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2025.11.01
満喫しました,2度目のしまなみ海道!

 10/31から11/2の2泊3日で,2度目のしまなみ海道ライドをしてきました.しまなみ海道と言えば世界7大サイクリングロードの一つであり,2023年4月にロードサイクリングを始めたときのコースも,しまなみ海道でした.但し,その時はジャイアントショップからのレンタルバイクでした.その後購入した

自分の自転車でもう一度,しまなみ海道を走りたいという気持ちが再挑戦の動機です.今回は松山在住の次男と一緒に走りました.妻と次男のお嫁さんは車でサポート.着替えなどは宿まで運んでもらえたため,楽なライドとなりました.

 10/31(金)に妻と輪行バックに入れたバイクと共に,最寄のJR駅までタクシー,そこから豊肥本線で熊本駅へ.熊本駅からは大型荷物スペース付きの指定席を予約しておいた九州新幹線さくらで福山まで行き,そこから山陽本線で尾道まで戻るという経路です.到着後は皆で尾道観光.これまでに2回,来たことがあるのですが,その際は大宝山の中腹の細くて急な坂道街路とその沿道にあるカフェ止まり.今回は千光寺,そして頂上の千光寺頂上展望台PEAKまで登って,尾道水道や向島,そしてはるか多々羅大橋までを眺望しました.その日は海岸沿いのホテルに一泊し.近くの居酒屋で瀬戸内海の魚と酒を堪能しました.

 翌11/1(土)は9:00に出発予定で,前日から自転車は組み立てて準備万端,即スタートのつもりでいたのですが,ホテルの朝食が素晴らしく美味しくてゆったりしてしまったり,私がリーダーでライドするのは初めてで手順通り進まなかったりなどもあって,結局は向島への渡船は9:30ころになりました.向島に降り立ち,スタートラインに着いたときには2年前のあのワクワク感と緊張感と同じ気持ちになりました.ライド以外のこの日の目的は,前回のライドでは通過した平山郁夫美術館です.シルクロードをモチーフとした日本画は吸い込まれるようで素晴らしかった.2年間の間に価格,質とも悪化したのか,近くで食べた昼食の穴子丼は名物と言いながら今イチで,コスパも良くなかったのは残念.勿論,多々羅大橋を背景にサイクリストの聖地でもパチリ.

 当日は3連休の初日とあって,今治までの途中の宿がなかなか見つからなかったのですが,次男が頑張って探して空いていたのが大三島の大三島インター近くにある農家民宿とと・かか.トイレ・シャワーだけでなく,自炊や洗濯,バーベキューも可能で,本業の農作業だけでなく,陶芸や書道も1級品の元気な「とと」と静かな「かか」が切り盛りしている1棟貸しの民宿でした.余裕があればもう1日,畑で取れた野菜でバーベキューや農作業のお手伝いをして過ごしたくなる農家民宿でした.素泊まりだったので,近くの食堂を探したのですが,連休一日目にも関わらず,休業の店が多く,ようやく見つけた海鮮居酒屋は有名人の色紙が壁一杯に貼られているような,その地区では有名な居酒屋だそうですが,品揃え・値段・味,三拍子そろってちょっと酷かった.ただし,そこにたどり着くまでに立ち寄った大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は山の神であると同時に,大海原の神,渡航の神とされており,国指定重要文化財の本殿・拝殿,樹齢2600年(ホンマかいな?)の御神木の楠,全国の国宝・国重要文化財の指定を受けた武具類の約8割を所有する宝物館は,瀬戸内海の小さな島にある神社とは思えない立派で荘厳な神社でした.勿論,御朱印を頂いてきました.

 最終日の11/2は予定通り,9:00には出発.残りはしまなみ海道最大の区間である来島海峡大橋を含む40Km.次男の自転車は学生時代から使っているボロボロのクロスバイクで,彼は脚力では私に数段勝るので,坂道では私は置いてきぼりになるのですが,車体が重いのと自転車の性能のためか,車輪の回転に大きな抵抗があるようで,最後の長い長い来島海峡大橋の上での向かい風には苦労したようで,彼を置いてきぼりにして快走できたのは快感でした.来島海峡大橋を渡る直前にある亀老山展望台から見た瀬戸内海栗島海峡に浮かぶ島々と来島海峡大橋の眺望は,山の南阿蘇から臨む阿蘇五岳に並んで,海の絶景でした.

 

 今治に着いてから,街中華で今治のB級グルメで名前そのままの焼豚玉子飯を頂き,その後しまなみ温泉喜助の湯で汗を流し,自転車を畳んで輪行バックに入れてサポカーに積み込み,帰りは次男にしまなみ海道を車で福山まで送ってもらいました.福山駅では1時間半ほどの待ち時間があったのですが,夕暮れ時にライトアップされて白く浮き上がった福山城とバラのゲートのコントラストはまるで童話の世界のように美しかったです.
 さすがに歳のせいでしょうか,1泊2日ののんびりスケジュール,全行程70kmで平均時速18km/h程度だったにもかかわらず,さすがに疲れました.特に疲れて大変だったのは,10kg程度とはいえ,家からしまなみ海道までの往復の輪行でした.次は私をサイクリングの世界に引きずり込んだ仲間が計画している来春のビワイチです.

2025.09.12
JCOMM2025in札幌で口頭発表を行いました.

 今年のJCOMMは札幌開催です.さらに,「グリスロによるオンデマンド乗合タクシー「のるーと上熊本」の利用促進のためのナッジ戦略」というタイトルで発表申し込みをしたのもあって,参加を楽しみにしていました.しかし,直前になって経理から「旅費が予算額を超えます」という指摘があり,慌てました.本学では予算費目が図書費と旅費とPC関連費に分かれ,年度当初にそれぞれの額を自ら設定して,その範囲で支出されます.9月に金額の変更ができるのですが,下限額が決められており,論文や報告書等はオープンアクセスできる時代に,図書(紙の本)費の下限額15万円は削減できません.毎年多くて3万円程度しか使わないので,残りに12万円は大学に戻しています.これも大学の予めの魂胆なのでしょう.どうにか,PC関連費から移算してJCOMMに参加できました.観光シーズンとあって,ホテルは普通のビジネスホテルですが,宿泊費は通常の3倍,22,000円/日でした.

