸総合研究所 所長 屋井鉄雄,福島大学 教授 吉田樹が第1部の講演に対して2分間の意見,および予め太田氏から課された質疑に対して3分間の応答を行うという,恐怖のリレー討議マラソンが行われた.
3都市の関係者と言うことで,主催者側の研究フィールドの熊本代表でもある溝上教授が第一走者でしたが,あまりにも短い時間なので,時間内に用意した内容をうまく説明することができませんでしたが,主要な主張はできたのではないかと思います.質疑に対する応答の内容は下記でした.
その後,目利きの銀次 岡山西口駅前店を貸し切っての懇親会で議論を深めました.熊本でもいつもその行動や発言にハラハラさせられるBeyond5Gグループですが,熊本都市圏の都市交通政策の在り方を真剣に考え,具体的に行動していることは確かです.今後も彼らが暴走した場合にそれを止め,正しい道に戻すよう,協力していきたいと思っています.
当初は9月下旬に開催された霞イチ(霞ヶ浦1周)ライドに参加する予定でしたが,熊大在任中の研究室の卒業生同士の結婚式に招かれたために,参加できませんでした.私と同様に別件で霞イチライドに参加できなかった藤原広大教授に相談したところ,以前,藤原教授が非常に良い景色や経験をしたという「とびしま海道ライド」が11月2,3日の1泊2日の日程で実現しました.
とびしま海道は昨年4月に走破したしまなみ海道の南側の島々を巡る,往復で50km程度のコースです.前日までは秋晴れが続いていたのですが,2日前くらいに台湾を経由して西方の中国に向かっていた台風が温帯低気圧に変わって,突如,東向きに進路を取ると同時に,日本の南にあった前線を刺激し,前日の11月1日から西日本は大雨になりました.1日の午後は広大で広大セミナーが開催され,新進気鋭の手研究者による英語による研究成果の発表が行われ,東広島駅近くのホテルに一緒に泊まっていた甲斐(Kay Axhausen)東大客員教授と共に,久しぶりにアカデミックな空気に浸ることができました.その後は,力石広大教授,発表者と一緒に日本伝統家屋風の居酒屋でミニ懐石料理と広島特産の新酒に舌鼓.しかし,雨は強まるばかり.
スタート予定の2日は朝から大雨で,新幹線は大阪-博多間が不通になり,東広島駅13:00に集合予定の山本名大教授と嶋本宮崎大准教授が揃ったのは既に16:00.15:00には雨もすっかり上がって真っ青な空になったのですが,1日目は輸送用の車で宿泊予定の民泊施設まで自転車を運ぶだけになりました.着いたのは既に17:00過ぎで,辺りはかなり暗くなっていました.しかし,民泊施設の民泊cafe「とみつね」は古民家をリフォームしたおしゃれでしっぽりした雰囲気で良かった.実は,潮待ちの天然の良港とされていた大崎下島の御手洗は,江戸時代は北前船の寄港地,参勤交代の船宿などがあった地区で,今でも大小の商家や茶屋,船宿,住宅,神社,寺院などが多数,それも面的に残っているだけでなく,集落内を小路が網の目のように巡っている.また,大波止や石橋,高燈籠,石垣護岸,雁木等,港町の生活上必要な土木的建造物が当時のまま現存しているとても素晴らしい集落なのです.平成6年には重要伝統的建造物群保存地区として国から選定されました.夕食には「何でこんな所にこんな素敵なイタリアンレストランが!?給仕の女性は何故か英語ペラペラ!?」 のイタリアンを堪能しました.
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翌日は朝から快晴に恵まれ,9:00にスタート.宿泊地から大崎下島の海岸線を右回りに周回し,豊浜大橋からは青のルートに沿って梶ヶ浜の25kmをライドしました.途中,2つの橋の手前の橋詰めにはかなり急で長い坂があり,危うく押しチャリになりそうでしたが,どうにか頑張って走破できました.平坦な道であれば何事もなく行けるのですが,ややきつめの上り坂となると,若い方達のようにスイスイとは上っていけない我が脚力を今回も情けなく思うライドでした.甲斐先生の借りたe-バイクが羨ましくも思えました.
坂が少なく,天気が良くて風がない時のロードはなんと気持ちが良いのでしょう.早速,帰りの新幹線の中で,瀬戸内産ではないですがシチリア産レモンのサワーを飲みながら,嶋本先生と次の春先の宮崎ライドの計画をしました.