陽暦7月26日(陰暦6月21日)が私の40歳の誕生日でした。陽暦6月25日、同じ年の主人も40歳になりました。地域によっては、40歳の誕生日をわざと祝うしない習慣があるようですが、実家には40歳の誕生日を重視しています。誕生日の日から2、3ヶ月前に、母が何回も誕生日の話題をしてくれまして、“40歳の誕生日は盛大に賑やかにお祝いすべきだ”、“二人の誕生日の日が近づいているし、同時に祝うしてもよい”などと熱心に提案してくれました。主人と私は仕事に専念し、子供達も夏休みでそばにいないし、結局、二人ともシンプルなお誕生日を過ごしました。
誕生日の前日、私が加齢不安に落ちました。母と長い時間通話して気分転換後、40代という大台に突入するこの記念すべき日に何かを書こうと思い、私が成長史を書いて、自分の気持ちを整理しました。 私は“80後”( 1980年から1989年に生まれた人)です。中国の“一人っ子政策”の時代に生まれた人であり、改革開放の政策のもとで市場経済とともに育ってられました。私が成長した40年間、中国には急速な発展と激しい変化を遂げました。教育、科技、雇用、不動産、社会福祉など大事件や変動を経験し、どんなに頑張っても時代についていけないという不安の重みを背負しながら走り回ってきました。80後は特別な世代と言われ、社会からの論争が大きいです。80後は最も悲惨な世代という評価に対して、私は違う見方をしています。
80後として、私は幸運に恵まれて、幸福な生活を暮らしています。両親は勤勉で倹約家であり、私には衣食住の問題に困ったことはないです。両親は教育を重視し、知識は運命を変えることを信じ、私と弟が大学に送ることを無条件に応援してくれました。私は大学へ進学する機に乗って、階級を変えました。辺鄙な農村から離れて、広い都市そして先進な海外に行けるようになりました。大学て、優秀な主人と出会い生涯の伴侶を決めました。そう考えると、自分がどれだけ幸せかを改めて認識しました。私が両親を感謝し切れないです。両親の無私の愛が、私の幸せの源なのです。私は時代を感謝しなければならないです。平和で機会に恵まれた社会に生まれたこそ、私がそれほど苦労をかけずに、子供の頃には夢にも思わなかった幸せな生活を手に入りました。さらに、私は成長過程で出会った人々、そして私を信頼し、導き、助けてくれた多くの貴人に感謝します。
私の中では、80後は若者の代名詞です。今になっても、心から自分が“若い”から遠ざかりつつあることを認めたくないです。子供の頃は早く成長して大人になりたかったです。いつも時間が経つのが遅いなと感じ、新年を待ち遠しいでした。大晦日の餃子を食べると、1歳年を取ったことになります。この時になると、両親はいつも“また一年成長したんだから、勉強頑張ってね、もっと大人にしないとね”と言ってくれます。“過年”は一年で最も盛大な儀式で、“忙年”は大人にとって大忙しいことが知らなかったですが、子供だった私にとって、長い休暇、新しい服装、おいしい食べ物、賑やかで面白い“過年”や“拝年”の活動など、すべてが夢中になります。今、私は子供の頃に憧れの年齢をとっくに過ぎています。昔の親族の間の家族愛もだいぶ薄れてきました。子供の頃に望んでいた自由が手に入りましたが、子供の頃の夢はとっくに忘れてしまいました。ふと、“私は今、子供の頃になりたかった人間になれただろうが”と問いかけてみたいですね。過去になってしまったものは戻ってこないことを思うと、思わずに寂しく憂鬱になってしまいます。時々、過ぎ去ってしまったことを思い出そうとすると疲れを感じることがあります。私には、忙しくて充実する生活の方が楽しいです。思い出したり反省したりする時間がなかった故、ひたすらに前を見続けて平凡な日々を過ごすことも楽だと思います。
80後は最も“懷旧”( 過去を懐かしむ)の世代と言われています。社会は目まぐるしく変化をしています。私が成長した40年間、生活基準はどんどん良くなっています。しかし、思わずに物質的に困窮の過去を懐かしむ時があります。両親もよく昔苦労だった日々の話を言い出して、青春時代や再現できないユニークの瞬間への執着もあるでしょうか。幸い、家に帰るたびに“懷旧”な心が癒されます。両親と弟が温かく迎えてくれて、両親が一日三餐に美味しい手料理を作ってくれます。実家には農業と農場を維持し続けているし、善良な隣人たちと美しい自然景色が変わっていないです。炕(オンドル)で布団を被って、母と昔話をしながら外の北西の風とぼたん雪を見ることすら簡単な幸せです。
私たちは常に“幸せ”を追い求めていますが、学校でも社会でも、どうすれば幸せになれるかを明確に教えてくれる人はいないです。両親から勤勉、倹約、誠実、善良、勇敢の品格を学んで、そして、両親が”人在做,天在看”(良いをする、天神が見ているぞ)と“付出就会有回報”( 努力すれば、その分が帰ってくるよ)の思想を教われてきました。私は両親の言うことに反発した時期がありましたが、両親の知恵を信じて、今の幸せな生活になりました。ただ、両親が子供への献身の精神と幼少期に抱いた物質的な欠乏への不安は、私の金銭観に大きく影響しています。お金を稼ぐのが簡単でないことはよく知っているので、経済上に厳しい時期が過ぎても倹約意識が強すぎで、お金の価値を過大に評価してしまい、苦しんでいます。
都市での生活は金銭によって支えらていることを深く実感しています。お金の力が大きいと存じますが、拝金主義者ではありません。母は何回も、女性は働かなければならないと言ってくれました。父が30年ほど銀行で勤務したことに対して、母は一人で農業を営み、私と弟の世話をしました。私が中学生の時、母が貂を養殖し始め、今でも弟の養殖場で働き続けています。 両親は同じ年生まれですが、父が毎月退職金をもらえることに対して、母が政府から受ける福祉がわずかです。両親は私と弟の足を引っ張りたくないです。伝統的なの“養儿防老”( 養児備老)に頼りたくなくて、独立して尊厳がある老後の生活を過ごすために働き続けて貯金をしています。両親が私のことを親孝行だといつも思ってくれるけど、私が謝りたいです。私が19歳から家を遠く離れて、家事もあまり手伝わなかったです。私に対して、恋家(家から離れたくない)な弟はずっと両親の傍にいます。母は白髪になり、父も猫背になりました。両親はいつも私と弟に、自分の生活を幸せに過ごせば、それが一番の恩返しだよと言ってくれています。