 今回,私の登壇は2回あり,一回目は1日目午後からのパネルディスカッション「The past and next 20 years ~MMのこれまでとこれから~」でした.これは学・民のJCOMM理事11人がパネリストとなり,コーディネータの神田呉高専教授の質問に対して,スケッチブックに言葉や絵で回答するというものでした.

 問いかけられた3つの質問と私の回答は以下です.

質問1:MMと聞いて受けた印象は?
回答:ゆるーッ!
質問2:JCOMMは20年も続くと思ったか?
回答:藤井代表理事がいる限り続く
質問3:今後のMMに期待することは?
回答:MMをもっと科学に!
 いずれも主流や肯定的な回答とは異なる抵抗的で反主流的な回答でした.

 おそらくはそのタイトルに🌟ワードが多くあるのが理由と思われますが,申請をした多くの発表中から事務局に推薦されて,口頭発表の機会を与えられました.熊大定年退職以後はろくな研究もしていないし,自信のある研究以外は学会での発表はひかえていたのですが,上記の3つめの質問に対する回答の論拠にもなる「のるーと上熊本の利用促進のためのナッジ戦略の有用性」を,独自に収集したデータとモデル分析によって説明した口頭発表を行いました.聴衆に理解されたか分かりませんが,谷口綾子筑波大教授からは鋭い質問と研究スタイルに対する共感をいただきました.研究半ばなので,今後の継続的に研究を推進していこうと思います.

 MMはモビリティのマネジメントから中心市街地の活性化や高齢者の生きがい増進などの社会的課題の解決にまでにも発展しています.その意味ではこれまでモビリティのマネジメントの実践の経験や成果は有用です.私も解決すべき社会的課題に関わっていきたいので,反主流でありながらも積極的に関わっていきたいと思えたJCOMM2025でした.

2025.10.09
高の面白い話(38)

 10月1日から8日は中国の国慶節と中秋節が重なる連休でした。“公公”(主人の父)の70歳の誕生日も近づいていたため、今年の国慶節は安徽省で過ごすことになりました。往年と異なり、昆山から主人の実家へ一気に向かうのではなく、途中で観光しながらのドライブ旅行を楽しみました。

 10月1日午前9時頃、私一家は昆山から出発しました。主人は京沪高速を避けて、312国道を選びました。渋滞はほとんどありませんでしたが、走行中に多くの車が緊急車線を無断で使用して猛スピードで走行するのを見て、主人が我慢できず、わざと車を2車線分を占拠し、勝手に緊急車線を走る車両の通行を妨害しました。主人の行動も正しくなくて危ないだと思い、“自分のことだけよくすればいい、他人のことには干渉しないで”と言い聞かせてから、目をつぶって黙り、やがて眠りました。
前日、煙台の実家から昆山に戻ったのが深夜だったこともあり、グスッリ眠って起きたら午後1時も過ぎました。江蘇省溧陽市のある村に通過していたところ、村の入口にはサトウキビを伐採し、生搾りサトウキビジュースを売る屋台と、昔ながらの製法でポップコーンを作る流動小商販が見えました。私も子供たちもサトウキビ園は初めて見たので、車を止めると、主人が2人の子供を連れて畑へ入り、サトウキビの伐採体験をしました。この時期のサトウキビは甘みがまだ薄かったですが、自分で選んで伐採する新鮮な体験が子供たちを喜ばせました。小村を一周回ると、全村の計画が整然として立派で、村民の大半は二階建ての家に住んでいました。麻将をする人々が集まっていてましたが、軽食店や商店が見当たりませんでした。子供たちがカップ麺を食べたがるため、我たちは旅を続けました。

   

 午後3時過ぎ、ついに安徽省の人気のドライブルート“皖南川蔵線”の東入口に到着しました。ここにある2軒の小店は繁盛しており、店主は笑顔で“どちらも僕の店で、自由に座ればよい”と声をかけてくれました。子供たちが好みのブランドのインスタントラーメンを選び、主人と私は郷土料理を注文しました。空腹だった4人は美味しく食事を済ませて、店を出る時、子供たちはさらに2本ソーセージを買いました。
これまで、私が近年人気急上昇した“皖南川蔵線”の名前すら聞いたことがありませんでした。このルートは東が寧国市青竜郷から、西は涇県蔡村鎮に至り、全長約120キロで、主に山間の曲がり道で構成されています。平坦な道では重なり合う山の景色を眺められ、カーブには集中して運転する必要があり、高速道路の単調さや観光地の混雑さより心地よい、運転が好きな人には人気らしいです。私が一番気に入ったのは、車窗をあけて好きな音楽を聴きながら、涼しい風に顔を当たる感じです。子供たちも車窗を開けることが好きで、気持ちよさそうに安らぎに座席を座りました。広く平坦で監視カメラのない区間では、私が天窓を開け、子供たちが順番に頭を出して、景色を眺めてあげました。これは普段決してしないことでした。道中には、散在する村や観光スポートがあり、車を止めて川辺で小石を拾いて水遊びしだり、ダムの青石の橋を歩いたりをしまして、時間がゆっくりと流れているように感じました。

     

