祈っても平和は。。

 八月になると、平和を祈る行事が盛んになる。平和を願う気持ちは大事だろうが、そこで思考停止に陥るべきではないと思う。NHKなどのインタビューで「戦争は悲惨だと思った。二度と繰り返してはいけないと思った。」という、中学生の答えを聞くたびに、「では、あなたはどう行動すれば良いと思いますか?」と、質問したい気持ちに駆られる。

平和とは何か?

 一口に平和という。日本は平和だと言う。今日的な意味での「平和」とはどういう事だろうか。

  1. 自国が、他国と交戦状態に無い事。
  2. 国が治安を保証して、その内部で内乱、無政府状態が発生していない事。
  3. 自国の軍隊が、直接的、間接的に生活を脅かさない事。
  4. 自分のやりたい事がやれ、言いたいことが言える事。

 専門的な定義は色々とあるのだろうが、私が直感的に思い浮かぶのは、こんなところだ。(この定義からすると、例えば沖縄では3.の条件が満足されているとは言い難い。従って、「日本は平和だ」というのは文としては正しくなく、「沖縄や、他の基地所在地を除く日本は平和だ」と言うのが正しいように思われる。)

平和の実現方法

 ある国が「平和」になるパターン(他国との交戦状態に無い場合)としては、以下のようなものが思いつく。

  1. 近隣諸国との軍事力がバランスし、侵略をする事も不可能、侵略される危険性も低い場合。
  2. その国を侵略する事が、国際的に強い非難を浴び、得られる利益に引き合わない場合。(バチカンなど)
  3. 他の大国の実質的な支配下にあり、大国同士のパワーバランスにより、無風状態が実現する時。(冷戦下の東西陣営の中小国)
  4. 国自体に、侵略される魅力が存在しない場合。(破産寸前の国家 ナウルなど)

ある国が「平和」でなくなるパターン

  1. 近隣諸国とのパワーバランスが崩れ、侵略を受ける場合(イラクによるクエート侵攻など)
  2. 政府の衰退により、無政府状態、市民戦争が発生する場合。(ソマリア内戦など)
  3. 「民族」紛争(旧ユーゴ、ルワンダ、ブルンジ)
  4. 強力な国家統制による言論弾圧、密告国家(文革下の中国や、旧東独、カンボジアなど)

 が思いつく。

それでは日本で平和を実現するにはどうするべきなのか?

「平和の実現方法」で述べたパターンのうち、まず、2.と4.は日本にとって選択肢にはなり得ない。

2.その国を侵略する事が、国際的に強い非難を浴び、得られる利益に引き合わない場合。(バチカンなど)

 に相当するような、宗教的、道義的な求心力は日本には存在しない。(憲法九条が道義的な求心力になる筈だという反論が予想されるが、虚心に世界の現状を見た場合に、はたしてそうなのか、私には疑問に思える。)

 また、

4.国自体に、侵略される魅力が存在しない場合。(破産寸前の国家 ナウルなど)

 を選択肢にするには、少なくとも経済力などが有りすぎる。残るスタンスとしては、1.と3.となると思う。では、1.と3.のどちらを取るか?

 今の時点では二者択一の選択ではなく、3.大国(アメリカ)の庇護下の均衡状態から、1.近隣諸国との軍事力バランスの状態へと緩やかに移行していくのが妥当な選択に思える。もっとも、近隣諸国とのバランス関係をもたらすのは軍事力だけではない。外交チャネルや民間による交流、情報の交換、共通の歴史観の構築など、取るべき手段は多数ある。これらの手段を複合的に組み合わせつつ、地域社会全体(日本に取っては東アジア地域)がより安定性の高い方向へにじり進んで行くのが良いのではないだろうか。

 この方法を実現するためには、多数のハードルがある。各国に存在する自国中心主義史観や、ポピュリズムの克服、偶発的な戦争勃発を回避するための厳密なシビリアンコントロールの実現などなど。当然、時間がかかるだろう。

 でも、時間がかかっても良いのではないだろうか?少々逆説的だが、時間をかけている間=平和な状態が続く事なのだから。

 


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