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2026.01.11
高の面白い話(41)

  2025年、私個人の年間営業実績は目標の76%しか達成できませんでした。原因が販売代理の間の競争です。一方、会社全体として、営業総額が目標を達成しました。業務が主力顧客に過度に集中するとリスクを考えれば、今回の結果は会社管理層の期待に応えられた側面もあると思います。
 2026年、私個人の営業目標は依然高く設定されています。業界の先行きを厳しく見る顧客が殆どで、プレッシャーを感じています。既存顧客の信頼維持、新規顧客開拓と新な事業展開は急務であることを存じていますが、顧客資源の蓄積も専門知識の習得も“一蹴而就”(一蹴で成遂げる)のものではなく、”落ち着いて積み上げるしかないだ”と自分を励ましています。

 インドネシア出張の準備期間から、私はほぼ毎日自主残業をしていました。自分のできる限りに、2025年の仕事を円満に締めくくりたくて、そして、煙台市の実家に戻り、”元旦”(1月1日)をお祝いしたいと計画しました。中国では、元旦は春節ほど盛大な祝日ではありませんが、実家で家族と一緒に年末年始を過ごし、疲れを癒し、充電して再出発したかったのです。12月26日(金)の夜10時過ぎ、私は牟平駅に到着しました。弟はいつものように既に改札口で待っていました。
 10月1日(中国国慶節)の直前に家に帰省した時、弟はまだ犬を養殖をしていました。10月29日から、彼は同村の豚養殖場で”合同猪”(契約豚)の養殖の仕事をし始めました。わずか2カ月の豚養殖生活で、弟は明らかに痩せていました。大学卒業後、村で養殖業の道を選んだ弟のことを思うと、私の心情は複雑で矛盾です。母ながらに言うには、”養殖場に縛られて、どこにも行けない、清潔な服を着ることすら難しい”です。私が弟に”最近調子はどうですか”と聞いたら、弟がいつものように”元気ですよ”と答えくれました。”豚養殖での仕事はきつくないの?”と尋ねると、弟は”養殖場には自動給料装置があるから、重労働はないです”と答えくれました。さらに、”豚舎の臭いはきつくないの?”と続ける聞くと、弟は笑って”鼻がもう慣れちゃったです。長く嗅いていると感じなくなるんですよ”と話ししくれました。

 車で家に向かう途中、弟は主人と私の生活や仕事のことを気遣ってくれました。弟は主人のことをとても尊敬しています。しかし、弟が深圳から村に戻ってきてから、二人は直接連絡を取ってません。主人と私と結婚後7年間別居していたことがあり、仕事ばかりに集中した彼には、弟の”顾家”(家庭を重視する)の性格をどうしても理解してくれないそうです。私は弟に、”主人と二人の子供が二日間休暇を取って、1月30日の昼に車で家に帰ってくれますが、家に着くのは深夜になり、そして、31日の夜、彼は煙台から上海を経由して深圳に行き、取引先の会社の正月パーティーに参加後、1月1日の夜に再び上海を経由して深センから煙台に戻る予定だ”と説明しました。弟は私たちが都市で空労するのを心配しますが、私は弟が村で空労するのを心配しています。お互いが生計に忙しくて、血のつながった姉弟であっても、お互いの考えを変えることはできないと分かります。顔を合わせる時間は短いですので、2人ともこの瞬間を大切にしています。

 契約豚とはどんなモデルなのか、以前は特に気にかけなかったです。このたび、弟が関わることになったので、弟に聞いてみました。
 弟の話によれば、契約豚は伝統的な個人養殖とは異なり、”企業+農家”の協力モデルです。契約を結んだ農家は豚舎などの施設と労働力を投入し、企業側が豚の稚苗、飼料、医薬品を提供するとともに技術指導を行い、成豚を契約価格で回収する仕組みです。養殖農家の主な収入は飼育手数料です。ウイルス感染リスクを低減するため、農家が企業の標準化プロセスを厳守しなければならないです。稚苗を養殖場に入ると、養殖場は半年間の閉鎖的管理を実施します。従事者は外出が禁じられて、生活物資はすべて企業の技術員が代行購入になるらしいです。今回の帰省は弟に会えないかもしれないと思っていましたが、彼が養殖場に入って2カ月、豚の生育状況が安定し、健康状態が良好のため、雇主が2日間の休暇をくれました。
 十数年前から、村の広大な農田が豚養場や鶏養場に改築されてきました。その時期、我が家も貂の養殖場を建築しました。弟は村に残る少ない若者の一人として、養殖業者同志たちとの関係が良いです。豚舎が大雪で押しつぶされるとき、弟が真夜中に駆けつけて修繕の手伝いに行ってあげて、向こうに鶏や豚が死んでしまったら我が家にくれて、我が家の貂や犬の飼料として利用していました。今回の雇用主も、弟の養殖業の友人です。

 村には、養豚舎が約30軒あり、一軒あたり約1000頭の豚を飼育できるらしいです。農家たちは自力で1~2軒の養豚舎を保有のもいれば、共同で出資して1軒の養豚舎を経営する形態もあります。同じ村の養殖者ても、契約する協力企業も異なります。養豚舎1軒の投資費用は約60~70万元で、普通の農村家庭にとって決して安い金額ではありません。養殖初期は特に手間がかかります。契約企業が技術員を派遣くれて、技術指導をしてくれます。1名の技術員がいくつかの養殖場を担当しますが、技術員は給餌、舎内清掃、防疫といった具体的な労働には参加しないです。1輪の養殖期間は6カ月で、順調であれば成豚が120キロに達した段階で出荷して精算され、農家は約20万元の飼育手数料を得られるらしいです。
 豚の成長が安定であれば、後の作業は少し楽になります。母のいう通りに、”人に面倒を見る必要な仕事は楽なものではない”です。特に出荷直前の豚が病気で処分された場合、養殖者の精神的な負担も大きいです。父は定年退職後、弟の養殖場の手伝い以外に、数軒の養豚場から依頼されて、病弱や死亡した豚を指定処理場まで運ぶ作業をしています。1回の配送で50元~100元の報酬が得られ、この費用は養殖家が負担になります。養殖家は費用節約のため、一定数量を溜めってから配送を依頼しています。一輪の成豚が出荷された後、養殖場全体を徹底的に洗浄と消毒が必要です。糞尿などの廃水処理だけでも1万余元がかかり、もちろんこの費用ももちろん養殖家が負担になります。
 農村の稼ぎ口が狭いです。豚養殖は鶏養殖により少しお金が稼げるため、多くの人が養鶏場を養豚場に改筑しました。養殖農家が増えれば増えるほど豚肉の相場は下落し、収益が得られなくなると、豚養殖場を閉める農家も増えてきました。これは需給法則であり避けられませんが、農民がお金を稼くのは本当に苦労するものです。

 実は、弟が豚養殖に出勤する前日、2人がWechatで通話した時に、私は”家から近い威海で働くか、それとも昆山に来て小売り店を開いて生計を立てるか”と聞いたことがありました。その時、弟が”翌日から養殖場に入ることになりました”と言いました。当時、私が驚きました。弟は奥さんと3人の子供から離れたことがなくて、養殖場は家から近いと言えば、いきなり閉鎖的に管理されて半年間も外に出られないことは誰にとってもキツイことです。弟の内心がどれほど葛藤したか想像に難しくありません。私が豚舎の刺激的な臭いと重労働を想像すると、彼の体に心配です。しかし、弟の決意は固いでした。今の私が手助けできないのなら、弟の選択を尊重するしかないと自分に説得し、養豚の技術を身につけるのも、立派な生き路だろうと自分に言い聞かせています。

 休暇した2日間、弟が威海へ行って、私の子供達に服を2セット買ってくれて、ドリアン、ホタテ貝なども沢山持ってくれました。私は弟にも多めの物資をもって帰ってほしかったですが、持ち帰れないらと言われました。豚養殖場に戻る前に、本人と住居の検体採取を行い、ウイルス検査を受けた以上、全身を洗浄と消毒もしなければなりません。さらに、養殖場に戻った翌日にならないと業務を再開できない規制があるらしいです。弟が真面目に各種の検査を受けて、彼の責任感がよくわかります。村周辺の豚養殖の密度が高くて、冬になるとウイルスが活発すると聞いています。そのため、今月の旧正月は弟が家に帰れない可能性があります。弟の仕事が順調で、旧正月に家に帰ってきてほしいと思います。

 実家で家族と団欒し、おいしい郷土料理を楽しむのほうか、”赶集”(農村の定期的に集まる市)も一つの特色だと思います。今回の帰省では、私が三回も”赶集”しました。
 “镇”(町)の集市に行くのは久しぶりでした。こちらの規模は村の近所の集市により少し大きいですが、村から10キロほど離れているため、めったに来ないです。今回、母は歯科医院に受診するので、ついでに私もこの集市に行ってみました。
 私にとって、高校三年間はこの镇で過ごしました。学校と集市は近いですが、当時、学校は閉鎖的な管理を実施していたため、自由に外出することができませんでした。寮生活をしていなかった、そして、昼食の時、集市に寄って帰れる镇出身の同級生が羨ましかったです。実は私のような寮生のほうが割合が高いです。四五十人の女子学生と一つの寮で暮らし、毎月1回自転車で家に帰っていました。当時、父が镇の農村信用銀行で勤務していたので、集市の日になると、よくおやつを買ってきてくれくれたり、母が作った餃子などを持ってきてくれたりしました。頻繁に校門で待ってくれた父の姿を見ると、クラスメイトが私のことをうらやましがっていました。

 母が診療を受けていた間、私は高校時代の母校を訪ねました。昔のキャンパスは既に幼稚園と小学校に改装され、3、4階建ての新しい校舎が建並びました。20余年の歳月があっという間に過ぎ、镇には大きな変化がないですが、おそらくこの学校だけが大きく変容しました。記憶中の運動場は広かったです。春秋の運動会になると、私がスポーツ選手として、グラスを代表し、400メートルと800メートル走を参加したことをよく思い出します。ところが、今回校門から狭くなった運動場と学校奥に残る僅かの瓦造りの平屋をみると、記録中のキャンパスの光景が消え去ったように感じました。この学校はもう私の見知らぬ場所になりましたが、大切な青春がここで確実に咲けました。

 歯科診療所に向かう途中、治療を終えた母と出会いました。2人が集市で、砂浜みかん、”冰糖葫芦”(氷砂糖あんどう)などの買い物をしました。”弟媳”(弟の嫁さん)はちょうど絵画授業が終わった姪っ子を連れて镇を通りかかったので、みんなで一緒に家に帰りました。私が車に入った途端、姪(幼名:丫丫)は興奮気味に自分の作品を見せてくれました。それは、”馬到成功”をテーマにした切り絵でした。2026年の午馬年ですから、本当におめでたい作品ですね。   家に着くと、父は既に犬のエサやりを終えて、昼食の準備を始めていました。弟が豚養殖に行ってから、父が代わりに犬の世話をしています。養殖場には10数匹の犬しか残ってないですが、犬の食量が多いです。鶏を煮込む作業とトウモロコシのおかゆを作るにも時間がかかります。

 私が家に帰るたびに、家族は必ず海鮮を準備くれます。集市のほかに、三輪車で非定期的に魚やエビなどを販売くれる移動販売者もいます。この日は、立派な”老板鱼”(エイ)と大きいな”帯魚”(タチウオ)、急凍の海エビもありました。実家の物価は決して安くないですが、海から近いため海鮮の品質が抜群です。そして、両親は物を見る目が確かで、何により、珍しいの食材でも、父がおいしく調理くれます。家族みんなで囲んで食事をする時間が本当に暖かいです。夜、弟一家が帰っていくとき、車を見送りながら、今回タイミングよく帰省できたこと、そして、弟一家が両親のそばにいてくれたことが、私に多大な幸せと感動を与えてくれたと実感しました。