 午後6時半に皖南川蔵線の全行程を走り終えました。途中の車の数がかなり少なくなり、私達の車の前には1台のベンツがあり、その天窓から豹柄の服を着て髪を解いた女の子の上半身が突き出ていました。この風景が我が家の一時的な話題となり、次男の豆豆が彼女を“野生小女孩”(野生の女の子)と呼んであげました。皖南川蔵線の西出口付近では民宿の数が増えてきて、“野生小女孩”はここで停車しました。この地域の民宿料金は300元前後でした。私たちは山道を走り続けて、人気スポットの六道湾展望台へ向いました。山の夜は真っ暗です。主人はしばらくドローンを飛ばし、私が展望台の小売り場で子供たちにミツバチの巣蜜を買ってあげました。子供たちは屋代に置いた3Dプリンターで作られたドラゴンも欲しがってましたが、観光地の値段が高いため、代わりにネット通販で注文することにしました。
展望台を出ると、涇県蔡村鎮へ向かりました。“月亮湾”という観光地はこの町にあります。車を走らせながら、この町の夜経済の活気が目に飛び込んできました。“焼烤”(バーベキュー)の露店からは香りが立ち上り、観光客はビールを飲み、カラオケを歌い、店は客引きのため花火を打ち上げ、メインストリートは明かりに輝いていました。主人は“ここに来て正解だね”と興奮して、“人はやはり光を求める生き物だ”と感慨しました。二人が今夜ここで宿泊することを決めました。すぐ携程と美団アプリで客室を探し出しました。
町には百軒以上の民宿があるらしいです。主人と私がそれぞネットで探した結果なんと同じ民宿を選んでいました。この時、子供たちはすでに眠っていたので、私一人が値切りに行きました。女将は3階の川に面したバルコニー付きの大きな木造部屋と、メインストリートに面した小さな木造部屋を案内してくれました。子供たちが快適に住めるように大きな木造部屋を選び、320元から260元まで値切れました。もうすぐ夜8時になり、ネットでの新規予約もないはず、空き部屋は放置しても無駄だと思った女将は快諾くれました。
荷物を部屋に運んだ後、急いでカラオケ設備のあるバーベキューの露店店へ行きました。注文を済ませて、観光客の歌を聴きながら食事を楽しみました。この日は国慶節だったため、軍歌や愛国歌が次々と流れされました。歌を歌うのは主に70年代生まれや80年代生まれの人たちで、ある男性は酒に酔いながらカウンターで踊りながら歌い、その誠実な感情が大きい拍手を引きました。附近の住民に迷惑をかけないため、カラオケは夜10時までで終わり、その後、スクリーンで映画<長津湖>の放映が始まりました。私達が民宿に戻り、この日、主人は約10時間に及ぶ運転を終えました。

   

 翌日の朝6時過ぎ、主人は早起きしてバルコニーでのんびりタバコを吸いながらスマホを見ていました。朝の散歩やジョギングをする人々は川沿いを歩き、景色を楽しんでいました。蔡村は“中華モウソウチク第一町”と呼ばれ、自然環境が良いです。滞在している民宿はメインストリートの中心に位置し、民宿を出るとにぎやかな朝市がありました。地元の小売業者はカゴに野菜、肉、大豆製品などを並べて売っていました。私たちはプラスチック素材で編まれたバスケットを40元で買い、ゆっくり朝市を巡り、バスケットはすぐにいっぱいになりました。観光業が発展しているせいか、この村の物価は昆山とほぼ同じと感じました。
7時半頃、子供たちを起こして朝ご飯を探しに出かけました。村の奥に入って湯包(小籠包)店とラーメン店がありました。主人が油条(ヨウティアオ、油揚げ)店で食事にすることを決めました。店頭における油条が少し黒ずんで、狭い店の中に犬を飼っていて、衛生環境はあまり良くないと感じました。店に入った時、店主は“漬物は無料だが、汚さないで”と言いました。私たちが注文する時にも、同じことを再び言われて、しばらくすると、私が漬物を取ろうとした時、店主は三度目に”汚さないで“と注意してきました。店主の口癖だろうか、私達にあたっているのか、どちらにしても私は不快に感じました。主人に“ここで食べたくない”と言ったのですが、主人と長男はそのまま椅子に座り続け、次男だけがどうしても私についてきたいと言いました。女将さんは店主に文句を言いながら笑顔で私に挨拶してくれました。私は次男と一緒にお店を離れて近くの湯包店に行き、湯包と豆浆(ドウジャン、豆乳)を注文しました。次男が私を支えてくれたことに感謝する一方で、自分の気持ちは落ち込んで食欲がありませんでした。
民宿に戻って荷物を車に運ぶ時、主人がからかってくれて、私はつい怒りを爆発しました。“私がそこにいないのに、どうしてあなたは平気でおいしく食べられるの?”“今後、外で私と一緒にいる時は、必ず私のそばで支えてくれないといけないだ”と思い切り文句を言いました。民宿のオーナーは私たちに挨拶にしてくるつもりだったが、私が泣いているのを見て、引き返しました。蔡村からでて、主人も一言も話さず、私も景色を楽しむ気持ちを完全に失ってしまいました。子供たちもその雰囲気を察して、静かに自分たちで遊んでいました。その後、十数キロ離れた場所まで誕生日ケーキを買いに行き、昼頃やっと主人の実家に到着しました。