この2、3年間、私は幸せな人生を送っていると思います。私の生活と言えば、家庭と仕事が中心です。事業の大成功や多く財産の築くなどを期待していなくて、“圏子”(人間関係の広がり)がシンプルで楽です。2014年長男が生まれ、2017年次男が生まれました。4年間、私が専業主婦の苦労や無力さを味わいました。過去数年間、私が親子関係、夫婦関係、嫁姑関係で苦しんだ時期がありまして、今、最も困難な時期が終わりました。主人と勤勉で倹約的生活をし続きて、2015年の住宅価格が高騰する前に一軒目の住宅マンションを購入しました。近年、子供達がより良い教育を受けれるように、二人が住宅ローンをかけて“学区房”を購入しました。“住房難”(住宅危機)の問題を解決した今、両方の両親のご健康、夫婦が仲いこと、子供たちが立派に成長することを望みます。
過去、人生にとって仕事が一番大事だと思いました。バリバリなサラリーウーマンになって職場で自分の能力を発揮し、価値を証明する思いが強かったです。仕事のため、家庭を無視することさえありました。その時、私は本当の幸せが何なのか、家庭は慎重に営むなければならないことが分かりませんでした。子供のように敏感で幼稚で、未熟世間知らず無謀なことを多くしてまって、嫉妬心と独占欲が強い以外に、不必要な自尊心と劣等感も抱いていました。実生活で数えきれないほどに壁にぶつかり、もがき続き、泣き続きました。今、私は幸せへのコードを見つけたわけではないですが、本心と信念を貫き、境界線を意識して、自分自身と他人への期待値を下げてから、少し楽になりました。
今後、私には育児にもっと精力を使うべきだと思います。子育ては仕事以上に難しいです。私には子供達に対して忍耐力がなくて、厳しい目線で見ってあげて信頼や尊敬さえ欠けていました。かつての私は、育児は負担だと思い、主人が残業ばかりで手伝ってくれないことに不満を抱いていました。主人と関係が私の気分を激しく影響したため、気分が良い時に、幸せや喜びを子供に与えてあげて、不機嫌な時に子供に当たり散らしばっかりしました。子どにとって一番重要なのは両親の“陪伴”(付き添う)らしいです。しかし、私の“陪伴”の質は低いです。今は、相変わらず主人を変えることができないけれど、子供達を“陪伴”して一緒に成長できることも幸せだと感じつづです。子供たちがまだ抵抗期と思春期を迎えていない今こそ、私にとっては比較的に快適な時期です。
日本に留学した経験があるお陰で、私は“就業難”の影響を受けずに、35歳を過ぎてから再就職ができました。現在の仕事が好きです。会社の待遇がよくて、勤務地の内装から管理に至るまで携わりにきましたし、同僚と顧客も付き合いやすいです。難によりも残業や休日出勤がなくて、私にとって現段階で最も適した理想的な仕事です。私は会社には感謝ています。より多い新規顧客や新しい事業分野の開拓に挑戦したいです。
時代の流れとともに、私たち80後は社会の大黒柱となりました。チャンスとチャレンジが共存する時代において、私は学ぶ続きて、自分らしく輝いていきたいです。若さがどんどん遠ざかっていきますが、自分の精神的、体力上に対処できる限界を認識しながら、経験を積み重ねて幸せな有意義な人生を過せることを願います。
※文章は高さんの記述のまま掲載しています.
10月10(木),11日(金)の2日間にわたり,水俣市にある水俣高校のアカデミックインターンシップで,出前授業とワークショップを開催してきました.普通科クラスや専門学科の生徒達が経験する就業体験型インターンシップとは異なり,アカデミックインターンシップは特進クラスの2年生を対象に,大学や企業の研究活動を体験してもらうことで,進学先を決める参考にしてたり大学における主体的学修の一端を経験したりすることを目的とした授業です.今年度は(a)理系,(b)文系,(c)医療系の3コースが設定された中で,(b)文系として招聘されました.名誉なことです.
溝上教授は2年前にも同校から出前授業を要請され,で同校を訪問し,「自動運転とシェアリングが融合した新しいモビリティサービスと社会や生活」について講義をしました.しかし,今回は1日半の長丁場です.そこで,水俣市地域公共交通計画のための技術アドバイザーをしていることもあり,関係する水俣市,UTモビリティサービス,中央コンサルタントを巻き込んで,「こうありたい将来のあなたと水俣市」と題して,
・ | 熊本市の交通混雑を緩和する方法から学ぶ水俣市の公共交通サービス(溝上) |
・ | 水俣MaaSプロジェクト ~笑顔あふれる元気なまちへ~(UTモビリティサービス) |
・ | 市民アンケートから見る水俣市の公共交通の現況と課題(中央コンサルタンツ) |
17人の生徒さんを3つのグループに分け,まずは「こうありたい将来のあなたと水俣市」を,次に「それを妨げている障害や環境」を,最後に「実現するために必要なことやもの」について意見を出し合ってもらい,それを模造紙に書き抜いてもらいました.生徒諸君は生き生きと意見を出し合ってくれました.
翌日は,朝9:00から「実現するために必要なことやもの」を地図上に書き込むと同時に,発表用のポスターと原稿づくりをしました.全員が教室の準備されている貸出用ノートPCを利用し,発表用原稿をメンバー全員で共有して作成していました.本学の学生はレポート作成にも資料閲覧もスマホが主要なIT機器であるに対して,高校教育へのITの浸透と生徒さんの通常利用には驚きました.
WSでの成果発表テーマは1)まちなかの活性化,2)地域情報発信,3)出産と子育て環境でした.いずれも水俣市が抱える大きな課題を抽出ており,市役所職員が市政に,UTモビリティサービスがMaaS事業に取り入れたい内容となりました.