 私の印象の中で、両親はいつも台所でばたばたと忙しいしながら、品品のおいしい料理を作ってくれます。家に帰るたび、両親が必ず手作り水餃子を作ってくれます。母は”丫丫”(上の姪の幼い名)が野菜餡が好きで、”嘉嘉”(甥の幼い名)が肉餡が好きだ”、”一一”(下の姪の幼い名)が場合により、時々うまく食べくれだいだ”と数えながら、子供たちが毎回どれだけ食べられるかを笑顔で話してくれました。子供たちがたくさん食べてくれると嬉しいですが、同時に食べ過ぎて体調を崩すのではないかとの心配も分かります。そういいながら、両親は白菜餡と豚肉餡の水餃子を作っただけでなく、弟が豚の養殖をしていることを考慮して豚肉を食べられないかもしれないことも配慮し、ご飯も炊きました。食卓には海鮮料理が並ぶほか、市場価格が500グラムで70元もする蚕の蛹までありました。
 私と弟は父を付き合い少しお酒を飲みました。2日の休暇後、弟は仕事に戻りました。私も2025年の仕事の締めくくをしなければなりません。あと一日すると、主人と二人の子供も煙台に来てくれます。

 10月30日の夜10時過ぎ、主人と子供達が無事に家に到着しました。両親は彼らが9時間以上車のりして疲れたことを気遣い、深夜にも餃子を炊き、豊富の料理を作ってくれました。翌日、主人が煙台から深圳へ出張に行きました。年末年始は弟も主人も仕事の通合で各自の場所で頑張っています。

 いよいよ2026年がやってきました。 1月1日、母は近所の方と一緒に石臼で”花生酱”(ピーナッツバター)を作り、その後、”包子”(肉まん)と饅頭も作りました。子供たちは綿菓子を作ったり、スケボーで遊んだりして過ごしました。

 弟媳は家でルアーの部品加工の手作業をしていたので、私も一日中手伝いました。威海は釣具関連の業者が多く、手作業の仕事も種類豊富ですが、市内の小規模な工房に集中しています。私たちの村が威海市に約20キロを離れています。距離や情報の格差などの問題で、手元に回ってくる部品は、何回も仲業者に手数料を取られて、加工代は少ない仕事ばかりです。
 今回の部品は3つの工程があり、二箇所の部品を組み立てた後、電動ドリルで締めるのです。1個あたりわずか数銭の報酬ですが、弟媳は1個1個丁寧に作業をしていました。最初、子供たちは好奇心から勇躍的に手伝おうとしていました。”10個で1角銭”と数えながら真面目に作っていました。ちょっとやっただけで、すぐに会計を求めにきました。全ての部品を加工完了し、検収してから現金決算された後、みんなに支払うと聞いた途端、子供達は興味を失って外に遊びに行ってしまいました。
 私は連続で約4時間を作業しました。そこそこ手が早いだと思いましたが、結果として加工できたのは約20元分の品だけでした。どのパーツも小さいため、目が疲れます。弟媳は電動ドリルを長い間を握り、手が腫れました。
 今回のように、1万個の部品を加工完了後、百元あまりの加工代がもらえます。下の姪はまだ幼稚園に通っていないです。3人の子供達の面倒を見ながらこのような手間かかる細かい作業を続けている弟媳は本当に偉いだと思います。弟媳は大学生です。子供3人が学校に通うようになったら、何らか収入を得られるチャンスがあればいいなと思います。

 ルアー加工以外にも、弟媳は威海地域で養殖に使われる帆立貝殻の加工の手作業も引き受けています。機械で殻に穴をあけて糸を通す工程ですが、手元のスピードが試されます。100枚を1本のナイロンラインで繋ぎ、4本のナイロンラインを1セットとします。1セットの加工代が2元です。
 弟が豚養殖をしていら、弟媳のお母さんが手伝いに来てくれました。子供達の世話を手伝し、貝殻の加工のも中心的に担当しています。私の母も加わり、二人は作業しながら雑談します。弟媳のお母さんも私の母も善良で楽観的な人です。
 母の話によると、この作業が加工をしがら数量を数える必要があります。一日間どれほど稼いたかすく分かります。なかなか手が離せる仕事だそうです。この仕事をしなくでも、寒い冬で遊んで過ごすばかりなので、むしろ少しでもお金を稼いだ方がいと聞きました。
 トラック分全部加工し終わったら、約1600元を稼げるそうです。この冬、弟媳が1トラック分を完了しました。私が帰宅の直前、2トラック分を始まりました。弟媳のお母さんの手元のスピードは速くないですが、丁寧に作業をこなせているので、どれだけ日夜を重ねて苦労しなければならないか、想像に難くありません。
 村の冬はよく雪を降り寒いです。外出して働けない人たちがこのような仕事を何年間も続けてやってきました。この作業の最初の加工代は1セット2.5元でしたが、連年下がり、今年は2元になりました。村を歩けば、家の前に貝殻完成品が山積みになっている風景を見えます。ちょうど作業中の隣人に会えると、母はいつも元気よく声をかけてあげます。隣人のご夫婦が70歳を超えています。室内に作業スーベスがないため、屋外の一角をビニールシートで囲み、その中に座って毎日数時間以上も作業を続けています。手の早い方なら、お2人で1トラック分を完成するには1か月間が必要です。この隣人のように、風が漏れる上に、暖房ももちろんない寒い環境で長時間座り続け、寒さと疲労で関節に感覚がなくなり、凍傷になりながらも、わずかな報酬のために頑張っている方も少なくないと聞きました。

 実家に帰るたびに感慨深くて、家での時間がいつもあっという間に過ぎちゃったの感じをします。YYちゃんが最近大ヒントした映画”疯狂動物城”(ZOOTOPIA)を観たがっていたので、昆山に戻る前日、弟以外に、みんなで牟平県に行きました。牟平県の様子は40年間あまり変わっていません。3D中国版映画を観て、蜜雪冰城の飲み物を買って、映画終了後はハンバーガーを食べることができて、5人の子供たちが大喜びでした。

 両親に帰省する話をしてから、両親は早くも自家製のピーナッツ油やトウモロコシ粉といった農産物を準備してくれました。主人が車で帰ってくることを聞くと、さらに一日中、車のトランクにいかにいっぱい詰められることを考え込んでいました。出発当時、綿布団、ウサギ、さらに畑の白菜やネギなどまでを用意してくれて、車内はすっかり荷物で埋め尽くされていました。
 出発直前、父は”弟の働く養殖場に寄って、道中からでも少し話をして”ように勧めていましたが、弟媳が”養殖場の内外に監視カメラが設置されていますので、勝手に会話することは禁止されています”と言ったので、私たちはそのまま昆山に戻りました。このたび、主人と弟は直接会うことができませんでしたが、弟が二日連続でビデオ通話をかけてきてくれたので、それで良かったと思います。

 元旦の日、実家の食卓に魚や肉料理が山盛りに並び、みんなで一緒に餃子を食べて、にぎやかで暖かい雰囲気でした。その一方で、弟は養殖場の雇主と一緒に、鶏肉の角煮、帯魚の炒め、冷やし玉ねぎ、トマト炒り卵の四菜で食事をしました。主人は一日で三つの都市を飛び回って、乗り継ぎの際、ホテルに泊まるのを惜しんで、ホテルのロビーで数時間寝て過ごしました。人生とは大概このようなものです。都市の職場で製品や業績のために奔走する人もいれば、田舎で生計のため辛い仕事に精いっぱいな方もいます。私一家はそれぞれの道を歩みながら、家族と自分のために、黙々と努力しています。
 2026年は午馬年で、長男も馬年生まれです。中国で、馬に関する吉祥な言葉がたくさんあります。一年一年あっという間に過ぎていくの感じます。時の流れを留めることはできないので、大切に過ごしたと思います。
 2026年、みんなが”馬年大吉”、”竜馬精神”、”馬到成功”の一年となりますように。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.12.29
高の面白い話(40)

 12月9日から14日まで、私は社長と大阪支店の同僚と同行し、インドネシアへ出張に行きました。私にとって、インドネシアに行くのは初めてで、社長と一緒に仕事をするのも初めての経験でした。

 今回の訪問日程は大阪の同僚が手配しました。社長は私にも数社の顧客訪問を手配してほしいと期待していましたが、私はインドネシアに顧客がなくて、現地の市場動向や顧客ニーズについては全く知らない状態でした。私が知り合いのインドネシアの方と言えば、熊本大学大学院に留学した時の同研究室のEmriさんと、タイの展示会で知り合った物流会社の方だけで、どちらも自社の業務と直接の関連性がありません。最終的に、出張の日程は大阪の同僚の計画に従って実施されました。
今回のインドネシア出張は、私の視野を広げる貴重な機会だと存じますが、会社にとって、私の価値はどこにあるのだろうかと自問しました。総経理は私に東南アジア市場の開拓することを望んでいて、東南アジア市場はなかなか日本製品の価格を受け入れられないことから、中国の国産製品を推奨できると考えています。それ以前、私は日本製品を中国顧客に向けて拡販していますが、競合する中国国産製品への接触は少なかったです。

 今回の出張に向け、中国関連メーカーに問い合わせをし、製品資料やサンプルの準備を順調に進めました。交流の過程で、国内メーカーの強い海外進出の熱心を感じました。国内市場の競争激化の中、海外新市場開拓は業界の共通認識となり、多くの企業が既に”出海”(海外へ展開)を先行しています。昔から”同行是冤家”、”冤家路窄”(同行は敵だ、だかたきはよく出会うもの)と言いますが、実際に、同種製品を生産するライバル企業が積極的にサンプルを提供してくれました。私達の海外ルートや顧客資源を活用することで、自社の進出コストを削減し、東南アジア市場への参入を加速させたいと考えているでしょう。お互いの市場ターゲットと顧客層が異なることもあり、各自のコア技術と核心利益を確保した以上で、”同行は敵”という狭い固定観念を捨て、互恵共生を選んています。
 残業せざるを得ない充実な日々を過ごしていると思いましたが、気づけば口の隅に吹き出物ができて、体が既にストレスを感じていました。社長と一緒に出張する際にご迷惑をかけたくないし、自身の価値を体現したいという願望からかなと思います。本質的には、中国の国産製品に対する準備不足と英語力への不安が原因でもあると存じます。

 中国からインドネシアへの観光はビザ免除ですが、今回の出張では顧客の工場やオフィスに入る予定があるため、ビザの種類が不適切なことでトラブルの発生が避ぐため、私はC2というビジネスビザを申請しました。インドネシアのビザの種類は多く分類も細かいです。ビザの発行までたった4営業日で、費用が高くて約1500元がかかりました。ビザ申請、航空券の購入、ホテルの予約、空港まで送迎サービスなど、全てが順調に進みました。その間、社長と大阪の同僚と2回の出張前の打ち合わせをし、12月9日の早朝5時に上海浦東国際空港に向かって出発しました。

 上海浦東国際空港では、2000元人民元相当のインドネシアルピアを両替しました。ネットで調べた際、人工チャネルで入国審査を受けると難癖をつけられてチップを要求される可能性があると聞いたため、200元分の小額紙幣も両替しておきました。
 この度、私は初めて約6時間のフライトに乗りました。エアバス330の大型機がほぼ満員でした。インドネシアの乗務員のサービスは良くて、機内食もおいしかったです。ジャカルタの入国手続きは意外に簡単で、もちろんチップを要求することもなくて、非常にスムーズに済みました。私は社長とほぼ同じ時間に空港に到着しました。中国の携程(シートリップ)アプリでジャカルタ国際空港から同僚に薦めた西ジャワ州ベカシ市にあるホテルまでの送迎サービスを予約していたので、現地の運転手が予約画面から乗車案内ルートを案内くれて、運転手との合流も順調でした。
 ジャカルタは渋滞が激しいと聞いていましたが、実際にはそれほど渋滞に巻き込まれることはありませんでした。空港からホテルまで約50キロメートルで、車で1時間ほど走りました。言語の壁があるため、最初運転手は私たちと多くの会話を交わせませんでしたが、暫くすると、彼はインドネシアの名産のコーヒー飴KOPIKOを取り出して、私たちに食べさせてくれました。また、どこから来たのかと尋ねてきました。社長が日本から来たこと、自分が中国から来たことを伝えると、運転手は”母が中国人で、自分は中国語が話せない”と話してくれました。その後のインドネシアに滞在した数日間、先祖や両親の世代が中国人で、ご自分は中国語を話せない方を何人か出会いました。これは、数回の大規模な華人移住と現地通婚という歴史背景が原因のようです。