 主人の兄と姪は既に着いて、その日、私たちは公公(主人の父)の誕生日を前もって祝っいました。夜、全員で誕生日歌を歌い、ケーキを食べました。昔の時代では、70歳になると“老態龍鐘”(老け込んで体が不自由だ)という老人のイメージ図がありましたが、今の時代では70歳でも若者のように元気な方が多いです。私は事前に準備した金のひょうたんの飾り物(中国で“ひょうたん”と“福祿”は同音)を贈り、公公に祝福を伝えました。
公公はバイクで転んでから2、3ヶ月間休養中で、婆婆(主人の母)も“打工”(アルバイト)を止めて、毎晩おいしい料理を作ってくれました。村は辺鄙なところですが、村と道路の整頓が完備で、お茶の季節を除いて、村人たちは“打工”で収入を得ます。多くの人は家に鍵をかけて他の省へ出稼ぎに行っています。村民は耕作も家畜の飼育もしないので、“打工”をしない日は遊ぶことが多く、日常の雑用は少ないです。野菜も買う必要がなくて、都会の人の状態になりました。
婆婆の家では一年中に米を食べます。公公は面類が好きなので、私が帰るたびに、必ず一回餃子か包子(肉饅頭)を作ってあげます。今回は煙台の実家から持ってきた新鮮な豆角(さやえんどう)と村で買った黒豚の肉を具にし、隣人が送ってくれた小麦粉と酵母を使い、膨らんだ包子を蒸し上げました。大きい包子5個を隣人に差し上げ、久しぶりに手作り包子を食べるみんなから好評を得ました。
二日間、村には休暇で若者たち(村民の子女)が帰ってきており、川は人気スポットになりました。川水が少し冷たいですが、泳ぎの人がいました。主人は川で網を撒き、釣りをして魚を捕り、網を引き上げると人々が集まって見物し、にぎやかでした。子供たちは隣家の同年代の子供たちと遊んで、ゆっくり休日を過ごせました。

 10月4日の夜、夕食後、家の前には涼むの近所の人たちが集まりました。主人は私が買ってきた月餅を取り出し、中秋節を前もって祝いました。兄さんと侄が10月5日に深センに帰るので、主人は兄と同じ日に戻ると決まり、“まだ両親に嫌われていないうちに、早く帰ろう”と冗談を言いました。
山の中は蚊が多いので窓を開けられないです。エアコンがないため、部屋は蒸し暑かったです。夜明けには犬の鳴き声と、野菜を売る声、村民の会話声がしました。村民は早起きが習慣で、私が7時前に起きても公公と婆婆が既に朝ご飯を食べ終わりました。主人の話によりますと、昔から村民が“遊飯”(ゆうはん)の習慣があります。碗に料理を盛って、庭に立ったり、歩きながら話しをしたりして食事をします。主人の実家にいると、私も食卓にひとりで座って食べるよりも、この自由な食べ方が好きです。食事を済んでから、いよいよ出発の時間になりました。

     

 10月5日午前10時半頃、黟県(イーケン、安徽省黄山市に属す)に着きました。兄さんと姪は黟県に住む舅舅(おじさん)の家に行ってから高鐵駅に行き、私一家は主人の取引先である王総の家へ向かいました。王総と主人は一度しか会ったことがないのですが、王総が主人は自分の“大表哥”(おにいさん)に似ていると言い、また、二人とも安徽省黄山市の出身で、“称兄道弟”(兄弟分け)をしています。王総の家は休寧県(キュウネイケン、安徽省黄山市に属す)の黄村(ファンツン、村名)にあります。主人の下の営業担当者も新婚の奥さんを連れて上海から車で来ました。
王総の母と奥さんは沢山の料理を作ってもてなしてくれました。王総ご夫婦にも二人の男の子がいます。食事後、王総の母と奥さんが食卓を片付けて、四人の子供はそれぞれスマホやタブレットを持って二階に上がり、エアコンをつけながら各自に遊びをして、王総が私達を黄村のことを案内くれました。ご紹介により、黄村には1200年に及び歴史があり、国家級の歴史文化名村、中国伝統的村落などの称号があり、歴史上、12人の進士(しんし)が養育したことから“進士村”の美名を享有しています。この村は観光業を発展させて、有名人も村に来て娯楽番組を撮影しました。村落は“ひょうたん型”をしており、数十棟の古民家が現存しています。“黄村進士第”や“黄村小学校”はいずれも重点文化財保護単位になっています。私たちが見学した時、改修工事は活発に行われており、多くの観光客が豆腐作り体験などをしていました。馬小屋を改築してカフェに観光客が溢れて、人の世話を必要としない先進な民宿や村歴史博物館もとても格調が高いです。王総の家に戻り、お茶を暫く飲み、政府が400万元以上を投資して村のために建てた“水庫”(貯水池)も見に行きました。王総の母はお話し好きで、意志が強い方です。ご自身の家を民宿に改装し、観光客を招く計画をしています。王総も民宿の前にプールを作り、村に特色ある民宿にしたいと思っています。王総のご家庭は、郷村文旅ブームに乗ることができたなと感慨します。

     

 王総ご家族と別れた後、私一家は数十キロ離れた木梨硔(ムーリハン、村名)景勝地へ向かいました。主人の話によると、木梨硔には400年以上の歴史があります。明朝万暦年間に山頂に逃げる人がここで定住し、子孫を繁衍しました。数百年の間、村は交通が不便で外部との接触が少なく、村民は自給自足の生活をしていました。2010年、ある写真家がここで撮影した高山の雲海の写真が賞を受けたことをきっかけに、この村の独特な地理地形と生態環境は注目を集め始めました。“写真撮影スポット”、“中国伝統的村落名録”、“美しい郷村”などの称号が次々と獲得し、ネットとショートビデオの拡散により郷村観光地として知名度が上がったようです。
主人はお酒を飲んだので、運転は私に替わりました。私はMTを運転していましたが、主人の車はATで、幸いにも山間部の道路は平坦で、車も少なかったです。緊張感があり、音楽を聴ける余裕がなくでも、安全に坂道の入口まで運転することができました。坂道の運転はやはり主人に任せます。木梨硔の地勢が高いです。険しくて石が多い小道に沿って車で山腰にある駐車場に行って、さらに徒歩約20分を使い、800段階段を登ってから着きます。休暇日のせいか、山の麓から車が一台つぎに山側に沿って駐車されており、反対側の道幅は一台の車がぎりぎりに通れます。私は度胸が小さくて途中で何度も主人に“車を止まって歩いて行こう”と催促しました。カーブのところに来ると、道が渋滞して前に進めず、Uターンもできませんでした。3、4台の車がここで半時間以上試して、ようやくギリギリUターンのスペースを作り、主人といち早くもここを離れました。山の麓に着いた時は既に夜が深くなっていました。
山頂の民宿を前もって予約した人たちは頑なに上に進もうとしていた姿を見て、本当に危ないだと思います。山頂の民宿は約4、500元にもします。また、多くの物資が人力で山に運ばれるため物価が高いと聞きました。安全リスクも無視できないため、いち早く撤退するのは正解だと思います。
大通路で交通警察が飲酒運転検査をすることを心配して、引き続き私が運転し、高速道路を通過した後、主人に運転を譲り、目的地の“西溪南古村落”(村名)へ向かいました。