WSは始めての経験だったけど非常に楽しかったし,地元水俣の抱える問題を考える良い機会になったというのが,生徒さんの感想でした.私としては,「経済学部にしようか迷っていたけど,経済学部でこんなことができるのを知って進路を決めました!」と言ってくれた女子生徒の感想は非常に嬉しかったです.呼んで頂ければ来年もいろいろ企画,工夫して,また来たいと思えた出前講義でした.
実は,1日目の夜は水俣で一度は訪問したかった「湯の鶴温泉」に泊まりました.宿は市役所の方が紹介してくれた,簡単な朝食だけがついた素泊まり旅館tojiyaです.廃業して荒廃した古い旅館を10年ほど前にリフォームしたもので,部屋にはテレビはおろか座布団やテーブルもありません.朝食もカウンターに置いてあるトーストを自分で焼いてバターとジャム,珈琲を館内なら何処ででも持って行って食するというスタイルの,まさに泊まるだけの宿でした.しかし内風呂も貸し切りの露天風呂も趣深く,泉質はアルカリ性単純泉で良いお湯でした.夕食は外の観光施設のレストランを予約してあったのですが,山の中にもかかわらず,以前は東京の一流レストランで腕を振るっていたシェフによるフレンチでした.これも含めて,良い2日間でした.
同じ2020年度に修士を修了した八戸龍馬君と学部4年を卒業した孫田佳奈さんが,晴れて結婚されました.おめでとう!! 研究室内のご成婚は今回で4組目です.嬉しい!!
6/21に帰宅中,県庁交差点の近くで黒縁のめがねをかけたどう見ても八戸君としか思えない青年がママチャリで坂を駆け下りてくるのが見えたのですが,彼は日本工営の東京本社所属で海外事業担当で今はネパールやフィリピンに言っているはず,たとえ帰国中としても熊本にいるはずはないが...?すぐにSMSをしたところ,「実は孫田さんと結婚することになりまして,今はその打合せなどで熊本に来ています.9/21に式と披露宴を挙げますので,先生には乾杯の挨拶をお願いしようと思っていました!」という脳天気な返事がありました.修了・卒業近くになって恋が芽生えたらしく,その後東京や海外と熊本の遠距離恋愛が続いて結婚に至ったそうです.在職中も私は全く知らなかった訳で,2人の指導教員としては失格です.
会場は熊本駅横のアミュプラザ熊本の最上階のフォレストテラス.かつての研究室からは同級生の鵜狩祥平君,前田(旧姓)莉花さん,1年後輩の古賀逸人君と宮﨑一貴君が列席していました.修了・卒業から3年半になりますが,その間は遠距離,また今後も龍馬君は東京,佳奈さんは熊本で仕事を続けるということで,一緒に生活できるようになるまではしばらく時間がかかりそうです.いろいろな形の恋愛や結婚があるのだなあと思いますが,結婚式と披露宴を挙げたのはご両親にとっても安心と嬉しさがあったことでしょう.
さて,次は誰かな!?
清水建設スマートシティ推進室の次世代都市モデル開発部は,交通・防災・観光をテーマに,東京豊洲でのまちづくりに取り組むと共に,呉バスタや苫小牧スマートシティの他,地方駅前再生のプロジェクトにも取組んでおられます.その活動の一環として,サクラマチクマモトと桜町バスターミナルの視察のために,2023年10月19日に熊本を苫小牧市関係者3名,清水建設から6名,その他3名が熊本を訪問されました.その後,共同経営推進室と私から熊本の交通まちづくりについての講演後の意見交換を行いました.
2024年6月27日には苫小牧市に招聘されて,ランドホテルニュー王子グランドホールにて,苫小牧市スマートシティ官民連携協議会と苫小牧市主催の苫小牧市都市再生講演会で,「熊本市の先進的な地域公共交通戦略 ~公共交通基本条例に基づく路線網再編計画から共同経営推進室の活動まで~」と題した講演を行いました.そのような深い縁もあり,今回は清水建設内のスマートシティ推進室での勉強会で同様の講演を依頼されました.
講演会会場となった清水建設が建設したラビスタ東京ベイ2階コンベンションルームには社内の関係部署から会場に20名ほど,リモートでの参加も30名ほどあり,かなり盛大なものになりました.私の話はいつもの熊本市の先進的な公共交通戦略についてでしたが,初めて聞く方にとっては非常に新鮮,かつ有益であったようで,参加者の中で最も職位の高いプロポーザル・ソリューション推進室の國嶋開発計画部長には,私の講演内容を以下のようにまとめていただきました.自分でも気付かなかったこともあり,私としても自分の講演内容を再確認する良い機会になりました.有り難うございました.
2024.09.11溝上先生講演会を拝聴して 2024.09.24 國嶋
先日の講演「熊本市の先進的な地域公共交通戦略~公共交通基本条例に基づく路線網再編計画から共同経営推進室の活動まで~」を拝聴し、溝上先生はじめ関係者の尽力熱量による成功モデル実現には大変感銘を受けました。特に以下の5点と、それらが一体連携・連動することで、喫緊の課題解決から将来を見据えた中長期戦略に至る一連の流れをよび大きな成果を生む、これからの社会課題解決型まちづくりの要点があると共感しました。
夏休みを取って,9月4日から6日の2泊3日で,蓼科,黒部,諏訪旅行に行ってきました.これは,一昨年から始めた年に1回の義姉夫婦とのシニア旅行です.一昨年は昼神温泉,昨年は熊野古道でしたが,今年は土木出身なのに,映画やプロジェクトXでしか見たことのない黒部ダムを自分の眼で見て身体全身で感じたいと思い,私から提案したものです.
名古屋出身の妻も義兄もかつて行ったことがあるようでしたが,妻は40年ほど,義兄は50年ほど前のことなのでほとんど記憶に無いようでした.ましてや,義姉はよく考えると行ったことがなかったようで,この提案は大いに歓迎?されました.