 運転手がホテルの入口まで送ってくれて、制服を来たホテルのスタッフが荷物を運んでくれました。ホテルは立派で、ロービにクリスマスの雰囲気が濃くて、部屋も清潔です。ホテルとパクウォンモールと直結しているため、買い物や食事も非常に便利です。
 ホテル代金は朝食付きで1泊約400元で、シートリップアプリで予約した際に前払いしました。チェックインが終わると、社長と上階のモールで夕食を食べに行きました。足を運んだ場所ではみんなが笑顔で挨拶してくれました。インドネシアの経済は発展途上だと聞いていましたが、このモールの規模と雰囲気は立派だと思います。ユニクロが目につき、そのほかにも多くのインドネシアのブランドや香水ショップ、高級品のメンテナンス店、おもちゃ屋などがずらりでした。飲食エリアの選択肢も豊富で、日本料理が多数を占めるほか、インドネシア料理、韓国焼肉、中華料理なども揃っていました。全体として、消費水準は高い印象です。

 同僚が乗り換え便を乗ったため、インドネシアに到着したのは夜の7時過ぎでした。ご体調が優れなかったため、私たちは翌日の朝、レストランで初対面しました。
 ホテルの朝食レストランは明るく、心地よい食事の雰囲気でした。スタッフの着装が統一して、清潔感がありながら親切に接してくれました。朝食はバイキングスタイルで、インドネシア料理が中心で種類も豊富でした。選ぶのに迷った私がスタッフに尋ねると、スタッフたちは非常に親切で、誇りをもって一品一品の料理について紹介くれました。

 毎朝の朝食は、食べるものも飲むものも充実しており、大満足でした。私が現地の特色に興味を持っていることに気づいたスタッフたちは、格別に気遣ってくれて、インドネシアで愛飲される健康的な飲み物を持ってきてくれるほか、伝統的なデザートも特別に準備してくれました。朝食の料理を通して、インドネシア料理のスパイスの多様さと独特の濃厚な風味を実感できて、どの料理もすぐに気に入りました。食事後、挽きたての香り高い地元のコーヒーも味わうことができました。しかも、スタッフたちが私の名前”Gao”を覚えてくれて、いつも親切にあいさつしてくれたので、優れた待遇を受けた気分でした。

 事前予約した通り、私たちは1日1~2社顧客を訪問しました。社長はアメリカ在住1年の経験があり、同僚も海外生活の経験を持っています。お二人とも、顧客のコスト削減が傾向だと見抜いていました。顧客と挨拶してから、同僚が”この方は中国から来た者です”と紹介してくれ、私が中国国産製品を紹介する時間を確保してくれました。そこで、私は会社の製品とサービスを宣伝し、”高品質を求める場合は日本製品で、コスト削減を希望する場合は信頼性が比較的に高い中国製品を推奨できる”という二層的な提案を顧客に伝えました。中国での勤務経験を活かし、主力日本製品以外の顧客の潜在的なニーズを迅速に把握し、新分野の製品メーカーを効率よく見つけられることが、私を同行させた価値を実感しました。
 ただ、私自身には課題があります。入社4年間、日本本社製品の販売を担当してきたため、”中国製品は安定性や物性面で劣る”という固定観念を持っていました。今頃、中国製品の販売推進に転換し、優秀な製造パートナーを見つけることが大事だと存じます。また、中国で現地採用の社員として、会社の製品知識が整備されていない現状もあり、日々の業務に充実感を感じていましたが、今回の出張を通じて、自分の多くの不足に気づくことができました。顧客側には、中国製品に対する”安価で品質が低い”という固定観念があり、しかも、当社には現地でサービス拠点がないため、顧客との信頼関係構築には克服すべき課題があります。今回の出張はゆったりとしたリズムで過ごしましたが、今後は国内業績の安定を確保しつつ東南アジア市場を開拓するとともに、自社製品知識の深化と優良な中国メーカーの調査や発掘を推進する必要があると反省しています。

 顧客と食事をした日以外は、ホテルに戻り、モールで食事をしました。毎回の食事代は社長が支払って頂きました。地元の特色料理や焼き肉、中華料理などを堪能し、どれも新鮮で美味しかったです。食事の時間は皆で交流する重要な機会です。視野が広いな社長と共に食事をする際、私は遠慮せずに誠実に接し、活発な会話を楽しむことができました。また、大阪の同僚や取引先から中国に関する質問があった際には、知っている範囲で詳しく答えしました。真面目にみんなの質問に答えることが基本のマナだと思いますが、自分がまだダラダラしてしまうのが心配です。社長には私の製品知識や市場認知の不足が感じできますが、一方で、仕事に対する責任感と向上心が強い人間だと感じできると思います。

 12月14日の朝4時半、社長は空港へ向かいました。私がロビーにてお見送りをしました。クリスマスデコレーションで飾られたロビーは明るいです。フロントのスタッフが挨拶してくれて、玄関に若い従業員が隅で寝った姿も見えました。路上では車が多く走り、バイクの走行音が大きかったです。毎朝4時前後、部屋から放送の音楽が聞こえてきて、この機会をかりて、フロントかスタッフに聞きました。ご説明により、近くにイスラム教徒の集住区があり、この音が彼らの一日五回の礼拝の最初の礼拝であり、地域や日出の時刻により変動もあるらしいです。私は好奇心から、礼拝の後、人々は家に戻って寝直しするのかと尋ねたと、否定的な答えが返ってきました。礼拝が終わると、みんなは色々と整えて、バイクなどに乗ってジャカルタ市内へ通勤するのだと聞きました。
 疑問が解けてから、私は部屋に戻ってぐっすり眠りました。同僚は夕方6時半発の便でタイへ出張に行き、私は深夜11時半の便で上海へ戻ります。私たちは出発前の時間を利用してジャカルタ市中心部に向かい、民族独立記念碑を観覧しました。民族独立記念碑は独立公園にあり、ジャカルタの象徴です。

 2人が記念碑展望台への入場券を購入しました。入場まであと1時間ほどあったので、GrabタクシーでPlaza Indonesiaに買い物へ行きました。私の印象では、インドネシアの名物の一つはクワリコーヒーです。同僚のが時間に追われていることを考慮し、店員さんたちのお手伝いで、値段が違うコーヒーを何パックか買って、予約した時間段に民族独立記念碑に戻りました。
 展望台へ往復のエレベーターは1台のみで、長い待ち時間に2人とも焦りました。観覧者の多くがインドネシアの方のように、みんな地面に座って時間をつぶしました。記念碑高さ137メートルで、35キログラムの黄金で作られたトーチの彫像が飾られています。基部には博物館があり、インドネシアの歴史を示す彫刻や模型などが展示されています。展望台が115メートルにあります。周りが柵で囲まれていて、数台の望遠鏡が置いてあります。狭い空間ですが、ジャカルタ市街の形式を360度で鑑賞できました。
 時間の都合で、二人が急ぎに1階へ降りました。トイレに行こうと思ったのですが、トイレ内で手や脚を洗う方や行列を待つ方が多いため、待たずに民族独立記念碑から出来ました。独立公園は広々として緑が豊かで、地元の名物スナックの屋台や、弁当などを食べるために地面に座り込んでいる地元の人々が見られ、手で食事をする独特な習慣も目にすることができました。

 ジャカルタの街頭にはバイクが多くて、特にホンダやヤマハが目立ちます。四輪車では、日本車が多数で、BYDなどの新エネルギー自動車もみました。トラックや貨物車が行き交い、インドネシアの発 展の活気が伝わってきました。

 同僚とホテルに戻り、彼が空港に行くのを見送ってから、私はホテルの近くにあるLOFFTに買い物をしました。約1㎞の距離でしたが、交通が複雑で車両も多いため、ホテルスタッフがGrabを呼ぶことを勧めてくれました。わずか数分のドライブで卸売スーパーに着いて、私は急いで降りようとしていて、現金でタクシー代を払うことを忘れました。運転手の表情は不快でした。その後、ルピアに慣れない私が現金を数え、運転手がイライラし始まりました。3000ルピアのおつりをくれるべきでしたが、彼がないと言って、私が彼に5000ルピア渡し、2000ルピアのお釣りをくれるように頼みました。3000ルピアはわずか1人民元あたりですし、運転手の顔には嫌味が見えました。さらに、私が商品を選ぶとき、転手がやってきて、駐車場の領収書を取るにきました。領収書がないと車はモールの駐車場から出られないらしいです。領収書を渡した時、運転手の顔には嫌味を再び浮かんでいました。このような出来事は、ここ数日感じてきた温かい善意とは対照になりますが、様々な経験ができたこそが本当の生活だと思います。
 余裕があったので、私はゆっくりと商品を選ぶことができました。スーパーには種類豊富なコーヒーやお菓子がそろっていていました。スタッフたちの英語は得意ではなかったですが、翻訳アプリを使って、おすすめる地元の商品を尋ねて、大いに買い物を楽しみました。インドネシアにはビニール袋の使用制限があるらしいです。店頭がビニール袋を提供してくれなくて、スタッフが商品を段ボール箱に梱包してくれました。

 ホテルに行くGrabの運転手の態度がよくて、ホテルのスタッフが荷物をロビーまで運んでくれました。スーツケースに詰め込んむと、空港行きの予約車がちょうど到着しました。ジャカルタ空港での出国審査と国際線搭乗手続きもスムーズでした。空港で時間たっぷりあったため、ぶらぶらしてから7割引の英語の本を2冊買いました。輸入書籍がインドネシアでは高価であることを実感しました。

 今回のインドネシア出張では、様々な経験を積むことができて、温かい出会いも沢山ありました。何よりも、安全かつ順調に旅になりました。  2025年は私にとって、家庭も仕事も順調な一年でした。一年間、先生が文書をアップロードのチャンスをいただき、皆様が文書を読んでいただき、心より感謝申し上げます。2026年も生活と文書作成に頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
 では、みんなでよいお年をお迎えくださいませ。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.11.29
溝上先生の古希のお祝い会が開催されました.

 11月29日(土)の17:30から,溝上先生の古希のお祝い会が開催されました.会場は前半の近況報告会は熊本県民交流会館パレアで,後半のお祝いパーティは紅蘭亭下通店でした.
 2021年3月末に熊本大学を定年退職してから,早4年半が経過します.今は熊本学園大学に移動し,経済学部で公共政策を中心に教育・研究を行っています. 10年おきに卒業生とのOB/OG会を開催してきたのですが,退職時はコロナ禍でもあり,このところ卒業生に会う機会も減ってきていました.私が70歳,つまり古希を迎えたのを機会にOB/OG会を開催したいと復建調査設計の竹隈君に相談したところ,日本工営の八戸君を中心に,長大の古賀君,復権調査設計の宮﨑君,熊本県の孫田さん(八戸君の奥様)が準備委員となって,「溝上先生古希祝い会」を企画してくれました.11月の最終土曜という忙しい日でしたが,全国から25人のもOB/OGが集まってくれました.