 西溪南に到着したのは午後8時近くでした。いつものようにネットで適切な価格の民宿を検索した後、店に行って値切りました。ここの民宿は商業化が進んでおり、装飾が美しいですが、大部分の民宿の価格は一晩300~400元で、大通り沿いの民宿はほとんど満室でした。女将さんがご経営している二軒目の路地裏の民宿を案内してくれて、一階には1ベッドの部屋が一室だけ残っていて、最低200元で貸してくれました。狭かったですが、主人は“良い”と言ったので、その晩はここに泊まりました。隣の民宿のヤードにバーベキューがやっていて、夕食はそこで済ませました。味がおいしいため、烤鱼(焼き魚)を追加注文したくて、“半分辛いのと半分辛くないと伝えてね”と息子たちに伝言を頼んだところ、長男は行きたくなくて、次男が大人しく行ってくれました。暫くすると、店主が小さなイカ(鱿鱼と烤鱼の発音が似る)をもってきて、“小さいですが、半分辛いのと半分辛くないのにしました”と説明くれました。私たちはイカを受け取り、三人で思わず大笑いしました。
バーベキューを食べ終えた後、村の周りを散歩しました。村に明かりが輝き、観光客が往来しており、商業雰囲気が強いです。宿泊先が決まるまで、人が浮いたように不安でしたが、一階の小さな部屋でも心が落ち着かせます。民宿のベッドは乾燥していて、一日中疲れた私たちはぐっすり眠れました。

 翌日、朝ご飯も提供されていて、意外にも豊富でした。店主夫妻は安徽省合肥市(ホーフェイシ)で働いて定年退職した後、この村で70万元を使いマンションを買い、療養用のつもりだったが、政府から何度も民宿経営を勧められて、民宿を始めたと聞きました。夫妻は“一日中疲れて死にそうで、うんざりだ”と愚痴をこぼしていました。彼らの話が本音なのか、それとも心の中で笑ってるか分かりませんが、政府の大力な支援を受けてお金を稼げることは、多くの人が羨むことです。もし私がこのチャンスがあれば、疲れても喜んでやりますね。
村にある観光スポットの名は“綠野仙踪”(緑のオズの魔法使い)です。この名前は映画<オズの魔法使い>に由来したかなと思います。入場料が無料で、川に架かる石橋を渡ると、林がある湿地で散歩することができます。川は幅が広く、遊覧船や竹筏での喫茶などの有料プロジェクトもあります。川の沿いには子供の水遊び用具、干物、手工芸品などがずっらりで、人込みがありにぎやかな市街地になっていました。子供たちは騒ぎをして、泣いたり笑ったり、ここで半日を過ぎました。12時、民宿に戻りチェックアウトし、高速道路に入る前に“徽州料理”(安徽省の地元料理)を食べて、昆山市へ向かい ました。

     

 10月6日は中秋節の日だったので、昆山に帰る道は渋滞しなかったです。4人でこの数日間の体験を振り返り、様々な話題をしたところ、次男が私に、“姥姥(私の母)の家と奶奶(主人)の家、どっちが面白いと思うの”と尋ねました。“姥姥の家には雪があり、奶奶の家には川がある”と独り言をしました。私は“ママはもう遊ぶ年齢じゃないよ、ママには悩み事があるの”と答えました。行く場所が増えるごとに、国家の“郷村振興”“貧困脱却”が多くの貧困地域を劇的に変えたことと、故郷の煙台市牟平区は数十年も変化がないことに比較してしまいます。煙台出身としての優越感はだんだん薄れ、社会の発展の快適さを享受する一方で、故郷の発展遅れに焦ります。主人は“无病呻吟”(無用な悩みをする)と言ってくれて、確かに、私の見ているのも表象で、良い悪いの判断基準は人それぞれです。
昆山に帰ってきたのは夜9時半になっていました。“每逢佳節倍思親”(佳節が来るごとに、親族を思う気持ちが一層強くなる)です。今年の中秋節は実家に帰って団欒できなくて、両親と弟一家がますます良くなることを願います。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.08.31
高の面白い話(37)

 7月と8月は子供たちが故郷に帰り夏休みを過ごす季節です。往年のこの時、私は何度も金曜日の夜“緑皮車”(グリーンカー)に乗り、安い交通費で一晩かけて未知の都市へ向かい、ひとりの短期旅行を楽しんでいました。名所を巡り、地元の小吃を味わい、新しい環境を感じながら、沿道で様々な悟りと一時的な思いが浮かびました。去年、私は緑皮車に乗り、洛陽と南昌を巡りました。視野がどれほど広がったかは言えにくいですが、一人で一つの都市を探索する満足感から自信を増やし、エネルギーを補給くれたように感じます。
 今年の旅行先は泰山に決めました。泰山は中国の五岳(東岳泰山、西岳華山、南岳衡山、北岳恒山、中岳嵩山)の首で、山東人の私として、一度登ってみたいと思います。玉皇頂で日の出を見て、“会当凌絶頂、一覧衆山小”の泰山の雄大さを体感し、体力と精神を鍛えたいと思います。しかし、現状は思うようにいきませんでした。