初日は大規模改修工事で大渋滞している下り線を横目に,名古屋から中央道をスイスイと美ヶ原経由で蓼科に到着.宿はさすが日本一の大企業の保養所!メゾネットタイプの部屋と豪華なブッフェ,それに八ヶ岳連峰を端から端まで見渡せる露天風呂は素晴らしい!
翌日は私が企画した扇沢から黒部ダム,大観峰を経由し立山室堂までの往復観光.朝9:00に出発して約2時間で扇沢に到着.そこから11:30発の電気バスで憧れの黒部ダムへ.端から端まで徒歩で15分ほどかかる天端から覗き込むと,恐怖を覚えると同時に感慨深くも思える黒四ダムの壮大さと力強さは現地でないと実感できません.そこからは黒部ケーブルカーで黒部平へ5分,黒部平から立山ロープーウェイで大観峰へ7分,そして大観峰からは立山トンネルトロリーバスで10分で目的地の立山室堂に到着.そこは,綿毛になったチングルマなどの高山植物で覆われた室堂平や北アルプスで最も美しいといわれるみくりが池,遠方には地獄谷が私たちを迎えてくれました.
←黒部ダム付近の交通手段とアルペンルート時刻表PDF |
できれば高原バスと立山ケーブルカーで立山駅に降りる立山黒部アルペンルート完走をしたかったのですが,残念ながら,帰りは行きの逆コースで扇沢駅に降りました.往復で12,300円とかなり高額な交通費ですが,約4万円のスイスユングフラウヨッホ鉄道などに比べるとコストパフォーマンスは非常に良いツアーです.
これで土木出身者としてやり残した課題の一つは解決しました.翌日は7年ごとに開催される式年造営御柱大祭で有名な諏訪大社を訪問,諏訪SAから最近はなかなか全面氷結が見られなくなったという諏訪湖を見,名古屋空港から熊本に帰宅しました.今年もとても楽しいシニア旅行となりました.
8月22日の朝、ふと母と子供を連れて旅行に行こうの思いが出ってきました。最初に頭に浮かたのは内蒙古(内モンゴル)自治区でした。内蒙古旅行を行くのに最適な時期は7月と8月です。今頃、秋が始まったとはいえ、暑い日が続いています。考えれば考えるほど、雄大な草原の素晴らしい風景と遊牧民族の文化にますます魅了されました。
母と子供達が安全安心に旅行を楽しむことが出来るように、私が大手旅行会社‐携程(トリップドットコム)に着目しました。店員の説明により、内蒙古の主な観光路線が3つあります。北京→承徳避暑山荘→壩上草原→烏蘭布統の観光路線は最も安いです。呼倫貝尓(フルンボイル)→海拉尓→額尓古納→満洲里の線路が最も美しい草原景色とロシア風の街が堪能できます。私が草原、砂漠と内蒙古文化を体験できる呼和浩特(フフホト)→希拉穆仁(シラムレン)→鄂尓多斯(オルドス)→響沙湾→成吉思汗陵(チンギスカン)の線路を選びました。
私が購入した団体ツアーは5日間4泊でした。名は“奢游内蒙古”。私が惹かれたのは、宿泊施設が豪華で、5つ星ホテルに3泊、豪華蒙古包(遊牧テント式住居モンゴルパオ)を1泊を泊まれることでした。15100元(成人4399元、子供3299元)の旅行費用が私にとって大金でした。母と子供が今回のサプライズ旅行を楽しみにしていました。私も旅行に大きな期待を寄せていました。
8月24日(土)の朝6時、自宅から上海浦東空港までの迎えサービスがありました。鄂尓多斯空港に到着後、地元のガイドが既に出口にて哈达(ハダ)を持ってお待ちしていました。同じツアーの方が合計28名で、定年退職のご夫婦以外は、子供連れの家庭ばっかりでした。全員合流後、専用車が鄂尓多斯市内の宿泊ホテルまでお送ってくれました。その後は自由活動でした。
8月25日(2日目)は長男の10歳の誕生日でした。子供達の朝食は費用に含まれないので、カウンターで費用を払って子供達もバイキングを楽しみました。本日、決まった旅程は響沙湾でした。いきなり砂漠にあるAAAAA景勝地である響沙湾に行くことを聞いて、子供達は大喜びでした。心配したのは、前夜から大雨が降り続けて、遊楽項目に影響を受けることでした。ガイドが、砂漠が滅多に雨が降らないと慰めてくれて、用意していた地元の牛肉干(ビーフジャーキー)、乳製品などを全員に配りました。地元の土産品がやっはり美味しかったです。感激に食べている内に、ツアー追加料金の徴収が始めました。馬、ラクダ乗り、アトラクションといった娯楽コースは1399元、炸馬宴、氷煮羊、駱駝宴を味わう場合に1680元のコースがあります。
予想外の追加費用について、契約当初の観光路線に含まれる内容はどうなるかとガイドに尋ねてみました。含まれる内容は僅か、コースを購入しなければ、これからの旅程が空っぽになってしまうの答えが得ました。私が費用を節約するために、コースの中から数個の項目をピックアップという選択肢も考えましたが、コースは全体としてのみ販売できます。どんな項目にも強気の値段設定と分かっていたが、強制されたわけではないが、4人分の6720元を払わなければなりませんでした。私がぐずぐず決まらない時、皆が1680元のコースを選びました。全員が支払ってから、ガイドは、“追加支出が個人意願である”の書証を取り出して、全員の署名を求めました。車両は砂漠に向かって1時間半ほど走行しました。道中、天気は暗くて、良い景色は見当たりませんでしたが、ガイドが観光地の歴史、文化、自然を冷静に面白おかしく解説したおかげで、バスの走行時間が短く感じました。
予測通りに、響沙湾の上空にも雨が降り続きました。雨と強風の原因でロープウェーが閉鎖されて、娯楽施設が使えない状況になってしまいました。これで、旅程を変えざる得なくて、車は方向を変えて、敕勒川に向かって1時間ほど走行しました。幸い運転手はベテラン、専用車も新しくて快適でした。