 パーティだけというのでは面白くないので,私のたっての希望で卒業生に在学中の思い出や職場での活動などを3人のOB/OGに話してもらう機会を設けてもらいました.一人目は熊本市上下水道局の日高君で,インフラの老朽化と人材不足に対応した局内での業務改善や人材育成の活動を紹介してくれました.在学中も就職直後も少しひ弱な感じもあった日高君ですが,課長職になり立派になったなという感想です.2人目はゴダイベストの森さんです.彼は構造計画研究所在職時に一緒に仕事をしていた頃に社会人博士課程に勧誘し,その後,多くの共同研究を行ってきました.フランスへの視察の経験や共同開発したMAUMSの発展可能性について発表しいてくれました.最後は福山コンサルタントの天藤さんで卒論や修論時の苦労が現在の業務にとても役立っていることなどを紹介してくれました.最近ご結婚されたようでおめでとうございます.
 私自身も,熊大退職時に行った最終講義「ネットワーク均衡 発 地域公共交通再生 経由 新モビリティ 着」の続きの「熊本学園大学での甘―く厳しい生活」という発表をしました.ミクロ経済学や公共政策学を教える中で,「過密・地価高騰などの都市問題や混雑・環境などの交通問題は外部不経済を生じさせる典型的な市場の失敗であり,都市・交通政策はそれを内部化するための手法と手続きである,」といった,判で押して額に入れたような理解を改めて悟ったことを話しました.

 場所を紅蘭亭に移したお祝いパーティでは,久しぶりに会ったOB/OG同士での会話が弾みました.還暦は赤,古希は紫なのでしょうか,予め用意してくれていた紫のチャンチャンコと帽子をかぶってピース!ちょっと恥ずかしかったのですが,とてもよく似合っているのは何というべきか・・・,さすが紅蘭亭!同じ唐揚げやエビチリではあっても,街中華とはまた違って気品高く,美味しい中華料理でした.また,私が会場に持ち込んだ最高級紹興酒は絶品で,参加者に評判でした.これは9月に上海を訪問した際に高さんからお土産に頂いたものです.その後,場所を銀座通りのビアハウスオーデンに移し,各国のビールとドイツ料理で2次会を楽しみました.ここでも大盛り上がりで,気が付くと翌日になる直前となっていました,

 今回は8期(2002年卒)から13期(2007年卒)の,家庭では子育て,職場では上下から突き上げられている卒業生に会えなかったのは残念でしたが,彼/彼女たちからは大きな花束とお祝いの品を頂きました,ありがとう,各所で中心的な役割を果たしている卒業生ですが,同年代の研究者から「一緒に仕事をしているが,溝上研の卒業生は優秀」という話を聞くことは,教育・研究を仕事としてきた私にとってはとても嬉しい, 7年後,私が喜寿を迎えるときに再度集まることを約束して,古希のお祝い会は終了しました,

2025.11.16
高の面白い話(39)

 11月6日から9日まで、私が勤務している深セン分公司が全社員を対象に東京で団体旅行を開催しました。これは国内社員にとって、会社主催の初の海外旅行です。事前のビザ申請、航空券購入、ホテル手配から、日本到着後の空港出迎え、現地観光スケジュール管理まで、総経理が旅行代理店とガイドに依頼して万全な準備をしてくれました。

 私にとっては、2018年1月に主人と大阪、岡山、福山を訪れた以来、改めて日本の土地を踏むのが7年ぶりです。実は2019年まで、私は3年有効の家族滞在のビザを持っていました。2018年1月に日本へ旅行に行った期間、入国管理局に再入国申請をしませんでした。当時は、日本を出国してから1年以内にもう一度来日すれば、みなし再入国許可が使えると思っていました。確かに2016年前後、私が興味で“日本代購”(日本製品のネット通販)をしていた時期、年2、3回ほど日本に行っていました。日本のドラッグストアを中心に、高品質かつ価格が合理的な商品を身近くの友達に紹介したり小売りをしていました。“代購”をやめてから、日本に行く回数は少なくなりました。みなし再入国の機会を借りて、日本に行くリズムを保つように促したい考えがありますし、3000JPYの再入国申請費用を節約する意向もありました。しかし、時間の経つとともに、私がすっかり1年間という期間を忘れてしまい、とても残念のことでしたが、ビザが無効になりました。同時に、2009年から支払い続けてきた厚生年金保険も中止せざるを得なかったです。このことを思い出すと、私は深く後悔と自責です。

 当時、私の住民票は主人が勤務している福山市にありました。その時、私が慌てて何度もお電話をかけて解決方法を確認しましたが、政策の規定があるため、どうしても挽回できないことが分かりました。主人は“小銭を省するために大きな損失をした”と私を責めましたが、私がひどく落ち込んでいるのを見て、また“一人がすべて良いことを独占できるはずがないでしょう”と言ってくれました。その時、子育てと仕事が忙しかったし、さらにコロナ禍のことに加えて、日本に行って解決方法を確認する思いが薄くなってきて、徐々にこの結果を受け入れるようになりました。今回日本に行く際、旅行会社が一回限りの旅行ビザ申請を手配くれました。

 11月6日(木)午前4時半頃、運転手が私を迎え、昆山の2人の同僚を載せって、上海虹橋空港に向かいました。ほぼ同時に、深センと香港の同僚は香港から出発し、日本時間の午後2時頃、全員の12人が羽田国際空港で集合しました。12人の中に、日本語が話せない人は3人で、日本留学や勤務経験者は5人、初海外や初日本の同僚もいました。私にとって、7年ぶりの日本入国であり、しかも、十数年前に主人と一度だけに来たことがあった東京のため、どこへ行っても新鮮に感じました。

 午後4時ごろ、ガイドが私達をホテルまでに送りました。ホテルはロビーが広く、部屋は清潔で静かです。近くに地下鉄駅やセブンイレブン、スーパーがありました。総経理はセブンイレブンで3日間用の飲み物とスナックなどを購入し、みんなにスナックを自由に選ぶよう声をかけました。買い物はみんなに任せて私はホテル周辺の繊維通りでぶらぶらしました。ある日用品のショップに入ってみたら、190円の内起毛パンツと120円で10枚入りの3D立体マスクが気に入って、品質が良くて価額が安いと感じました。

 今夜は東京支店との宴会があり、社長も金沢から東京出張中のため、本宴会を出席しました。私が用事がないため、前をもって宴会場の外でみんなをお待ちしました。宴会場の入り口には今夜の宴会看板が置かれて、80平方メートルの個室に3卓が用意され、各座席に名前カードが置かれていました。東京支店の同僚とほっとんど初対面で名刺交換した後、社長と同卓に座り、精巧な和食を楽しみながら、乾杯や祝辞が溢れる熱烈な雰囲気に包まれました。宴会終了後、中国メンバ全員が群馬支店長のお土産を受け取り、半数の人はホテル隣のKTVで二次会を楽しみました。日本語、中国語、韓国語、英語の歌が2時間ほど響き、総経理と会計に行きました。会計完了に伴い部屋の電気が切れて、みんなが一緒に過ごした短い楽しい時間を懐かしみながら、お互い暖かいお別れの挨拶をしました。午後11時にホテルに戻り、長い楽しい一日を味わいながらぐっすり眠りました。

 11月7日(金)の観光先は河口湖でした。午後9時半にホテルから出発し、専用バスを乗ってから、総経理が事前準備のスナックをみんなに配り、1人あたりに1万円の現金も渡してくれました。食事は各自負担の日があるためです。意想外の手当なので、総経理の配慮が細かいに感動しました。全員が嬉しかったです。途中交通渋滞があったため、河口湖に着くと、ガイドが行程を変更し、お先に遊覧船に乗りに行きました。当日天気が良く微風を浴びながら富士山の雄大な景色を満喫できできました。富士山の山麓で過ごした時間が非常に貴重だと思いますし、富士山の壮麗さと雄大さに感動されて、自分にも力が与えられたように感じました。十数年前に主人と乗った白鳥の形の船が“天晴号”に変わり、時間の流れも感じました。

 昼食は地元料理の“ほうとう鍋”を食べました。レストランは河口湖の向かい側にあり、広々とした窓から湖景を眺めることができました。ガイドから、ほうとう鍋は山梨県の郷土料理で、うどんとは異なる特徴があると聞きました。セットした煮魚と惣菜は冷たい、多くの同僚が食べ残しましたが、私は全部食べきりました。食後、ガイドが隣の人気の蜂蜜アイスクリームの店を紹介し、総経理がみんなの分を買っていきました。メニューを見ると、アイスクリーム1個が700円前後もします。私が思わずに“2~3個買ってみんなで味見すればよい”と提案しました。総経理がそうしました。その後、自分が“本当に良い提案だったか”と反省しました。そんな大きなアイスクリームは一人で食べきれないだろうと思う人もいれば、せっかく日本に来たので、一人でひとつ食べたいと思う人もいるでしょう。

 時間の原因を考えて、ガイドが天上山公園ロープウェイの項目をキャンセルし、新倉富士浅間神社に向かいました。神社の入り口で記念写真を撮ってから、自由活動の時間になりました。私はここからずっと深センの3名の同僚と一緒に行動しました。私が願いを込めて参拝をして、みんなと富士山を背景に、お互いに写真をいっぱい取りました。滞在時間が1時間のみの原因があり、熊注意の標識を見たこともあり、山登りを遠慮しました。紅葉はまだ赤くなっていませんが、微風にふられながら目の前の風景を十分に楽しめました。ホテルに戻る途中、ガイドが1人1000円のロープウェイの費用を返却しました。

 夕食は本来各自負担でしたが、総経理が焼肉を提案しました。地下鉄で新宿駅に乗っていた時、全員が同じ車箱で待つと時間がかかりかつドアが突然閉まるのが心配で、私が隣の車箱から乗車しました。なんと車箱同士はつながっていないことが分かりました。携帯電話のバッテリーが少なくなってきたので、緊張にみんなの姿を確認しながら、タイミングを見て素早くみんなのいる車箱に移動しました。これで、やっと安心できました。
 総経理が豪快に和牛をいっぱい注文して、皆が食べ放題ほど焼肉を食べました。私はグリルの近くに座っていたため、肉を焼く役を引き受けました。以前はよくバルコニーでバーベキューを行い、友たちを招待していました。霜降り牛肉を火加減が良くて美味しく焼き上げる自信を持っています。私にとって、これまでこんなに贅沢な高品質な和牛を食べることはありませんでした。当時は本当にお腹がいっぱいまでに至りました。今でも思い出すともう一口食べたくなります。食事を済んで、皆で歌舞伎町一番街を通って、地下鉄でホテルに戻り、幸せで充実した一日を終えました。

 本来、11月8日は自由行動の予定でした。総経理が意見募集の結果、5人が会友やショッピングを除き、鎌倉へ一日旅に参加しました。午前9時半、私たち女性7人とガイドがホテルから出発し、鎌倉高校前駅で“スラムダンク”の人気スポットに行って、緑の電車が鉄道に走るの写真を撮りました。その後、江の島へ向かいました。島には神社があり、現代的なおしゃれな手作り工芸品や美食店も沢山あります。階段を下りながら歩くと、一歩一歩景色が変わり、風景が美いです。観光客は多いですが、参拝や写真撮影に列を作る必要がなく、非常にリラックスしました。
 江の島では、まず新鮮な刺身を食べて、その後島散策をしました。ガイドによると“江の島丸焼きタコせんべい” が地域の名物らしいです。1個500円で少し高いですが、生地が薄くサクサクでタコの旨みが充実していることを感じました。島の特色店は多いですが時間が限られていたため、午後3時過ぎに東京へ向かいました。

 夜、私と深センの同僚3人が渋谷スカイの夜景を鑑賞に行きました。高所恐怖症があり透明ガラスから見下ろすのは怖いですが、東京の夜景は本当に美しかったです。せっかくここまで来たので、皆が残念が残さないように写真いっぱい撮りました。展望台でライトショーとシャボン玉を見ながら、閉館アナウンスが鳴るまで夢中になっていました。

 ホテルに戻る途中、総経理がバーで飲もうと呼びかけ、私たち5人は駅から直接バーに行きました。深夜にもかかわらず、バーに流れる音楽が情熱です。店主がアフリカの方です。総経理が1人つづにドリンクを注文してくれました。しばらく会話すると、総経理から、翌日は同僚の唐さんの誕生日だと聞きました。日本と中国に1時間の時差がありますが、郷に入っては郷に従えという考えに基づいて、私が店主に12時に誕生日歌を流すよう依頼しました。定刻になって、情熱な音楽が誕生日歌に切り替えり、店主と店員がダンスをしはじめ、常連客まで暖かい雰囲気を作り、唐さんの誕生日を祝いました。唐さんの非常に嬉しそうな姿を見て、私も自分が正しい決定をしたことを喜びました。