 七月の猛暑の中で、私は“怕寒”(寒がり)になりました。時に、汗が止まらなくて、無力感を感じました。次男を生んだ時の症状と似っています。体からの健康警告は私にイライラと不安を感じさせ、泰山の登山ガイドを見るたび、自分は登れないだろうと不安になりました。私は“中医”(漢方医)の方法で、体に入り込んだ風邪寒気を取り除き、気血の不足を調整し、“中薬”(漢方薬)で身体全体の内環境を改善したいと思っています。

 中医の先生と言えば、昆山では郭先生を一番思い浮かびます。2017年に次男を産み、42日の“坐月子”(産後のケア)期間を終え、屋外で風を受けると異常に寒がりになりました。主人が仕事で忙しかったため、私を安徽省に送りました。1週間も住まないうちに寒がりの症状が悪化し、私が急ぎ昆山に迎えられました。友人の紹介で郭先生を訪ねました。ご処方した漢方で体調が改善しました。当時専業主婦だった私は“社保”(中国の社会保障の略称、政府主導する制度で、養老保険、医療保険、失業保険、労働災害保険、出産保険が含む)がなくて、一剤(7日分)約四百元の薬代を自腹で払うのは渋りました。二剤で症状が緩和したら薬をやめてしまいました。あれ以来八年間に2度受診して、同じ状況でした。今回病根が再発の原因は、前期の巩固と強化が不足と存じます。今の私には“医保”(医療保険)があります。薬代がほぼ全額控除されますし、この機会にしっかり体を調整しようと決心しました。

 先生は毎週三か所の小規模の診療所を巡回します。彼の職位は分かりませんが、予約も他の医師の名を借りて行いますが、患者の行列はいつも長いです。郭先生の診察は“望、聞、問、切”を基づいて行われ、特に“問”(問診)に時間をかけます。私は事前に携帯電話のメモにて体調の不具合を記録し、郭先生は病歴も聞いてくれます。郭先生は容貌が端正で、口調が穏やかで、経験豊富で相談しやすい方です。私が十年近く前の病根の再発で焦った時、先生が“治せる”と確かに言って励ましてくれました。
 “望”(望診)と“切”( 切脈)のとき、郭先生は私の手首の動脈で脈の速さや強さを感知、顔色や舌苔を見て体調を判断します。“望、聞、問、切”で得た情報から、私が“陽気不足と肝気鬱結”と診断されてました。郭先生が“君臣佐使”(薬効を高め副作用を減らし、気血や臓腑の平衡を調整して病気を治す)の原則に基づいて処方くれました。

 一剤の薬材は20種類前後で約600元です。漢方薬には“自煎”(薬剤をパッケージごとに分けて、自ら煎じる)と“代煎”(診療所が専用設備で煎じる)があります。代煎の場合には21人民元を別途に払い、短時間後に個別包装された袋詰めの薬を持ち帰れます。最初の一ヶ月間、私が週一回郭先生の受診を受けて、体調の様子に基づいて、処方されます。毎回、私が代煎を選びました。冷蔵庫で保管しやすくて、お湯で温めて飲んだけで、出張にも便利でした。三剤飲んだ後、寒がりと虚弱感が改善しました。中薬の“弁証論治”“四気五味”で私の体のバランスを整えくれたと思います。体調を巩固するため、郭先生は前回同様の処方箋を出してくれました。しかし、今回の薬味が薄く薬効も弱いと感じました。代煎の品質に疑問を抱き、出張の原因もあり一週間薬を中止した。
 物事に疑いが生まれると、自信も影響を受けます。最後の一剤、私が自煎することにした。砂鍋や瓦罐(甕)が最適な容器ですが、三軒のスーパーを比べて99元で陶磁の鍋を買いました。“竜骨”(薬名)を30分間水に浸けて、30分煎じて、他の薬材を加えて弱火で30分煎じて、一椀の薬湯にします。通常、1袋の薬は2回煎じて、1日2回分の量にしますが、無駄を避けるため、私はさらに1回煎じます。最後まで薬湯は意外と濃いです。こうすると7日分の薬を10日まで服用することができました。“薬渣”(薬かす)は足湯に使っていました。故郷の伝統では、薬渣を大通りに捨てて、人に踏まれたり車に轢かれたりさせることで、病気を持ち去ってもらうという風習があります。しかし、都会に住んでいると、ゴミ箱に捨てる以外には勝手にはできません。悩むことに、家事をしながら薬を煎じると焦げやすいです。高価な薬を捨てられなくて、さらに水を入れて煎じて飲むしかないです。苦味が焦げ味を隠しています。薬の効き目さえ影響がなければ、それでよいと思います。元々“良薬苦口”(良薬は口に苦しい)ですね。
 二ヶ月間近く中薬を飲み、堅持することが難しいを実感しました。毎日定刻に薬湯を温めて飲み、辛いものや生冷物を忌口するのは、簡単そうですが実際に続けるのが難しいでした。薬の効き目は、医師の医技、薬材の品質、煎じ方、患者の忌口や心身状態などに影響を受けることを存じますが、郭先生が処方頂いた処方は私の症状を調理できたと思います。