敕勒川と言えば、小学校の教科書に《敕勒歌》の詩があります。私が“敕勒川、陰山下。天似穹廬、籠蓋四野。天蒼蒼、野茫茫。風吹草低見牛羊。(勅勒川、陰山の下。天は穹盧に似て、四野を籠蓋す。天は蒼蒼、野は茫茫、風が草を吹き牛羊が見える)”の文書を暗証できます。ガイドは、今の敕勒川も詩の中の敕勒川ではない、あまりにも高い期待を抱かかないよと強調しました。バスから降りった時、雨が止みました。どこが敕勒川がどこが陰山なのかわかりませんが、4人がゴミが散らばっていた荒涼の草場に記念写真を撮りました。
敕勒川から遠くないところに成吉思汗広場(チンギスカン広場)がありました。 成吉思汗広場はここだけに限られなくて他所もありますが、最終日に行く予定の成吉思汗陵(チンギスカン霊廟)は1つだけだと聞きました。成吉思汗は蒙古帝国を築き上げました。馬の年生まれの長男は、10歳の誕生日の日に、偉大な英雄成吉思汗を瞻仰できて、良かったなと思います。何と言っても、子供達が正々堂々な人間に成長してほしいです。
続いての内蒙古博物館の観覧では、子供たちが以外に喜びでした。彼らは50元でレンタルしたAIメガネに魅了されて、恐竜の化石が展示されたホールだけに1時間以上観覧しました。ビデオの内容が少し幼稚でしたが、斬新な体験ですし、見る価値がありました。博物館に歴史的遺物、民族文化、民俗文化に関する展示ホールがありますが、集合時間に来たので見に行きませんでした。
旅行プランに夕食はついてませんので、夜、地元の定番涮羊肉(ラムしゃぶ)の店に行って、長男の誕生日を祝いました。外注でモンゴルのバオの形をしたミニケーキを誕生日ケーキとしても買いました。内蒙古の物価が以外に高いですが、羊肉は全然臭みがなくてとても美味しかったです。
夕食後、私たちは周りを回らずにホテルに戻りました。今夜入居したのは喜来登大酒店(Sheraton Grande Hotel)。初めての国際5つ星ホテルで泊まり、母も子供も大満足。皆でプールに泳いたりお風呂に入ったり幸せな夜を過ごしました。契約の時、旅行会社が3泊とも喜来登大酒店と約束くれましたが、実際に1泊しか泊まりませんでした。ところが、22階から眺めた夜景が最高でした。呼和浩特、鄂尔多斯は三四線都市に属しますが、大都会のように高層ビルが立ち並び、地元に人々がどれほど裕福かなと思わずに思います。
裕福といえば、内蒙古の大金持ちは半端ではないことをガイドから聞きました。内蒙古の産業と言えば、“羊煤土气”( 四字熟語“揚眉吐気と同じ発音)があります。つまり、カシミヤ、石炭、希土類、天然ガスの量が極めて豊富です。鄂尓多斯の一人当たりのGDPは香港を上回っていて、昔、現金を持って、飛行機で北京まで行ってベンツ、レクサスなど高級車を買って、乗って帰るのが普通らしいでした。
ガイドの祖籍は山西省です。山西人が“走西口”で内蒙古へ移居して、草原を開墾したり商売を行ったり時期がありました。昔、面積が広大な内蒙古にとって、外の世界から情報は閉鎖的でした。情報格差の優勢に頼り、内蒙古と商売した山西人が大もうけたらしいです。内蒙古におけるミルクティーの歴史は古いです。定番の原料は磚茶、ミルクと塩です。内蒙古では磚茶を生産できなくて、山西人が磚茶の商売をし、1個の磚茶がなんと10個の羊の皮にも交換できました。お金を稼ぐのはこんなに簡単なのか私が羨ましく思いましたが、冷静に考えると“走西口”も“闯関東”もやむを得ない故郷を離れて、生と死の試練を経験はずだと思います。最も美しい景色は道中にあるとよく言います。景色を眺めて、ガイドの解説を聞いて知識を増やしたことに嬉しく思います。
3日目の希拉穆草原の旅程が最も充実でした。私達行ったのは立派な私家牧場でした。遊牧民のライフスタイルは遊牧から定住へと変わり、政府が観光業の発展を支持し、様々な投資や奨励をしているようです。牧民が最初紹介くれたのは草原にいる五種類の家畜(馬、牛、駱駝、山羊、綿羊)でした。蒙古馬は、蒙古人にとって特別な存在です。背が低いですが、持久力が強い、成吉思汗が蒙古馬に乗り、帝国の大業を成し遂げしたと聞きました。軍事的の用途であろう遊牧生活のためであろう、蒙古馬の精神が変りません。草原が私有化されてから、広々とした草原が“囲欄”で分割された。蒙古馬の走る空間も少なくなったらしいです。私達が“囲欄”された空間にモンゴル伝統競馬を鑑賞しました。
青い空の下の乗馬体験は良かったです。移動中の馬は突然走ったり、隣の馬に蹴ったりして、ドキドキの瞬間がありましたが、一人が一匹の馬に乗れて爽快でした。その後、皆が一緒に遊牧民家庭へ訪問行きました。牧民との交流がなかったですが、オーナーがおいしいミルクティーとミルク製品ご用意してくれて、母と私が蒙古袍(モンゴル服装)も試着しました。子供達が青い空と広大な草原を背景にした遊園地のことを気に入りました。追加費用が払ったので、射撃、大砲、吊り橋、滑り台など簡易な娯楽施設を思う存分楽しみました。
午前中は充実でした。いつの間にかお昼時間になっていました。昼食は蒙古包(モンゴルバオ)で行います。バスが蒙古包に着く時、草原歓迎式“下馬酒”の一環がありました。歓迎者が無表情にお酒を渡す動きをやっていましたが、母と私が真面目に体験しました。草原の食事が極めて簡単のことを知っていたガイドが町の飲食店でソーセージとローストチキンを買っておきました。蒙古包用意した食事はご飯と野菜だけでした。スタッフは笑顔や熱意が持たなくて、蒙古人の情熱奔放のイメージと違いました。
