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ハーン、パトリック・ラフカディオ(小泉八雲)一八五〇(嘉永三年)六月二七日~一九〇四(明治三七年)九月二六日

 ハーンはギリシャのレフカダ島でギリシャ人の母とアイルランド系イギリス人の間に二男として生まれた(長男は早逝)。二歳までレフカダに居たがその後父の実家のダブリンで暮らすも両親が離婚して大叔母に育てられイングランドのダラム郊外のアショーの神学校で中等教育を受けるがこの間十六歳で左目を失明、後見人の大叔母の事情で学費が払えなくなり十七歳で除籍となる。一時はロンドンに出るがその後十九歳で渡米。オハイオ州のシンシナティで八年、ルイジアナ州のニューオーリンズで十年間新聞記者として過ごす。その後ニューヨークの出版社の依頼で西インド諸島のマルティニーク島で二年間取材滞在し、その後一八九〇(明治二三年)に横浜に入る。以後松江で一年、熊本で三年、神戸で二年、東京で八年の計十四年間日本に居て日露戦争勃発の年に心臓発作にて死去する。薗間神戸時代以外はお雇い外国人教師として教壇に立つ傍ら多くの文学作品を世に遺した。
 ハーンは文学者としてはニューオーリンズ、マルティニーク時代に試みたクレオール文学と他方で民話や説話など昔話などにヒントを得て作った再話文学にもすぐれていた。
アメリカ時代に培ったジャーナリスト魂は「取材して書く、そして読者に読んでもらう」という姿勢を一貫させた。来日後も西洋と価値観の異なる神道や仏教の文化を理解し、これを英語で書いて西洋に紹介していった。
 教師としては松江の島根尋常中学校、熊本の第五高等中学校、東京の帝国大学で英語あるいはラテン語の教師として、また英文学講師として明快にして質の高い教育を施し、優れた教育者として多くの有為な学生たちを世に輩出させた。
 ハーンはまた民俗学者として巷の民間信仰や祭式、護符、道端の祠や地蔵、神社仏閣の祭りや踊りなどに興味を持ち、これを記述した。さらに霊(ゴースト)的な世界への関心も深く土着の伝統的な宗教やその儀式などを取材している。ハーンが後の日本の民俗学の創草期の南方熊楠や柳田国男などに与えた影響は少なくない。
 他にハーンは科学ジャーナリストでもあった。アメリカ時代から生物学、特に進化論に興味をもち、天文学や物理学や言語学の記事や学説を取り上げて論評している。特にダーウィンの学説を国家や社会の存続に適応したハーバート・スペンサーの社会進化論の影響を大きく受けるに至っている。
 さて、このハーンは一八九三(明治三六年)にかつて熊本洋学校の教師であったリロイ・ランシング・ジェーンズとニアミスを演じたことがあった。一八九一(明治四一年)十一月に熊本に来たハーンは旧来の日本らしさが残る松江との比較で軍都として近代化が余りに進んでいる熊本に時に落胆し、その上国会で就職したばかりの高等中学校の五つのうち熊本を含む三つまで廃止するような法案が可決されるばかりになっていた。ハーンはどこかもっと居心地の良い学校に異動したいと思っていたのである。その目標は京都の第三高等中学校教師への異動であった。

他方ジェーンズは洋学校閉校の後一旦は大阪に出たがやがて帰国、アメリカにおいては離婚訴訟問題などが起こり、必ずしも幸せでなく、惨めであった。このことを知ったとき今では立派になっているかつての熊本バンドの教え子たちが同志社にあって再びジェーンズを日本に招こうとしたのであった。その目標は京都の第三高等中学校教師への推薦であった。ここにハーンとジェーンズの接近があったのである。結果はジェーンズが赴任することになるがこの間の事情はハーンの書簡にも出てくるので次に紹介しておきたい。
ハーンは一八九三(明治二六年二月八日、西田千太郎への書簡で次のように書いている。
「悲しい哉! 私はすぐ解雇されやすく、みつける何の理由もなく日本の同僚の教師らから不思議な憎悪で憎まれている一介のあわれな外人教師にすぎません。・・・京都のどこかに職を求めてみようと思います。」
この書簡を書いた時点ではまだ人事は決まっておらず、ハーンは何らかの伝手で京都(第三高等中学校)に空席があることを知っていたに違いない。これ以前、一八九二(明治二五年)浮田和民がイェール大学に留学するに際して途中ミシガン州アナーバーにいるジェーンズを訪問している。この時ジェーンズは三番目の妻フローラと結婚をしてひっそりと暮らしていた。恩師の惨めな事情を知った弟子たちは今では有力な指導者となっている熊本バンドの同志たちと連絡を取り、往年のすぐれた教育者であった恩師を京都に呼びよせることを考えたのであった。
ジェーンズが京都で第三高等中学校の教員として採用されたのは八月、結果を知ったハーンは同年同月の十六日付けの西田千太郎への書簡の中で次のように書いている。
「私は京都の空席について、それが埋まるまで知りませんでした。その宣教師はかつて熊本で学校を経営していて、そこでほとんど殺されかけたキャプテン・ジェイムズという人らしいのです。私はすべての事実を知りません。私はいつか京都に就職申し込みをするかもしれません・・・」
学校は当時九月から始まっていた。ハーンが八月十六日のこの書簡を書く段階ではもうジェーンズの人事は決まっていたのである。しかしこの時期熊本にいたハーンは京都への異動に心が動き、その京都にかつて熊本にいたジェーンズが着任したことは興味深いことである。但し書きとしてジェーンズは着任後行った教会の演説で周囲の顰蹙を買い、長続きすることはなかったこともここに付け加えておきたい。

[参考文献]
 同志社大学人文科学研究所編 『熊本バンド研究』 みすず書房 一九九七(新装版第一刷発行)
 『ラフカディオ・ハーン著作集』第十四巻(書簡Ⅰ) 恒文社 一九八三