 7月末頃、郭先生が私に“三伏帖”を処方しました。これは“冬病夏治”の漢方療法で、温熱効果の薬貼を特定経穴に貼り、寒湿を除き、体調改善、免疫力強化や慢性病治療など効果があるそうです。初めて貼るにもかかわらず、女性作業員は注意事項を説明くれなかったです。体の7か所の経穴に円い薬シートが貼られました。当初は違和感がありませんでした。深夜入浴後に異様な寒さを感じ、夜中には寒がり症状が強まりました。経穴から寒気が侵入したのではないかと心配し、翌日朝、私が急いてウェチャットで郭先生に相談しました。郭先生は入浴とは関係がないと話をしてくれて、シソとショウガが沸いた湯を飲むようと勧めてくれました。

 初めて“三伏帖”を貼る経験を振り返ると、心理作用で“三伏帖”の効力を過大評価と期待したのかもしれません。長い行列の中に、鼻炎、風邪や関節炎などを調整する人が多いです。一か月間以上かけて5回分けて貼りましたが、個人的には即効性を感じませんでした。漢方の調理は漸進的で万能と存じます。むしろ知らないうちに体が改善されているのかもしれませんね。 診療所の壁に“冬病夏治三服帖”の画像が貼られて、人体の生命活動要素の“精・気・神”の概念図もあり、人体経絡図、経絡(けいらく)、推拿(たいな)、抜罐(ばっかん)、艾灸(きゅうしゅう)などの漢方医理療法も展示されています。郭先生の診察室の向かいには簡易仕切りのベッドがあり、鍼灸(しんきゅう)や推拿、抜罐、艾灸の理療も行われています。“三伏帖”貼る作業と同様、主に2名の女性作業員が担当しています。むしろ都市のマッサージ店や美容店などにも一部分のサービスがあるため、ここで理療する人は多くないです。

   

 診療所は規模が小さく、大病院ほどの正規性にはやや劣りますが、私には便利でした。次男が小児尿床のため、郭先生に“泽瀉”(中薬、沢瀉)10gを処方することを相談しました。母は村で聞いた偏方によると、泽瀉を鶏腸に入れて煮込み、油や塩など調味料を加えずに飲むと尿床に効果があります。郭先生もこの偏方を知っていて、女性スタッフに声をかけて薬を売ってくれました。

 都市では医療が発達し、皆が体調を崩すと正規病院に行く習慣が身に着けました。偏方には慎重になりましたが、私には“小さな偏方で大きな病気が治る”ということは信じています。私が三四歳の時、暖炕の上における食卓の足を引っ張って炕に上がろうとしたとき、卓上の熱々の肉スープが顔全体に掛かり火傷してしまいました。大叔(おじさん)はすぐに私を抱いて、やけどの民間療法を知っている同村の老人の家まで走って行きました。黄泥とごま油などで作った手作り膏薬を塗ってもらいました。不思議なことに、一ヶ月間老人の偏方と母の世話で、私の顔には瘢痕が残りませんでした。この経験から、私は伝統偏方に感謝の気持ちを満たしています。

 初めて“泽瀉”を聞いたので、ネットで検索してみました。漢方的には、泽瀉が膀胱機能を調整、鶏腸が腎を強化できます。現代医学的にも泽瀉が泌尿器を調整、鶏腸が栄養を補うことができます。どんな角度をみたら、泽瀉と鶏腸が体に悪い影響はないはずと思います。
 泽瀉は思わないほど簡単に入手できましたが、入手しやすいはずの鶏腸はなかなか買えませんでした。父が一周間早起きして家周辺で流動の鶏売り業者を探しましたが、どう見ても最近皆来ない様子です。父と主人の実家に行ってから、ようやく鶏を買えて、材料がそろいました。最初は、偏方とおりに、泽瀉を潰して鶏腸に入れようとしましたが、鶏腸が薄すぎて破れてしまうので、結局両者をばらばらにして一緒に煮込みました。次男は安徽省で一剤(泽瀉半銭、鶏腸1本分)を飲んだ後、まだ2回尿床しましたが、昆山に戻ってからもう一剤飲むと、尿床が止みました。尿床には、就寝前の飲水量や深い睡眠が影響することを知っています。ある日、次男が夜に飲み物を控えられず、子供二人で賭けをしました。夜中誰に起こされることもなくトイレに行かなくても、次男は尿床しませんでした。彼は嬉しくて10分間のゲーム時間を勝ち取りました。私も彼の改善を見て非常に嬉しかったです。偏方は口伝えで誤りが生じる可能性があり、伝統的な薬材や材料が失われることで薬効が低下するかもしれませんが、その中には祖先の知恵が凝縮されていると思います。そのため、私も母が聞いた偏方の本を参考して、淘宝(タオバオ通販ショップ)で中古本を購入しました。

 私が幼い頃、村に偏方の本や萬年暦(まんねんれき)を持っている老人がいって、さらに、占い(うらない)が得意で物事を予測できる老人もいます。まさに“民間に達人がいる”と言う通りです。昔は医療が乏しく、村の“赤脚医生”(農村の素人医者)である“鉄牛大夫”( 大夫:先生)が村全員に看病をくれました。彼の呼び名は“鉄牛”で、私が彼を“鉄牛大爺”(大爺:お伯さん)と呼んでいます。“鉄牛大爺”の医術が立派のため、外村の人も受診に来ます。小さい時、私が彼を怖がりました。また、私も注射と薬を飲むのが嫌いです。“鉄牛大爺”が処方した錠剤は大きくて苦くて、飲み込めませんでした。幸いにも母が薬を潰して砂糖を加えて飲ませてくれました。夜、高熱を出したら、“鉄牛大爺”が薬箱を持って家に来て注射をしてくれました。泣き騒いても逃れられませんでしたが、幸いにも、毎回、父が“黄桃罐头”(黄桃の缶詰)を買ってくれました。病気になるのは辛いですが、少し甘いものを食べると、その辛さが和らぐのでしょう。