午後のジープ体験に、長い行列を並びました。ガイド達は、各自担当した顧客を早くジープに乗せるため、窓口の従業員と交渉したり、顧客の代わりに行列を並んだり、喧嘩までしたのもありました。大草原奥の湿地帯を巡る宣伝は大げさだと思いました。尋ねる時期が少し遅れたし、草原の草が黄色く硬くなり始めて、草は密集していませんでした。往復三四十分間の車程に、4人乗りで1920元の費用は高すぎると思います。車が汚くてボロボロしていて、ドライバーの運転スビートが急激でした。“車に酔うから、少しゆっくりに運転ほしい”と相談したら、ドライバーが“車に降ろして別の車に乗って”と真面目に言ってくれました。敖包(アオバオ)を見に行く途中、私達が廃棄されたジープ車の上に立って美しい写真を撮りました
夜7時頃、“詐馬宴”が開始ました。内蒙古大草原の贅沢な宮廷宴会として、会場は素晴らしかったです。参加者が蒙古の貴族に変身して蒙古袍に着替えて、伝統楽器“馬頭琴”の演奏と内蒙古歌舞ショウを鑑賞しながら、内蒙古の赤食(肉食)と白食(乳製品)など美食を楽みました。詐馬宴は蒙古人の満漢全席(宮廷盛宴)と言います。元の時代の本物の宴会はどうかなわかりませんが、内蒙古文化体験の一環として参加する価値があると思います。
一人当たりに380元の詐馬宴に対して、その後の篝火晩会(モンゴル歌舞のキャンプファイヤー)の雰囲気がより盛り上がって、面白かったです。観光客の多くがお花火を打ち上げました。皆がキャンプファイヤーを囲まれて、手をつながって一緒に踊って、母が笑顔を絶えませんでした。子供達も楽しそうに花火を遊んで、内蒙古に来て良かったなと思いました。“天下没有不散的宴席”(この世に終わらない宴席はない)、楽しい時間が終わり、観光客が各自の蒙古包へ戻りました。
蒙古包の初体験でしたので、子供達が興味津々でした。観光客が泊まった蒙古包は遊牧民が使用している伝統的な移動式住居ではなく、固定されて長期生活できるテントの形の簡易旅館のようなものでした。大草原の夜は静かし涼しかったです。私は子供たちはぐっすり眠りました。内蒙古に来て、毎晩場所を変えましたので、母は一晩寝なかったようでした。
朝5時半頃、母と地平線の方向に向かって歩いて、大草原の日の出を眺めました。太陽黄金の光が草原に降り注ぎ、大地が瞬間輝いていました。毎日日の出がありますが、前回わざわざ日の出を見たのは4年前に青海省へ旅行の時でした。
朝食の集合時間は6時半でした。蒙古人の家で本物の蒙古朝食を招待される宣伝を聞いて楽しみにしていましたが、実際に、蒙古人の家に行ってなくて、普通の肉夹馍(中国式ハンバーグ)が配られました。旅行会社一方の変動が多くて苦笑いしてしまうが、一日間砂漠で思う存分遊べることは何によりだと思いました。
午前中、今回のツアーで最も残念のことが発生しました。専用車が一時間ほど運転して、一箇所の蒙古包の前に止まりました。ガイドが蒙古包に住んでいる女性を紹介してから、女性が私達を蒙古包に迎えました。彼女が親切にミルクティーをご馳走くれて、蒙古人の生活についても説明してから、自分の家庭状況を説明し始めました。少しづつ、彼女の話題が手作りシルバー製ジュエリー、狼の歯、草薬などに移り変わり、彼女は販売員でした。旅行会社が勝手に旅程を変えて、販売点を追加することに対して、私が不満でした。母が睡眠不足で頭が痛いし、子供達がつまらなさそうにバスに戻りたい一心でした。同行者はまだ買い物の最中で、全員が揃える前にここを離れることはないと分かっていたが、ガイドに文句を言いました。ガイドが優しい人です。全部旅行会社が決めたことで、彼の立場が分かります。買い物しない人たちが続々と販売点から出て、母と退職の夫婦と会話をしました。ご夫婦は年に数回旅行会社のツアーを利用して中国国内外に旅行をしているらしいです。経験豊富のお二人が、焦っても何にも変えないと慰めて、ツアー旅行に関する逸話を沢山話してくれました。都市部と農村の人は大きなギャップがあり、父は同じく定年退職ですが、旅行はともかく、日常生活すら倹約していて、退職前より苦労して、豚と羊を飼ったり、アルバイトしたりしています。販売点から離れる時、既に昼食の時間になっていました。同行者の多くが三千元前後の銀器と1580元の狼の歯を買いました。
昼食後、元々旅程表に決また販売点‐蒙亮に行きました。政府が支持したブランドなので、どうしても避けないらしいです。砂漠の時間を少し長くさせるため、全員が意見を統一にし、蒙亮のガイドをフォローして、素早く広々とした一階から四階の展示ブースを観覧してからバスに戻りました。バスが響沙湾に向かって走った時、皆がガイドからミルク製品、牛肉干、馬奶酒、冬虫夏草酒などを購入しました。もしかしたら、お土産が私たちにより先に家に着くかもしれません。
午後4時半頃に、私たちがつい響沙湾に着きました。ロープウエーの乗り心地が良くて、砂漠の中心に向かう砂漠モービル車もスムーズに乗りました。広大な砂漠にテーマパークがあり、時間に余裕があるなら様々なアトラクションが楽しみます。早速に、ツアーの皆が一緒にラクダ騎乗を体験しました。ラクダ達はおとなしくて、行列を並んでゆっくり歩いてくれました。その後は自由活動の時間でした。子供達はエキサイティングな砂滑り体験をしたいです。彼らの要望に応じて、私が半額で2台の滑り道具を回収しました。満足した二人が滑り道具に座り、激しい砂丘に向かって嬉しそうに滑りました。