 11月9日は社員旅行の最後の日でした。朝から小雨が降り気温も下がりました。私達がとても良い天気で富士山と東京夜景を見れたのは幸運だなと思います。ホテルのビュッフェでは、毎日お刺身のお茶漬けと牛肉やソーセージを美味しく食べることが出来で、大満足の朝食後、3人の同僚とホテル近くのドンキホーテへ行って、買い物をしました。5050円以上購入すると免税で、私が子供達が好みのおやつを沢山買いました。ホテルまで送ってから、また、急いでドラッグストアに行って、薬品とスナックなどを買いました。チェックアウトの時間に間に合うよう、本当に一刻を争って荷物を整理しました。
 総経理と同行して近くのレストランで昼食を食べ終わって、私は急ぎに近くの中古本屋、スーパーを回り、最後に唐さんの誕生日プレゼントとしてケーキ屋に行って、イチゴケーキを買いました。ホテルロビーに扱う荷物を取りに行く時、ちょうど空港に集合する時間でした。すべてが順調でタイミングがよくて、東京の行程は円満に終えました。

 中国では“日本経済が低迷している”と聞きますが、深夜の新宿の人出に驚きます。今回の東京旅行では、食べ物が美味しく、宿泊環境も良く、至る所に美しい景色があり、こも清潔で利便性が高い、高品質な観光体験ができました。
 業界不景気の中、会社が海外旅行まで企画してくれたことで、周りの人に羨ましがられています。11月9日深夜に昆山に帰り、10日早朝には深センへ出張しました。社長も同日深センに出張していたため、夜の会食の後、私が社長に感謝の気持ちを述べました。“本当に良い会社です”と心から話すと、社長も嬉しかったです

 主人と私は11月10日から14日まで深センに出張していました。帰宅後、子供たちが既に持ち帰ったスナックを2等分に分けて食べていました。今回の出張では、子供の面倒を見てくれた義理の母に膏薬とお菓子を渡し、実家にもおやつなどを送りしました。空港では主人のためにLVのベルトとレイバンのサングラスを購入しました。普段はけちけちしていますが、店員の提案に従って即決し、ラグジュアリーショップって自分に合わないなと存じます。
 今回の旅行では自分も結構お金を使って買い物をしましたが、久しぶりに日本に行ったので、すべてが価値があると思います。これからは生活と仕事を頑張り続けて、自分と会社の期待に応えるように努力したいと思います。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.11.01
満喫しました,2度目のしまなみ海道!

 10/31から11/2の2泊3日で,2度目のしまなみ海道ライドをしてきました.しまなみ海道と言えば世界7大サイクリングロードの一つであり,2023年4月にロードサイクリングを始めたときのコースも,しまなみ海道でした.但し,その時はジャイアントショップからのレンタルバイクでした.その後購入した

自分の自転車でもう一度,しまなみ海道を走りたいという気持ちが再挑戦の動機です.今回は松山在住の次男と一緒に走りました.妻と次男のお嫁さんは車でサポート.着替えなどは宿まで運んでもらえたため,楽なライドとなりました.

 10/31(金)に妻と輪行バックに入れたバイクと共に,最寄のJR駅までタクシー,そこから豊肥本線で熊本駅へ.熊本駅からは大型荷物スペース付きの指定席を予約しておいた九州新幹線さくらで福山まで行き,そこから山陽本線で尾道まで戻るという経路です.到着後は皆で尾道観光.これまでに2回,来たことがあるのですが,その際は大宝山の中腹の細くて急な坂道街路とその沿道にあるカフェ止まり.今回は千光寺,そして頂上の千光寺頂上展望台PEAKまで登って,尾道水道や向島,そしてはるか多々羅大橋までを眺望しました.その日は海岸沿いのホテルに一泊し.近くの居酒屋で瀬戸内海の魚と酒を堪能しました.

 翌11/1(土)は9:00に出発予定で,前日から自転車は組み立てて準備万端,即スタートのつもりでいたのですが,ホテルの朝食が素晴らしく美味しくてゆったりしてしまったり,私がリーダーでライドするのは初めてで手順通り進まなかったりなどもあって,結局は向島への渡船は9:30ころになりました.向島に降り立ち,スタートラインに着いたときには2年前のあのワクワク感と緊張感と同じ気持ちになりました.ライド以外のこの日の目的は,前回のライドでは通過した平山郁夫美術館です.シルクロードをモチーフとした日本画は吸い込まれるようで素晴らしかった.2年間の間に価格,質とも悪化したのか,近くで食べた昼食の穴子丼は名物と言いながら今イチで,コスパも良くなかったのは残念.勿論,多々羅大橋を背景にサイクリストの聖地でもパチリ.

 当日は3連休の初日とあって,今治までの途中の宿がなかなか見つからなかったのですが,次男が頑張って探して空いていたのが大三島の大三島インター近くにある農家民宿とと・かか.トイレ・シャワーだけでなく,自炊や洗濯,バーベキューも可能で,本業の農作業だけでなく,陶芸や書道も1級品の元気な「とと」と静かな「かか」が切り盛りしている1棟貸しの民宿でした.余裕があればもう1日,畑で取れた野菜でバーベキューや農作業のお手伝いをして過ごしたくなる農家民宿でした.素泊まりだったので,近くの食堂を探したのですが,連休一日目にも関わらず,休業の店が多く,ようやく見つけた海鮮居酒屋は有名人の色紙が壁一杯に貼られているような,その地区では有名な居酒屋だそうですが,品揃え・値段・味,三拍子そろってちょっと酷かった.ただし,そこにたどり着くまでに立ち寄った大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は山の神であると同時に,大海原の神,渡航の神とされており,国指定重要文化財の本殿・拝殿,樹齢2600年(ホンマかいな?)の御神木の楠,全国の国宝・国重要文化財の指定を受けた武具類の約8割を所有する宝物館は,瀬戸内海の小さな島にある神社とは思えない立派で荘厳な神社でした.勿論,御朱印を頂いてきました.

 最終日の11/2は予定通り,9:00には出発.残りはしまなみ海道最大の区間である来島海峡大橋を含む40Km.次男の自転車は学生時代から使っているボロボロのクロスバイクで,彼は脚力では私に数段勝るので,坂道では私は置いてきぼりになるのですが,車体が重いのと自転車の性能のためか,車輪の回転に大きな抵抗があるようで,最後の長い長い来島海峡大橋の上での向かい風には苦労したようで,彼を置いてきぼりにして快走できたのは快感でした.来島海峡大橋を渡る直前にある亀老山展望台から見た瀬戸内海栗島海峡に浮かぶ島々と来島海峡大橋の眺望は,山の南阿蘇から臨む阿蘇五岳に並んで,海の絶景でした.

 

 今治に着いてから,街中華で今治のB級グルメで名前そのままの焼豚玉子飯を頂き,その後しまなみ温泉喜助の湯で汗を流し,自転車を畳んで輪行バックに入れてサポカーに積み込み,帰りは次男にしまなみ海道を車で福山まで送ってもらいました.福山駅では1時間半ほどの待ち時間があったのですが,夕暮れ時にライトアップされて白く浮き上がった福山城とバラのゲートのコントラストはまるで童話の世界のように美しかったです.
 さすがに歳のせいでしょうか,1泊2日ののんびりスケジュール,全行程70kmで平均時速18km/h程度だったにもかかわらず,さすがに疲れました.特に疲れて大変だったのは,10kg程度とはいえ,家からしまなみ海道までの往復の輪行でした.次は私をサイクリングの世界に引きずり込んだ仲間が計画している来春のビワイチです.

2025.09.12
JCOMM2025in札幌で口頭発表を行いました.

 今年のJCOMMは札幌開催です.さらに,「グリスロによるオンデマンド乗合タクシー「のるーと上熊本」の利用促進のためのナッジ戦略」というタイトルで発表申し込みをしたのもあって,参加を楽しみにしていました.しかし,直前になって経理から「旅費が予算額を超えます」という指摘があり,慌てました.本学では予算費目が図書費と旅費とPC関連費に分かれ,年度当初にそれぞれの額を自ら設定して,その範囲で支出されます.9月に金額の変更ができるのですが,下限額が決められており,論文や報告書等はオープンアクセスできる時代に,図書(紙の本)費の下限額15万円は削減できません.毎年多くて3万円程度しか使わないので,残りに12万円は大学に戻しています.これも大学の予めの魂胆なのでしょう.どうにか,PC関連費から移算してJCOMMに参加できました.観光シーズンとあって,ホテルは普通のビジネスホテルですが,宿泊費は通常の3倍,22,000円/日でした.

 今回,私の登壇は2回あり,一回目は1日目午後からのパネルディスカッション「The past and next 20 years ~MMのこれまでとこれから~」でした.これは学・民のJCOMM理事11人がパネリストとなり,コーディネータの神田呉高専教授の質問に対して,スケッチブックに言葉や絵で回答するというものでした.

 問いかけられた3つの質問と私の回答は以下です.

質問1:MMと聞いて受けた印象は?
回答:ゆるーッ!
質問2:JCOMMは20年も続くと思ったか?
回答:藤井代表理事がいる限り続く
質問3:今後のMMに期待することは?
回答:MMをもっと科学に!
 いずれも主流や肯定的な回答とは異なる抵抗的で反主流的な回答でした.

 おそらくはそのタイトルに🌟ワードが多くあるのが理由と思われますが,申請をした多くの発表中から事務局に推薦されて,口頭発表の機会を与えられました.熊大定年退職以後はろくな研究もしていないし,自信のある研究以外は学会での発表はひかえていたのですが,上記の3つめの質問に対する回答の論拠にもなる「のるーと上熊本の利用促進のためのナッジ戦略の有用性」を,独自に収集したデータとモデル分析によって説明した口頭発表を行いました.聴衆に理解されたか分かりませんが,谷口綾子筑波大教授からは鋭い質問と研究スタイルに対する共感をいただきました.研究半ばなので,今後の継続的に研究を推進していこうと思います.

 MMはモビリティのマネジメントから中心市街地の活性化や高齢者の生きがい増進などの社会的課題の解決にまでにも発展しています.その意味ではこれまでモビリティのマネジメントの実践の経験や成果は有用です.私も解決すべき社会的課題に関わっていきたいので,反主流でありながらも積極的に関わっていきたいと思えたJCOMM2025でした.