 時は本当に速く過ぎますね。かつて注射器の針先を見る勇気もなかった私が、今では二人の子供を産みました。“鉄牛大爺”は定年後もたまに村民の診察をしています。私が次男を産んで体が寒がりになった時、母は急いで私の症状を彼に尋ねました。“鉄牛大爺”は昆山の漢方医を薦めてくれ、“玉屏風顆粒”という薬を紹介してくれました。この薬は黄耆、白術、防風を成分とし、益気、固表。止汗の効果がある漢方製剤です。一箱飲んでみたら確かに効き目があり、一箱二三十元で伝統漢方薬に比べて経済的でした。振り返れば、今の私にも大規模の病院を信じるようになりました。もし今年、症状が出る時この薬を飲んでいれば、長期的な漢方治療はいらないかもしれませんね。 今では、注射を受けたり薬を飲んだりするとき、もう苦さや痛みを恐れません。ただ一日も早く病気を取り除き、健康な体を願います。上には両親がいて、下には子供がいるし、さらに人生に希望を抱えています。

 現在の都市では、医療施設が先進で充実し、医師の学歴も高くて、中西医が協力し、社会保障制度も整っています。人々は肉体的な健康だけでなく、メンタルヘルスも重視するようになりました。私もこの便利さと安心さを享受しています。しかし、農村にいる家族の医療条件はまだ不十分で、医療保険も充実していません。村では“病急乱投医”(病急ぎで医者を選ばず)の現象が多いです。農村と都市の格差がいつになったら消えられるでしょうか。いつか都市も農村も、医術に優れて責任感ある医師がいれば、効果的な治療を受けられたらいいなと思います。

 体調がよくなかった日は、鏡を見たくなくて、髪がぼさぼさで化粧もしたくありませんでした。服を買ったり美食を食べたりする気持ちも湧きませんでした。やっはり健康が一番ですね。体調が万全になったらやはり泰山に登りたいと思います。いつ行くかには、縁と時間に任せたいと思います。健康な心と体があるこそ良い風景を楽しむことができます。

 中医と中薬の知恵は、急いで病気を治すことではなく、体と心のバランスを取り戻し、胸を開かせ、毎日の生活を安定させると思います。急速発展の時代に亜健康や慢性病を抱える人々にとって必要な調養方法だと信じます。健康の道には、伝統の知恵と自然の歩みが欠かせないですね。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.07.13
4UniC 2025 in Shanghaiは兎に角にも,暑い熱い毎日だった(2)

 4大学国際ジョイントセミナー(4UniC:4 University international joint Conference)はカナダカルガリー大学,韓国ソウル市立大学校,中国同済大学,それに日本の熊本大学の4大学の交通系教員が年に一度,持ち回りで開催している国際セミナーです.当初はカルガリー大学とソウル市立大学の2大学が各年で交通研究の学術交流をしていたのですが,ソウル市立大学校のSeungjae Lee教授から招待されて熊大から溝上教授が参加したのは2008年です.その後,中国同済大学も参加して4UniCとなりました.COVID-19の世界的な蔓延のため,2020年から2年間は中断していたのですが,2023年には再開し,今年で数えて17回目になります.当時,私は既に熊大を定年退職して今の熊本学園大学に転職していたのですが,その後も歓迎されて?参加しています.
 12日の夕方から始まったコミッティミーティングには各大学から数名のファカルティメンバーが参加し,1年ぶりに会う友人の健康を喜び合い,新たに参加したメンバーを歓迎しました.主催大学のYuchuan Du教授の進行のもと,4UniCへの参加の希望があったルーマニアとスペインの大学の受入について審議し,了解が得られました.アジアと北米に加えて欧州の大学もメンバーとなるこの組織も,来年以降は益々国際的になりそうです.その後,同済大学が運営するホテル内の宴会場で開催された歓迎パーティで更に旧交を温めました.

 

 13日は朝から本番.総合テーマはTransforming Mobility Paradigms: AI Frontiers in Smart Transportationです.最初のBreaking Sessionでは各国の代表が上記に関する現況や関連する研究成果を発表しました.これを聞いていると,各国の研究動向や興味が分かります.その後,3会場に分かれてセッションが進行.昨年の4UniC 2024 in Kumamotoでは校務のため発表は行いませんでしたが,今年はUpdating a conversion model implemented in a Multi Agent-based Urban Mobility Simulator with observational dataというタイトルで2年ぶりに英語でのプレゼンを行いました.準備はしてきたものの,久しぶりの英語での発表に緊張したし,カルガリー大学の新人ファカルティメンバーからのニコニコしながらもシビアな質問には旨く回答できたか?しかし,研究の目的,手法,成果は十分に伝わったようで,お世辞にも「この研究,👍」と言ってくれたのは良かったです.私の会場で発表した安藤先生と田中研の学生も無事に終わりました.

 これまでのセミナーとは違った今回の特徴は,参加した4大学からの学生諸君の「近未来の都市と交通」に対するアイデアコンペの開催でした.最終的にはA0版の模造紙に手書きの構想図を掲示し,ファカルティメンバーが順次回って説明を受けて上位5点を推薦して順位を決める方式です.さすがお金持ちの中国,というよりも同済大学の執行部になった Yuchuan Du先生,上位の賞品は私も欲しいと思うような豪華版でした.

 夕方からは,各室の前でシェフがローストされた北京ダックを薄く切り分けているような豪華な中国料理店でウエルカムパーティが開催されました.中国のレストランではアルコールは持ち込み可が多く,ここでもDu先生が取り寄せた市販されていない秘蔵の白酒で「干杯!」.豪華な北京ダック,それに繊細な上海料理に酔いました.来年のカルガリーでの再開を祈念し,再度「干杯!」.やっぱり学術交流も結局は人的交流ですね.

 ソウル市立大学からの先生や学生諸君は2次会まで参加したようですが,私は明日早朝からの寧波への移動があるために1次会で切り上げました.