サンドバギー体験してから、母と四輪駆動車の行列を並びました。砂漠での暴走は刺激的でとても面白かったです。行列を並ぶ価値があると思います。私にって、最も有意義のことは母と一緒に“駝峰過山車”(こぶジェットコースター)へ挑戦したことでした。私は高空、急スビート、絶叫が苦手ですが、勇敢の母と一緒にいると少し強くなりました。6時半前後、十数人が高台にあるラクダのこぶに上り、その日の最後のクレイジータイムを楽しみました。最初、揺されながら高空まで投げ出されたときの恐怖感はもちろん強烈でしたが、夕日が砂漠に沈む壮大な風景を見ると、叫び声出すことすら恥ずかしくなってしまいました。母と高空で絶景な夕日を眺めることは私にとって素晴らしい体験でした。砂漠の景色が本当に壮観でした。別の施設も遊んでみたかったですが、集合時間が来ましたので、仕方がなくて砂漠から離れました。
今夜は内蒙古で泊まった最後の一泊でした。1日目に泊まったスタンダード房型に悪匂いがしたので、旅行会社がエクセレント房型をグレードアップくれました。約束くれた喜来登大酒ではありませんが、今回の部屋も広く、室内の施設が完備しでいて、トイレットペーパーの品質さえスタンダード房型により良くなりました。22階から眺めた夜景は相変わらず綺麗でした。あと一日で内蒙古を離れることを考えると、寂しくなってしまいました。
最終日のスポットは成吉思汗陵(チンギスカン霊廟)一箇所だけでした。ここは、成吉思汗及びご家族を祀る霊廟で、成吉思汗の偉大な業績、関連歴史など紹介する博物館でもあります。成吉思汗が埋葬された墓所の位置は世界史上でも謎だと聞きました。成吉思汗は蒙古帝国の創始者であり、内蒙古の方が成吉思汗に対する尊敬は高く、家に彼の肖像画を飾るのは普通らしいです。遠くから若いカップルが赤ちゃんを抱いて礼拝を来ました。ここには成吉思汗の遺骸がないですが、人々が偉人を礼拝、祈り、敬意を払い、神聖な霊廟です。霊廟の守護社は達尓扈特(ダルハット)人です。達尓扈特家の子孫は800年近く代々受け継がれ、この霊廟を守護してきたらしいです。
成吉思汗陵の観光を済んでから、全員がツアー最後の食事を一緒に食べました。旅程が終わった方が空港に行きました。残りのメンバーのフライトは深夜11時頃に遅延しましたので、時間がたっぷりあっりました。
ガイドが熱心に私達を内蒙古仏教文化博物館に送りました。ここは、モンゴルとチベット融和様式の建物が沢山あり、美しい神聖なところでしたが、退屈だと思う人がいったため、私達は康巴什(カンバシ)新区に送られました。康巴什は砂漠から立ち上がた新都市であり、蒙古語で“卓越の先生”という意味があります。康巴什の都市緑化が素晴らしいです。中心市街地に、鄂尓多斯の市政府のほかに、立派な大劇場、図書館、美術館なども相次いでいます。母は、昆山がとても綺麗ですが、ここは昆山よりも良いだなと感嘆しました。康巴什の街は確かに綺麗ですが、人が少ないと感じました。
康巴什に来て、私が一番やりたいことは、康巴什の夜景を鑑賞することです。特に、世界最高の音楽噴泉と誇る康巴什音楽噴泉を楽しみたいです。午後8時30分、音楽噴泉が始まりました。選曲は非常に迫力があり、色とりどりの明るい光が音楽のリズムに乗って、絶えずに飛んで切り替えて、視覚効果が本当に良かったです。母はじっと噴泉を見ながら録画をしました。時間の原因で2曲だけ観ましたが、大満足でした。康巴什音楽噴泉が今回の旅行に円満な幕をしてくれました。
深夜2時頃、私達は上海浦東空港に到着しました。ドライバーが既に空港で待ってくれました。朝4時半、自宅に戻りました。スーツケースを片付けてから、私は再び上海へ行って、西安へ出張に行きました。
内蒙古にいった時、私が常に旅行費用のことを考えてしまい、頑固に旅行の質を追求しました。想像と現実とのギャップに対して、つい不満と不愉快の気持ちが出ました。でも、写真集を見ていくと、母も子供達が笑顔ばっかりしました。一部の旅程内容は削除または変更されたことに対して、旅行会社が2000元を補償くれました。内蒙古で5日間しか滞在しなかったですが、身をもって一生懸命感じました。複雑な文化、長距離の移動の中で、安全安心に遊べることは何によりだと思います。次回は、両親と一緒にツアーでチベットへ行けたらいいなと思います。
※文章は高さんの記述のまま掲載しています.
8/24(土),25(日)に福井市のフェニックスホールで開催された第19回JCOMM会議に参加しました.今年3月に金沢から敦賀まで延伸した北陸新幹線を使う(それがJCOMM会議が福井開催になった理由である)ことを前提に,熊本から新幹線で大阪まで行き,その後敦賀までJR西特急サンダーバード,そこから北陸新幹線かな?など福井までどうやって行けば良いのか思案しましたが,結局は大阪までは飛行機を使うことにしました.それでも額面は3時間半,実質は乗換などを含めて5時間弱かかり,最も行きにくい県庁所在地の一つでした.
北陸なので熊本よりは少しは涼しいかと思いきや,何の何の,兎に角暑い(熱い)暑い(熱い)!23日午後に訪問した永平寺は暑いこの夏で最も暑く感じた地点でした.インバウンド客に人気の永平寺ですが,こんな所で座禅を組んで瞑想にふけるのは,今は無理です.この日の気温は福井市が38.1度で日本で2番目に暑い町でした.
開催期間中は日本津々浦々の自治体や研究者,事業者によるMM関連の努力や工夫が発表され,非常に有意義な会議でした.特に,地方ローカル線の在り方については今後,九州でも早急に議論する必要があると感じました.しかし,若い世代が活躍しているのを見て,私もこのような活動や学会への参加からもそろそろ引退かな?という思いにもなりました.