2025.10.09
高の面白い話(38)

 10月1日から8日は中国の国慶節と中秋節が重なる連休でした。“公公”(主人の父)の70歳の誕生日も近づいていたため、今年の国慶節は安徽省で過ごすことになりました。往年と異なり、昆山から主人の実家へ一気に向かうのではなく、途中で観光しながらのドライブ旅行を楽しみました。

 10月1日午前9時頃、私一家は昆山から出発しました。主人は京沪高速を避けて、312国道を選びました。渋滞はほとんどありませんでしたが、走行中に多くの車が緊急車線を無断で使用して猛スピードで走行するのを見て、主人が我慢できず、わざと車を2車線分を占拠し、勝手に緊急車線を走る車両の通行を妨害しました。主人の行動も正しくなくて危ないだと思い、“自分のことだけよくすればいい、他人のことには干渉しないで”と言い聞かせてから、目をつぶって黙り、やがて眠りました。
前日、煙台の実家から昆山に戻ったのが深夜だったこともあり、グスッリ眠って起きたら午後1時も過ぎました。江蘇省溧陽市のある村に通過していたところ、村の入口にはサトウキビを伐採し、生搾りサトウキビジュースを売る屋台と、昔ながらの製法でポップコーンを作る流動小商販が見えました。私も子供たちもサトウキビ園は初めて見たので、車を止めると、主人が2人の子供を連れて畑へ入り、サトウキビの伐採体験をしました。この時期のサトウキビは甘みがまだ薄かったですが、自分で選んで伐採する新鮮な体験が子供たちを喜ばせました。小村を一周回ると、全村の計画が整然として立派で、村民の大半は二階建ての家に住んでいました。麻将をする人々が集まっていてましたが、軽食店や商店が見当たりませんでした。子供たちがカップ麺を食べたがるため、我たちは旅を続けました。

   

 午後3時過ぎ、ついに安徽省の人気のドライブルート“皖南川蔵線”の東入口に到着しました。ここにある2軒の小店は繁盛しており、店主は笑顔で“どちらも僕の店で、自由に座ればよい”と声をかけてくれました。子供たちが好みのブランドのインスタントラーメンを選び、主人と私は郷土料理を注文しました。空腹だった4人は美味しく食事を済ませて、店を出る時、子供たちはさらに2本ソーセージを買いました。
これまで、私が近年人気急上昇した“皖南川蔵線”の名前すら聞いたことがありませんでした。このルートは東が寧国市青竜郷から、西は涇県蔡村鎮に至り、全長約120キロで、主に山間の曲がり道で構成されています。平坦な道では重なり合う山の景色を眺められ、カーブには集中して運転する必要があり、高速道路の単調さや観光地の混雑さより心地よい、運転が好きな人には人気らしいです。私が一番気に入ったのは、車窗をあけて好きな音楽を聴きながら、涼しい風に顔を当たる感じです。子供たちも車窗を開けることが好きで、気持ちよさそうに安らぎに座席を座りました。広く平坦で監視カメラのない区間では、私が天窓を開け、子供たちが順番に頭を出して、景色を眺めてあげました。これは普段決してしないことでした。道中には、散在する村や観光スポートがあり、車を止めて川辺で小石を拾いて水遊びしだり、ダムの青石の橋を歩いたりをしまして、時間がゆっくりと流れているように感じました。

     

 午後6時半に皖南川蔵線の全行程を走り終えました。途中の車の数がかなり少なくなり、私達の車の前には1台のベンツがあり、その天窓から豹柄の服を着て髪を解いた女の子の上半身が突き出ていました。この風景が我が家の一時的な話題となり、次男の豆豆が彼女を“野生小女孩”(野生の女の子)と呼んであげました。皖南川蔵線の西出口付近では民宿の数が増えてきて、“野生小女孩”はここで停車しました。この地域の民宿料金は300元前後でした。私たちは山道を走り続けて、人気スポットの六道湾展望台へ向いました。山の夜は真っ暗です。主人はしばらくドローンを飛ばし、私が展望台の小売り場で子供たちにミツバチの巣蜜を買ってあげました。子供たちは屋代に置いた3Dプリンターで作られたドラゴンも欲しがってましたが、観光地の値段が高いため、代わりにネット通販で注文することにしました。
展望台を出ると、涇県蔡村鎮へ向かりました。“月亮湾”という観光地はこの町にあります。車を走らせながら、この町の夜経済の活気が目に飛び込んできました。“焼烤”(バーベキュー)の露店からは香りが立ち上り、観光客はビールを飲み、カラオケを歌い、店は客引きのため花火を打ち上げ、メインストリートは明かりに輝いていました。主人は“ここに来て正解だね”と興奮して、“人はやはり光を求める生き物だ”と感慨しました。二人が今夜ここで宿泊することを決めました。すぐ携程と美団アプリで客室を探し出しました。
町には百軒以上の民宿があるらしいです。主人と私がそれぞネットで探した結果なんと同じ民宿を選んでいました。この時、子供たちはすでに眠っていたので、私一人が値切りに行きました。女将は3階の川に面したバルコニー付きの大きな木造部屋と、メインストリートに面した小さな木造部屋を案内してくれました。子供たちが快適に住めるように大きな木造部屋を選び、320元から260元まで値切れました。もうすぐ夜8時になり、ネットでの新規予約もないはず、空き部屋は放置しても無駄だと思った女将は快諾くれました。
荷物を部屋に運んだ後、急いでカラオケ設備のあるバーベキューの露店店へ行きました。注文を済ませて、観光客の歌を聴きながら食事を楽しみました。この日は国慶節だったため、軍歌や愛国歌が次々と流れされました。歌を歌うのは主に70年代生まれや80年代生まれの人たちで、ある男性は酒に酔いながらカウンターで踊りながら歌い、その誠実な感情が大きい拍手を引きました。附近の住民に迷惑をかけないため、カラオケは夜10時までで終わり、その後、スクリーンで映画<長津湖>の放映が始まりました。私達が民宿に戻り、この日、主人は約10時間に及ぶ運転を終えました。

   

 翌日の朝6時過ぎ、主人は早起きしてバルコニーでのんびりタバコを吸いながらスマホを見ていました。朝の散歩やジョギングをする人々は川沿いを歩き、景色を楽しんでいました。蔡村は“中華モウソウチク第一町”と呼ばれ、自然環境が良いです。滞在している民宿はメインストリートの中心に位置し、民宿を出るとにぎやかな朝市がありました。地元の小売業者はカゴに野菜、肉、大豆製品などを並べて売っていました。私たちはプラスチック素材で編まれたバスケットを40元で買い、ゆっくり朝市を巡り、バスケットはすぐにいっぱいになりました。観光業が発展しているせいか、この村の物価は昆山とほぼ同じと感じました。
7時半頃、子供たちを起こして朝ご飯を探しに出かけました。村の奥に入って湯包(小籠包)店とラーメン店がありました。主人が油条(ヨウティアオ、油揚げ)店で食事にすることを決めました。店頭における油条が少し黒ずんで、狭い店の中に犬を飼っていて、衛生環境はあまり良くないと感じました。店に入った時、店主は“漬物は無料だが、汚さないで”と言いました。私たちが注文する時にも、同じことを再び言われて、しばらくすると、私が漬物を取ろうとした時、店主は三度目に”汚さないで“と注意してきました。店主の口癖だろうか、私達にあたっているのか、どちらにしても私は不快に感じました。主人に“ここで食べたくない”と言ったのですが、主人と長男はそのまま椅子に座り続け、次男だけがどうしても私についてきたいと言いました。女将さんは店主に文句を言いながら笑顔で私に挨拶してくれました。私は次男と一緒にお店を離れて近くの湯包店に行き、湯包と豆浆(ドウジャン、豆乳)を注文しました。次男が私を支えてくれたことに感謝する一方で、自分の気持ちは落ち込んで食欲がありませんでした。
民宿に戻って荷物を車に運ぶ時、主人がからかってくれて、私はつい怒りを爆発しました。“私がそこにいないのに、どうしてあなたは平気でおいしく食べられるの?”“今後、外で私と一緒にいる時は、必ず私のそばで支えてくれないといけないだ”と思い切り文句を言いました。民宿のオーナーは私たちに挨拶にしてくるつもりだったが、私が泣いているのを見て、引き返しました。蔡村からでて、主人も一言も話さず、私も景色を楽しむ気持ちを完全に失ってしまいました。子供たちもその雰囲気を察して、静かに自分たちで遊んでいました。その後、十数キロ離れた場所まで誕生日ケーキを買いに行き、昼頃やっと主人の実家に到着しました。

 主人の兄と姪は既に着いて、その日、私たちは公公(主人の父)の誕生日を前もって祝っいました。夜、全員で誕生日歌を歌い、ケーキを食べました。昔の時代では、70歳になると“老態龍鐘”(老け込んで体が不自由だ)という老人のイメージ図がありましたが、今の時代では70歳でも若者のように元気な方が多いです。私は事前に準備した金のひょうたんの飾り物(中国で“ひょうたん”と“福祿”は同音)を贈り、公公に祝福を伝えました。
公公はバイクで転んでから2、3ヶ月間休養中で、婆婆(主人の母)も“打工”(アルバイト)を止めて、毎晩おいしい料理を作ってくれました。村は辺鄙なところですが、村と道路の整頓が完備で、お茶の季節を除いて、村人たちは“打工”で収入を得ます。多くの人は家に鍵をかけて他の省へ出稼ぎに行っています。村民は耕作も家畜の飼育もしないので、“打工”をしない日は遊ぶことが多く、日常の雑用は少ないです。野菜も買う必要がなくて、都会の人の状態になりました。
婆婆の家では一年中に米を食べます。公公は面類が好きなので、私が帰るたびに、必ず一回餃子か包子(肉饅頭)を作ってあげます。今回は煙台の実家から持ってきた新鮮な豆角(さやえんどう)と村で買った黒豚の肉を具にし、隣人が送ってくれた小麦粉と酵母を使い、膨らんだ包子を蒸し上げました。大きい包子5個を隣人に差し上げ、久しぶりに手作り包子を食べるみんなから好評を得ました。
二日間、村には休暇で若者たち(村民の子女)が帰ってきており、川は人気スポットになりました。川水が少し冷たいですが、泳ぎの人がいました。主人は川で網を撒き、釣りをして魚を捕り、網を引き上げると人々が集まって見物し、にぎやかでした。子供たちは隣家の同年代の子供たちと遊んで、ゆっくり休日を過ごせました。

 10月4日の夜、夕食後、家の前には涼むの近所の人たちが集まりました。主人は私が買ってきた月餅を取り出し、中秋節を前もって祝いました。兄さんと侄が10月5日に深センに帰るので、主人は兄と同じ日に戻ると決まり、“まだ両親に嫌われていないうちに、早く帰ろう”と冗談を言いました。
山の中は蚊が多いので窓を開けられないです。エアコンがないため、部屋は蒸し暑かったです。夜明けには犬の鳴き声と、野菜を売る声、村民の会話声がしました。村民は早起きが習慣で、私が7時前に起きても公公と婆婆が既に朝ご飯を食べ終わりました。主人の話によりますと、昔から村民が“遊飯”(ゆうはん)の習慣があります。碗に料理を盛って、庭に立ったり、歩きながら話しをしたりして食事をします。主人の実家にいると、私も食卓にひとりで座って食べるよりも、この自由な食べ方が好きです。食事を済んでから、いよいよ出発の時間になりました。

     

 10月5日午前10時半頃、黟県(イーケン、安徽省黄山市に属す)に着きました。兄さんと姪は黟県に住む舅舅(おじさん)の家に行ってから高鐵駅に行き、私一家は主人の取引先である王総の家へ向かいました。王総と主人は一度しか会ったことがないのですが、王総が主人は自分の“大表哥”(おにいさん)に似ていると言い、また、二人とも安徽省黄山市の出身で、“称兄道弟”(兄弟分け)をしています。王総の家は休寧県(キュウネイケン、安徽省黄山市に属す)の黄村(ファンツン、村名)にあります。主人の下の営業担当者も新婚の奥さんを連れて上海から車で来ました。
王総の母と奥さんは沢山の料理を作ってもてなしてくれました。王総ご夫婦にも二人の男の子がいます。食事後、王総の母と奥さんが食卓を片付けて、四人の子供はそれぞれスマホやタブレットを持って二階に上がり、エアコンをつけながら各自に遊びをして、王総が私達を黄村のことを案内くれました。ご紹介により、黄村には1200年に及び歴史があり、国家級の歴史文化名村、中国伝統的村落などの称号があり、歴史上、12人の進士(しんし)が養育したことから“進士村”の美名を享有しています。この村は観光業を発展させて、有名人も村に来て娯楽番組を撮影しました。村落は“ひょうたん型”をしており、数十棟の古民家が現存しています。“黄村進士第”や“黄村小学校”はいずれも重点文化財保護単位になっています。私たちが見学した時、改修工事は活発に行われており、多くの観光客が豆腐作り体験などをしていました。馬小屋を改築してカフェに観光客が溢れて、人の世話を必要としない先進な民宿や村歴史博物館もとても格調が高いです。王総の家に戻り、お茶を暫く飲み、政府が400万元以上を投資して村のために建てた“水庫”(貯水池)も見に行きました。王総の母はお話し好きで、意志が強い方です。ご自身の家を民宿に改装し、観光客を招く計画をしています。王総も民宿の前にプールを作り、村に特色ある民宿にしたいと思っています。王総のご家庭は、郷村文旅ブームに乗ることができたなと感慨します。

     

