「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は明治4年10月に建てられた熊本で最も古い西洋建築物です。熊本洋学校に教師として招かれたリロイ・ランシング・ジェーンズが家族と一緒に住んだ邸宅です。 ジェーンズは1837年にアメリカ合衆国オハイオ州ニューフィラディルフィア市に生まれカリフォルニアのサンノゼで1909年3月27日、72回目の誕生日に亡くなりました。 ニューヨークのウェストポイント陸軍士官学校出身の軍人です。有名なリンカーン大統領が奴隷解放をめざした南北戦争ではリンカーン側の北軍に参加して、砲兵大尉になりました。北軍の勝利で戦争は終わりましたが、長い戦争で体調も崩したことと「戦争がないときの軍人は何の役にもたたない」と考えて、軍隊を辞めてメリーランド州セント・デニスに妻と生まれたばかりの娘、エリザベスを連れて「エルク・リッジ」農場で農業にはげんだのでした。
一方日本では、江戸時代の終わりごろから明治時代にかけて熊本から偉大な人が出ました。その人の名を横井小楠(よこいしょうなん)といいます。小楠は福井(越前)の藩主、松平(まつひら)春嶽(しゅんがく)に招かれ、新しい日本をつくるために福井や江戸でたくさんの人を指導したのです。現在熊本市と福井市が姉妹都市となっているのはこのためです。この小楠の甥の横井(よこい)大平(たいへい)が明治2年末に勉強していたアメリカから帰ってきて、熊本知藩事、細川護久(ほそかわもりひさ)に洋学校をつくることを勧めました。護久はその勧めを受け入れ洋学校をつくり、熊本の少年たちに外国の文化を取り入れて新しい日本をつくるための学問を教えることにしました。そこに教師として招かれたのがジェーンズだったのです。 熊本洋学校が始まった最初の年には、10歳から15歳までの少年、約500名の入学希望者が集りましたが、試験を受けて入学を許されたのはわずかの46名でした。ジェーンズが熊本にいた5年間に約200名の生徒が洋学校に入ってきました。
ジェーンズはこの生徒たちに英語だけで勉強を教えたのです。生徒たちは生まれて初めて会ったアメリカ人が全く日本語を使わないので大変苦労しましたが、自分たちは新しい日本をつくるという考えで、頑張ったので、まわりが目を見張るほどの力をつけていきました。
徹底した自学自習、を基本としました。答えは教えずに自分で調べたり、深く考えたりするように指導したのです。自習中はジェーンズの厳しい、しかし愛情豊かな監督があったので、一言も話し声がありませんでした。また毎日成績順に机を入れ替えたので「毎日が試験のようだ」と皆真剣に勉強していきました。
横井小楠の娘「みや子」とジェーンズの教え子である、徳富蘇峰(とくとみそほう)の姉「初子」がこの洋学校で男の生徒に混じって勉強を始めました。日本最初の「男女共学」もジェーンズによってこの熊本洋学校で始められたのでした。
洋学校ができて3年目ごろからジェーンズは自宅でキリスト教の聖書研究会を始めました。その中から熱心なキリスト教信者がでてきました。この人たちは明治9年の1月30日に熊本駅のそばにある花岡山に登りました。そこで賛美歌を歌い聖書を読んだ後に用意してきた「奉教趣意書」を読み上げこれに自分の名前を書き入れました。この奉教趣意書の内容は「キリスト教は勉強すればするほど素晴らしいことが分かったので、これを日本に広めて、素晴らしい国をつくろう」というものでした。キリスト教を耶蘇教といっていた時代です。この誓いに一番驚いたのは家族や親戚で、どうにかしてキリスト教を辞めさせようとしましたが彼等の決意は固く、様々な迫害がおきても信仰を続けました。しかしこの花岡山での誓いが一般にも知れわたったために、洋学校は明治9年7月の卒業式を最後として閉校となりました。
ジェーンズは洋学校の生徒たちに京都の同志社英学校に行くことを勧めました。これは新島襄(にいじまじょう)がアメリカから帰ってきて開いたばかりの学校でした。生徒たちは同志社に集りました。彼等は同志社の中では大変目立った存在になりました。ジェーンズから4年、あるいは5年も教育を受けていたので学生でありながら、指導者としての力も持っていたのです。これを見て同志社の先生たちは熊本からきたジェーンズの教え子たちを、熊本からきた集団、あるいはグループという意味で「熊本バンド」とよぶようになりました。熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並ぶ日本三大バンドと呼ばれるようになり、このバンド出身の人たちは後に日本の宗教界、教育界、実業界のリーダーとなっていったのです。
ジェーンズは長い鎖国時代の封建制がもたらした弊害を取り除くことにも力を尽しました。熊本の野菜は種類が少なく、栄養価も少ないと感じたのでアメリカからキャベツやカリフラワー、レタス等の野菜の種を取り寄せて栽培し、熊本に広めました。また食生活がよくないと感じたので飼っていた牛を殺して牛肉と野菜入りのシチューを洋学校の生徒たちに食べさせました。このことが熊本の人たちに初めて牛肉、牛乳、パンを食べさせるきっかけとなりました。みかんの接木や摘果を教えて品種改良ができることを知らせました。アメリカから取り寄せた印刷機が九州で2番目となった白川新聞の発行に一役買いました。ジェーンズが来る前には田畑を耕すのも人が鍬を使って行っていましたが、牛や馬に引かせる鋤を取り寄せて家畜を使う能率的な農業を紹介したのでした。
このように、学校の先生としてだけでなく、熊本の近代化に大きな貢献をしたのが洋学校の教師、ジェーンズであったと言うことができるのでしょう。
明治10年の2月に熊本を舞台として西南戦争が始まりました。この時、官軍の総督として有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)がこのジェーンズ邸を宿舎としました。この戦争を心配した佐賀県出身の元老院議官佐野常民(さのつねたみ)は敵味方の区別なく負傷者を助けたいと考え有栖川宮に博愛社設立の許可を求めにやってきました。有栖川宮は5月3日に設立許可を出したので佐野は泣いて喜んだそうです。激戦で有名な「田原坂」の隣にある木の葉町の「正念寺」「徳成寺」というお寺、あるいは民家を病院として官軍、薩軍の傷兵約1400名を助けました。その後佐野の粘り強い努力の結果、博愛社の組織が大きくなり充実した明治19年(1886年)、日本政府はジュネーブ条約に調印しました。博愛社が明治20年(1887年)世界赤十字の仲間入りをしたときに日本赤十字社と名称を変えました。このジェーンズ邸の二階で博愛社設立の許可がおりたことから、ジェーンズ邸は「日本赤十字発祥の地」と呼ばれています。前庭にある「愛の手、とこしえに」は日本赤十字生誕100周年を記念して作られたものです。
「ジェーンズ邸」は最初は熊本城内の古城(ふるしろ)と呼ばれるところに建てられていました。現在、熊本県立第一高校が建てられているところです。その後、明治20年に熊本県庁が南千反畑町に新築された時にジェーンズ邸も庁舎の北側に移転し、県の物産館、県立女学校の仮校舎、日露戦争時のロシア人将校の捕虜宿舎として使用されました。昭和7年からは水道町に移転し日赤の県支部、及び血液センターとして使用され、昭和45年に現在の水前寺に移転し、熊本県重要有形文化財となっています。
開館時間 午前9時30分~午後4埓30分
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 高校生以上200円・小中学牛100円
所在地 〒862-0956 熊本市水前寺公園22-16 TEL・FAX(096)382-6076
駐車場 有り 約10台