会議終了翌日は帰りの新幹線まで,レンタカーを借りて一乗谷朝倉氏遺跡と新装なった恐竜博物館を訪問しました.一乗谷は当時は北ノ京とも呼ばれるほど栄えた都市でしたが,信長に徹底的に破壊され,遺跡しか残っていません.しかし,大河でも見た強者どもの夢の跡が想像できました.当時の石だけの遺構ですので,陰などがなく,暑い熱い!
予約が必要なのをレンタカーのスタッフから聞いて,慌てて予約した恐竜博物館は,それはそれは凄い数の親子連れ.やっぱり子ども達は恐竜が大好きなようで,実物大の骨格標本は元より,化石やそのクリーニング作業にもキャーキャー言って興奮していました.本来なら1日居ても回り切れそうにない展示でしたが,1時間ほどで切り上げてレンタカーショップに帰りました.
途中,自動運転実証実験の模様を視察するために,再度,永平寺に立ち寄ったのですが,土・日しか運行していないようだったので,残念ながら見ることができませんでした.その代わりに,永平寺の精進料理にご用達の胡麻豆店でお土産を買うことができたのは良かった.
家に帰り着いたのは26日午後10時過ぎでした.暑さと学会への積極的参加?と重要イベントの視察?で,ヘトヘトになった3泊4日に出張でした.来年は札幌,どうしようかな!?
2023年度にスタートした熊本学園大学高度学術研究プロジェクト事業に,第1号として採択された「地域モビリティ共創研究(研究代表者:溝上章志(経済学部教授)」の2024年度第1回研究会が下記のように公開で開催されました.
■日時: | 2024 年8 月22 日(木)15:00~17:15 | |||
■場所: | 熊本学園大学14 号館5 階第5/6 会議室 | |||
■主催: | 熊本学園大学高度学術研究支援センター | |||
■参加費: | 無 料 | |||
■主題: | ライドシェアは地域モビリティの共創に貢献できるか? | |||
■プログラム: | 15:00~ | 開会の挨拶 小葉 武史(経済学部長・PJ メンバー) | ||
15:05~ | 話題提供 | |||
・話題1 | 所有とシェアの選択モデル(完全版) 小葉 武史(経済学部 教授) | |||
・話題2 | ライドシェアドライバーの労働供給モデルの検討 米田 耕士(経済学部 准教授) | |||
・話題3 | ライドシェアとは何か?~利便性や経済効果だけでは語れないライドシェア導入の影響~」 溝上 章志(経済学部 教授) | |||
・話題4 | 高齢者の免許返納・居住地選択行動モデルの検討 宅間 文夫(経済学部 教授) | |||
16:30~ | 特別講演 | AI デマンド「のるーと上熊本」 データ連携基盤活用と共創による実装 今村 英敏 氏 (株式会社TaKuRoo 代表取締役) | ||
17:10~ | 閉会の挨拶 溝上 章志(PJ リーダー) |
その後は近くに焼き鳥屋で懇親会を行い盛り上がりました.
地域モビリティサービスの中でも,今年度はライドシェアに絞って,1)シェアモビリティへの需要構造,2)ドライバーの労働供給構造を経済理論でモデル化し, 3)両者の選択モデルを推定し,それらを組み込んだマルチエージェント型交通シミュレーションモデルによって時/空間均衡分析を行うことにしています.1)と2)の理論モデルはほぼできあがっていますので,今後は調査を行って理論の論理性を検証し,モデルの推定を行います.その後,両者を MAUMS(Multi-Agent based Mobility Simulator)に組み込んだシミュレーションを行う予定であり,成果が期待されます.
研究会に対して学内に広く参加を促し,かつリモート会議も設定しました.案内には,「今回は、新経済連盟や菅元総理や河野DX大臣などがその導入を進めているライドシェアについて、これまでの研究成果を報告し、その後「ライドシェアは地域モビリティの共創に貢献できるか?」という論題で,参加者の皆様も交えて議論したいと思っています.
ライドシェアは福祉有償運送の一種でもあり,大都市や観光地ではインバウンドの輸送を導入目的の一つにしています。時間的地域的に不足しているタクシーに対応した便利な輸送サービスと捉えるのではなく、地域の公共交通サービス全体での位置づけや役割を、経済的にも法的にも技術的にも議論していく必要があります.
これらに関連する専門家が本学には大勢おられます。是非,本勉強会に参加していただき、身近でかつ専門的な論題に対して活発な議論ができればと思っています。
「多くの皆様の参加をお待ちしています.」
としたのですが,学内からの参加者は経済学部からのわずか1人でした.文系における共同研究や学際研究の難しさを改めて考えさせられました.
8月8日(木),今日も熊本は酷暑ですが,朝からこの夏2回目のオープンキャンパスが開催され,溝上教授が「熊本の交通混雑を緩和するうまい方法~公共政策の実践例~」というタイトルで「公表政策」の模擬授業を行いました.午前と午後の2回の模擬授業には延べ100人ほどの聴講がありました.親御さんも一緒の聴講生がいたのには驚きましたが,その親御さんから授業後に質問があったのにも驚きました.
学園大のオープンキャンパスは予め各高校へ参加の募集をかけ,応募した生徒や父兄が訪れるという,合理的と言えば合理的ですが,オープンかと言えばそうとは言えない,一風変わった行事です.熊本駅からは往路3本,復路2本の無料送迎バスが,九州各県・熊本県内各地域より無料バスツアー(要予約)が用意されています.また,予約参加者にはランチを無料で提供するなど,非常に手厚い『お・も・て・な・し』です.
学科紹介と入試説明会,および模擬授業から成り,ほぼ100%が入試課による企画もので,学科や研究室の展示などは全くありませんし,参加するのは上記の3つの企画に関係する教員だけで,学生は全く関与しないのは,ちょっと拍子抜けです.教員は勿論,卒研生にも手伝ってもらって,訪問してきた高校生にもっと積極的に高校に働きかけて,その1人でも受験してみようかなと思ってもらうことが必要と思います.文系大学はこんなものなのでしょうね.隣の学科に興味を持った高校生を自分の学科の展示コーナーに客引きした前職でのオープンキャンパスが懐かしいです.
私の模擬授業を聞いて,本学科を受験する高校生が1人でも増えることを期待したいと思います.