 王総ご家族と別れた後、私一家は数十キロ離れた木梨硔(ムーリハン、村名)景勝地へ向かいました。主人の話によると、木梨硔には400年以上の歴史があります。明朝万暦年間に山頂に逃げる人がここで定住し、子孫を繁衍しました。数百年の間、村は交通が不便で外部との接触が少なく、村民は自給自足の生活をしていました。2010年、ある写真家がここで撮影した高山の雲海の写真が賞を受けたことをきっかけに、この村の独特な地理地形と生態環境は注目を集め始めました。“写真撮影スポット”、“中国伝統的村落名録”、“美しい郷村”などの称号が次々と獲得し、ネットとショートビデオの拡散により郷村観光地として知名度が上がったようです。
主人はお酒を飲んだので、運転は私に替わりました。私はMTを運転していましたが、主人の車はATで、幸いにも山間部の道路は平坦で、車も少なかったです。緊張感があり、音楽を聴ける余裕がなくでも、安全に坂道の入口まで運転することができました。坂道の運転はやはり主人に任せます。木梨硔の地勢が高いです。険しくて石が多い小道に沿って車で山腰にある駐車場に行って、さらに徒歩約20分を使い、800段階段を登ってから着きます。休暇日のせいか、山の麓から車が一台つぎに山側に沿って駐車されており、反対側の道幅は一台の車がぎりぎりに通れます。私は度胸が小さくて途中で何度も主人に“車を止まって歩いて行こう”と催促しました。カーブのところに来ると、道が渋滞して前に進めず、Uターンもできませんでした。3、4台の車がここで半時間以上試して、ようやくギリギリUターンのスペースを作り、主人といち早くもここを離れました。山の麓に着いた時は既に夜が深くなっていました。
山頂の民宿を前もって予約した人たちは頑なに上に進もうとしていた姿を見て、本当に危ないだと思います。山頂の民宿は約4、500元にもします。また、多くの物資が人力で山に運ばれるため物価が高いと聞きました。安全リスクも無視できないため、いち早く撤退するのは正解だと思います。
大通路で交通警察が飲酒運転検査をすることを心配して、引き続き私が運転し、高速道路を通過した後、主人に運転を譲り、目的地の“西溪南古村落”(村名)へ向かいました。

 西溪南に到着したのは午後8時近くでした。いつものようにネットで適切な価格の民宿を検索した後、店に行って値切りました。ここの民宿は商業化が進んでおり、装飾が美しいですが、大部分の民宿の価格は一晩300~400元で、大通り沿いの民宿はほとんど満室でした。女将さんがご経営している二軒目の路地裏の民宿を案内してくれて、一階には1ベッドの部屋が一室だけ残っていて、最低200元で貸してくれました。狭かったですが、主人は“良い”と言ったので、その晩はここに泊まりました。隣の民宿のヤードにバーベキューがやっていて、夕食はそこで済ませました。味がおいしいため、烤鱼(焼き魚)を追加注文したくて、“半分辛いのと半分辛くないと伝えてね”と息子たちに伝言を頼んだところ、長男は行きたくなくて、次男が大人しく行ってくれました。暫くすると、店主が小さなイカ(鱿鱼と烤鱼の発音が似る)をもってきて、“小さいですが、半分辛いのと半分辛くないのにしました”と説明くれました。私たちはイカを受け取り、三人で思わず大笑いしました。
バーベキューを食べ終えた後、村の周りを散歩しました。村に明かりが輝き、観光客が往来しており、商業雰囲気が強いです。宿泊先が決まるまで、人が浮いたように不安でしたが、一階の小さな部屋でも心が落ち着かせます。民宿のベッドは乾燥していて、一日中疲れた私たちはぐっすり眠れました。

 翌日、朝ご飯も提供されていて、意外にも豊富でした。店主夫妻は安徽省合肥市(ホーフェイシ)で働いて定年退職した後、この村で70万元を使いマンションを買い、療養用のつもりだったが、政府から何度も民宿経営を勧められて、民宿を始めたと聞きました。夫妻は“一日中疲れて死にそうで、うんざりだ”と愚痴をこぼしていました。彼らの話が本音なのか、それとも心の中で笑ってるか分かりませんが、政府の大力な支援を受けてお金を稼げることは、多くの人が羨むことです。もし私がこのチャンスがあれば、疲れても喜んでやりますね。
村にある観光スポットの名は“綠野仙踪”(緑のオズの魔法使い)です。この名前は映画<オズの魔法使い>に由来したかなと思います。入場料が無料で、川に架かる石橋を渡ると、林がある湿地で散歩することができます。川は幅が広く、遊覧船や竹筏での喫茶などの有料プロジェクトもあります。川の沿いには子供の水遊び用具、干物、手工芸品などがずっらりで、人込みがありにぎやかな市街地になっていました。子供たちは騒ぎをして、泣いたり笑ったり、ここで半日を過ぎました。12時、民宿に戻りチェックアウトし、高速道路に入る前に“徽州料理”(安徽省の地元料理)を食べて、昆山市へ向かい ました。

     

 10月6日は中秋節の日だったので、昆山に帰る道は渋滞しなかったです。4人でこの数日間の体験を振り返り、様々な話題をしたところ、次男が私に、“姥姥(私の母)の家と奶奶(主人)の家、どっちが面白いと思うの”と尋ねました。“姥姥の家には雪があり、奶奶の家には川がある”と独り言をしました。私は“ママはもう遊ぶ年齢じゃないよ、ママには悩み事があるの”と答えました。行く場所が増えるごとに、国家の“郷村振興”“貧困脱却”が多くの貧困地域を劇的に変えたことと、故郷の煙台市牟平区は数十年も変化がないことに比較してしまいます。煙台出身としての優越感はだんだん薄れ、社会の発展の快適さを享受する一方で、故郷の発展遅れに焦ります。主人は“无病呻吟”(無用な悩みをする)と言ってくれて、確かに、私の見ているのも表象で、良い悪いの判断基準は人それぞれです。
昆山に帰ってきたのは夜9時半になっていました。“每逢佳節倍思親”(佳節が来るごとに、親族を思う気持ちが一層強くなる)です。今年の中秋節は実家に帰って団欒できなくて、両親と弟一家がますます良くなることを願います。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.08.31
高の面白い話(37)

 7月と8月は子供たちが故郷に帰り夏休みを過ごす季節です。往年のこの時、私は何度も金曜日の夜“緑皮車”(グリーンカー)に乗り、安い交通費で一晩かけて未知の都市へ向かい、ひとりの短期旅行を楽しんでいました。名所を巡り、地元の小吃を味わい、新しい環境を感じながら、沿道で様々な悟りと一時的な思いが浮かびました。去年、私は緑皮車に乗り、洛陽と南昌を巡りました。視野がどれほど広がったかは言えにくいですが、一人で一つの都市を探索する満足感から自信を増やし、エネルギーを補給くれたように感じます。
 今年の旅行先は泰山に決めました。泰山は中国の五岳(東岳泰山、西岳華山、南岳衡山、北岳恒山、中岳嵩山)の首で、山東人の私として、一度登ってみたいと思います。玉皇頂で日の出を見て、“会当凌絶頂、一覧衆山小”の泰山の雄大さを体感し、体力と精神を鍛えたいと思います。しかし、現状は思うようにいきませんでした。

 七月の猛暑の中で、私は“怕寒”(寒がり)になりました。時に、汗が止まらなくて、無力感を感じました。次男を生んだ時の症状と似っています。体からの健康警告は私にイライラと不安を感じさせ、泰山の登山ガイドを見るたび、自分は登れないだろうと不安になりました。私は“中医”(漢方医)の方法で、体に入り込んだ風邪寒気を取り除き、気血の不足を調整し、“中薬”(漢方薬)で身体全体の内環境を改善したいと思っています。

 中医の先生と言えば、昆山では郭先生を一番思い浮かびます。2017年に次男を産み、42日の“坐月子”(産後のケア)期間を終え、屋外で風を受けると異常に寒がりになりました。主人が仕事で忙しかったため、私を安徽省に送りました。1週間も住まないうちに寒がりの症状が悪化し、私が急ぎ昆山に迎えられました。友人の紹介で郭先生を訪ねました。ご処方した漢方で体調が改善しました。当時専業主婦だった私は“社保”(中国の社会保障の略称、政府主導する制度で、養老保険、医療保険、失業保険、労働災害保険、出産保険が含む)がなくて、一剤(7日分)約四百元の薬代を自腹で払うのは渋りました。二剤で症状が緩和したら薬をやめてしまいました。あれ以来八年間に2度受診して、同じ状況でした。今回病根が再発の原因は、前期の巩固と強化が不足と存じます。今の私には“医保”(医療保険)があります。薬代がほぼ全額控除されますし、この機会にしっかり体を調整しようと決心しました。

 先生は毎週三か所の小規模の診療所を巡回します。彼の職位は分かりませんが、予約も他の医師の名を借りて行いますが、患者の行列はいつも長いです。郭先生の診察は“望、聞、問、切”を基づいて行われ、特に“問”(問診)に時間をかけます。私は事前に携帯電話のメモにて体調の不具合を記録し、郭先生は病歴も聞いてくれます。郭先生は容貌が端正で、口調が穏やかで、経験豊富で相談しやすい方です。私が十年近く前の病根の再発で焦った時、先生が“治せる”と確かに言って励ましてくれました。
 “望”(望診)と“切”( 切脈)のとき、郭先生は私の手首の動脈で脈の速さや強さを感知、顔色や舌苔を見て体調を判断します。“望、聞、問、切”で得た情報から、私が“陽気不足と肝気鬱結”と診断されてました。郭先生が“君臣佐使”(薬効を高め副作用を減らし、気血や臓腑の平衡を調整して病気を治す)の原則に基づいて処方くれました。

 一剤の薬材は20種類前後で約600元です。漢方薬には“自煎”(薬剤をパッケージごとに分けて、自ら煎じる)と“代煎”(診療所が専用設備で煎じる)があります。代煎の場合には21人民元を別途に払い、短時間後に個別包装された袋詰めの薬を持ち帰れます。最初の一ヶ月間、私が週一回郭先生の受診を受けて、体調の様子に基づいて、処方されます。毎回、私が代煎を選びました。冷蔵庫で保管しやすくて、お湯で温めて飲んだけで、出張にも便利でした。三剤飲んだ後、寒がりと虚弱感が改善しました。中薬の“弁証論治”“四気五味”で私の体のバランスを整えくれたと思います。体調を巩固するため、郭先生は前回同様の処方箋を出してくれました。しかし、今回の薬味が薄く薬効も弱いと感じました。代煎の品質に疑問を抱き、出張の原因もあり一週間薬を中止した。
 物事に疑いが生まれると、自信も影響を受けます。最後の一剤、私が自煎することにした。砂鍋や瓦罐(甕)が最適な容器ですが、三軒のスーパーを比べて99元で陶磁の鍋を買いました。“竜骨”(薬名)を30分間水に浸けて、30分煎じて、他の薬材を加えて弱火で30分煎じて、一椀の薬湯にします。通常、1袋の薬は2回煎じて、1日2回分の量にしますが、無駄を避けるため、私はさらに1回煎じます。最後まで薬湯は意外と濃いです。こうすると7日分の薬を10日まで服用することができました。“薬渣”(薬かす)は足湯に使っていました。故郷の伝統では、薬渣を大通りに捨てて、人に踏まれたり車に轢かれたりさせることで、病気を持ち去ってもらうという風習があります。しかし、都会に住んでいると、ゴミ箱に捨てる以外には勝手にはできません。悩むことに、家事をしながら薬を煎じると焦げやすいです。高価な薬を捨てられなくて、さらに水を入れて煎じて飲むしかないです。苦味が焦げ味を隠しています。薬の効き目さえ影響がなければ、それでよいと思います。元々“良薬苦口”(良薬は口に苦しい)ですね。
 二ヶ月間近く中薬を飲み、堅持することが難しいを実感しました。毎日定刻に薬湯を温めて飲み、辛いものや生冷物を忌口するのは、簡単そうですが実際に続けるのが難しいでした。薬の効き目は、医師の医技、薬材の品質、煎じ方、患者の忌口や心身状態などに影響を受けることを存じますが、郭先生が処方頂いた処方は私の症状を調理できたと思います。

 7月末頃、郭先生が私に“三伏帖”を処方しました。これは“冬病夏治”の漢方療法で、温熱効果の薬貼を特定経穴に貼り、寒湿を除き、体調改善、免疫力強化や慢性病治療など効果があるそうです。初めて貼るにもかかわらず、女性作業員は注意事項を説明くれなかったです。体の7か所の経穴に円い薬シートが貼られました。当初は違和感がありませんでした。深夜入浴後に異様な寒さを感じ、夜中には寒がり症状が強まりました。経穴から寒気が侵入したのではないかと心配し、翌日朝、私が急いてウェチャットで郭先生に相談しました。郭先生は入浴とは関係がないと話をしてくれて、シソとショウガが沸いた湯を飲むようと勧めてくれました。

 初めて“三伏帖”を貼る経験を振り返ると、心理作用で“三伏帖”の効力を過大評価と期待したのかもしれません。長い行列の中に、鼻炎、風邪や関節炎などを調整する人が多いです。一か月間以上かけて5回分けて貼りましたが、個人的には即効性を感じませんでした。漢方の調理は漸進的で万能と存じます。むしろ知らないうちに体が改善されているのかもしれませんね。 診療所の壁に“冬病夏治三服帖”の画像が貼られて、人体の生命活動要素の“精・気・神”の概念図もあり、人体経絡図、経絡(けいらく)、推拿(たいな)、抜罐(ばっかん)、艾灸(きゅうしゅう)などの漢方医理療法も展示されています。郭先生の診察室の向かいには簡易仕切りのベッドがあり、鍼灸(しんきゅう)や推拿、抜罐、艾灸の理療も行われています。“三伏帖”貼る作業と同様、主に2名の女性作業員が担当しています。むしろ都市のマッサージ店や美容店などにも一部分のサービスがあるため、ここで理療する人は多くないです。

   

 診療所は規模が小さく、大病院ほどの正規性にはやや劣りますが、私には便利でした。次男が小児尿床のため、郭先生に“泽瀉”(中薬、沢瀉)10gを処方することを相談しました。母は村で聞いた偏方によると、泽瀉を鶏腸に入れて煮込み、油や塩など調味料を加えずに飲むと尿床に効果があります。郭先生もこの偏方を知っていて、女性スタッフに声をかけて薬を売ってくれました。

 都市では医療が発達し、皆が体調を崩すと正規病院に行く習慣が身に着けました。偏方には慎重になりましたが、私には“小さな偏方で大きな病気が治る”ということは信じています。私が三四歳の時、暖炕の上における食卓の足を引っ張って炕に上がろうとしたとき、卓上の熱々の肉スープが顔全体に掛かり火傷してしまいました。大叔(おじさん)はすぐに私を抱いて、やけどの民間療法を知っている同村の老人の家まで走って行きました。黄泥とごま油などで作った手作り膏薬を塗ってもらいました。不思議なことに、一ヶ月間老人の偏方と母の世話で、私の顔には瘢痕が残りませんでした。この経験から、私は伝統偏方に感謝の気持ちを満たしています。

 初めて“泽瀉”を聞いたので、ネットで検索してみました。漢方的には、泽瀉が膀胱機能を調整、鶏腸が腎を強化できます。現代医学的にも泽瀉が泌尿器を調整、鶏腸が栄養を補うことができます。どんな角度をみたら、泽瀉と鶏腸が体に悪い影響はないはずと思います。
 泽瀉は思わないほど簡単に入手できましたが、入手しやすいはずの鶏腸はなかなか買えませんでした。父が一周間早起きして家周辺で流動の鶏売り業者を探しましたが、どう見ても最近皆来ない様子です。父と主人の実家に行ってから、ようやく鶏を買えて、材料がそろいました。最初は、偏方とおりに、泽瀉を潰して鶏腸に入れようとしましたが、鶏腸が薄すぎて破れてしまうので、結局両者をばらばらにして一緒に煮込みました。次男は安徽省で一剤(泽瀉半銭、鶏腸1本分)を飲んだ後、まだ2回尿床しましたが、昆山に戻ってからもう一剤飲むと、尿床が止みました。尿床には、就寝前の飲水量や深い睡眠が影響することを知っています。ある日、次男が夜に飲み物を控えられず、子供二人で賭けをしました。夜中誰に起こされることもなくトイレに行かなくても、次男は尿床しませんでした。彼は嬉しくて10分間のゲーム時間を勝ち取りました。私も彼の改善を見て非常に嬉しかったです。偏方は口伝えで誤りが生じる可能性があり、伝統的な薬材や材料が失われることで薬効が低下するかもしれませんが、その中には祖先の知恵が凝縮されていると思います。そのため、私も母が聞いた偏方の本を参考して、淘宝(タオバオ通販ショップ)で中古本を購入しました。

 私が幼い頃、村に偏方の本や萬年暦(まんねんれき)を持っている老人がいって、さらに、占い(うらない)が得意で物事を予測できる老人もいます。まさに“民間に達人がいる”と言う通りです。昔は医療が乏しく、村の“赤脚医生”(農村の素人医者)である“鉄牛大夫”( 大夫:先生)が村全員に看病をくれました。彼の呼び名は“鉄牛”で、私が彼を“鉄牛大爺”(大爺:お伯さん)と呼んでいます。“鉄牛大爺”の医術が立派のため、外村の人も受診に来ます。小さい時、私が彼を怖がりました。また、私も注射と薬を飲むのが嫌いです。“鉄牛大爺”が処方した錠剤は大きくて苦くて、飲み込めませんでした。幸いにも母が薬を潰して砂糖を加えて飲ませてくれました。夜、高熱を出したら、“鉄牛大爺”が薬箱を持って家に来て注射をしてくれました。泣き騒いても逃れられませんでしたが、幸いにも、毎回、父が“黄桃罐头”(黄桃の缶詰)を買ってくれました。病気になるのは辛いですが、少し甘いものを食べると、その辛さが和らぐのでしょう。

 時は本当に速く過ぎますね。かつて注射器の針先を見る勇気もなかった私が、今では二人の子供を産みました。“鉄牛大爺”は定年後もたまに村民の診察をしています。私が次男を産んで体が寒がりになった時、母は急いで私の症状を彼に尋ねました。“鉄牛大爺”は昆山の漢方医を薦めてくれ、“玉屏風顆粒”という薬を紹介してくれました。この薬は黄耆、白術、防風を成分とし、益気、固表。止汗の効果がある漢方製剤です。一箱飲んでみたら確かに効き目があり、一箱二三十元で伝統漢方薬に比べて経済的でした。振り返れば、今の私にも大規模の病院を信じるようになりました。もし今年、症状が出る時この薬を飲んでいれば、長期的な漢方治療はいらないかもしれませんね。 今では、注射を受けたり薬を飲んだりするとき、もう苦さや痛みを恐れません。ただ一日も早く病気を取り除き、健康な体を願います。上には両親がいて、下には子供がいるし、さらに人生に希望を抱えています。

 現在の都市では、医療施設が先進で充実し、医師の学歴も高くて、中西医が協力し、社会保障制度も整っています。人々は肉体的な健康だけでなく、メンタルヘルスも重視するようになりました。私もこの便利さと安心さを享受しています。しかし、農村にいる家族の医療条件はまだ不十分で、医療保険も充実していません。村では“病急乱投医”(病急ぎで医者を選ばず)の現象が多いです。農村と都市の格差がいつになったら消えられるでしょうか。いつか都市も農村も、医術に優れて責任感ある医師がいれば、効果的な治療を受けられたらいいなと思います。

 体調がよくなかった日は、鏡を見たくなくて、髪がぼさぼさで化粧もしたくありませんでした。服を買ったり美食を食べたりする気持ちも湧きませんでした。やっはり健康が一番ですね。体調が万全になったらやはり泰山に登りたいと思います。いつ行くかには、縁と時間に任せたいと思います。健康な心と体があるこそ良い風景を楽しむことができます。

 中医と中薬の知恵は、急いで病気を治すことではなく、体と心のバランスを取り戻し、胸を開かせ、毎日の生活を安定させると思います。急速発展の時代に亜健康や慢性病を抱える人々にとって必要な調養方法だと信じます。健康の道には、伝統の知恵と自然の歩みが欠かせないですね。

※文章は高さんの記述のまま掲載しています.

2025.07.13
4UniC 2025 in Shanghaiは兎に角にも,暑い熱い毎日だった(2)

 4大学国際ジョイントセミナー(4UniC:4 University international joint Conference)はカナダカルガリー大学,韓国ソウル市立大学校,中国同済大学,それに日本の熊本大学の4大学の交通系教員が年に一度,持ち回りで開催している国際セミナーです.当初はカルガリー大学とソウル市立大学の2大学が各年で交通研究の学術交流をしていたのですが,ソウル市立大学校のSeungjae Lee教授から招待されて熊大から溝上教授が参加したのは2008年です.その後,中国同済大学も参加して4UniCとなりました.COVID-19の世界的な蔓延のため,2020年から2年間は中断していたのですが,2023年には再開し,今年で数えて17回目になります.当時,私は既に熊大を定年退職して今の熊本学園大学に転職していたのですが,その後も歓迎されて?参加しています.
 12日の夕方から始まったコミッティミーティングには各大学から数名のファカルティメンバーが参加し,1年ぶりに会う友人の健康を喜び合い,新たに参加したメンバーを歓迎しました.主催大学のYuchuan Du教授の進行のもと,4UniCへの参加の希望があったルーマニアとスペインの大学の受入について審議し,了解が得られました.アジアと北米に加えて欧州の大学もメンバーとなるこの組織も,来年以降は益々国際的になりそうです.その後,同済大学が運営するホテル内の宴会場で開催された歓迎パーティで更に旧交を温めました.

 

 13日は朝から本番.総合テーマはTransforming Mobility Paradigms: AI Frontiers in Smart Transportationです.最初のBreaking Sessionでは各国の代表が上記に関する現況や関連する研究成果を発表しました.これを聞いていると,各国の研究動向や興味が分かります.その後,3会場に分かれてセッションが進行.昨年の4UniC 2024 in Kumamotoでは校務のため発表は行いませんでしたが,今年はUpdating a conversion model implemented in a Multi Agent-based Urban Mobility Simulator with observational dataというタイトルで2年ぶりに英語でのプレゼンを行いました.準備はしてきたものの,久しぶりの英語での発表に緊張したし,カルガリー大学の新人ファカルティメンバーからのニコニコしながらもシビアな質問には旨く回答できたか?しかし,研究の目的,手法,成果は十分に伝わったようで,お世辞にも「この研究,👍」と言ってくれたのは良かったです.私の会場で発表した安藤先生と田中研の学生も無事に終わりました.

 これまでのセミナーとは違った今回の特徴は,参加した4大学からの学生諸君の「近未来の都市と交通」に対するアイデアコンペの開催でした.最終的にはA0版の模造紙に手書きの構想図を掲示し,ファカルティメンバーが順次回って説明を受けて上位5点を推薦して順位を決める方式です.さすがお金持ちの中国,というよりも同済大学の執行部になった Yuchuan Du先生,上位の賞品は私も欲しいと思うような豪華版でした.

 夕方からは,各室の前でシェフがローストされた北京ダックを薄く切り分けているような豪華な中国料理店でウエルカムパーティが開催されました.中国のレストランではアルコールは持ち込み可が多く,ここでもDu先生が取り寄せた市販されていない秘蔵の白酒で「干杯!」.豪華な北京ダック,それに繊細な上海料理に酔いました.来年のカルガリーでの再開を祈念し,再度「干杯!」.やっぱり学術交流も結局は人的交流ですね.

 ソウル市立大学からの先生や学生諸君は2次会まで参加したようですが,私は明日早朝からの寧波への移動があるために1次会で切り上げました.