朝日新聞、記事ねつ造

 朝日新聞記者が、 田中康夫・長野県知事の取材メモをねつ造し、懲戒解雇された。

 その経緯については、毎日新聞のこの記事が詳しい。一方、当事者の朝日新聞のサイトでは、8月30日朝時点では、この不祥事に触れた記事、特設コーナーなどは見あたらない。

 「社会」ページに入り、全記事の一覧を表示させて、ようやく、

 という記事が見つかる程度である。

なぜ、ねつ造は繰り返されるのか。

 このような事件が発生する理由については、様々な推測が成り立つ。ちょっと考えただけでも、

  • 記者の功名心
  • 事件がなければ、作ってでも、、という、売り上げ至上主義
  • 自分たちが正義であり、正義を行うためにはある程度の事は許されるという思いこみ
  • マスコミの情報を受ける側の未成熟。

 ただ、これらの発生理由については、今回は深くは取り上げない。今回は、「このような事件が繰り返される理由」について意見を書きたい。

巧妙な言い換え

 まず、朝日新聞の『「虚偽のメモ」で記者解雇 誤った記事、本紙が掲載(08/29) 』 という記事タイトルについて。

 記事ねつ造を行った記者は、懲戒解雇されるまでは朝日新聞社の社員である。朝日新聞社が同記者と雇用関係を結んでいる以上、朝日新聞社にも以下のような責任があると思われる。

  • 記者に対する常識的な職務教育を行う義務
  • 記者の取材内容について、客観的に真偽を確認する義務
  • 取材記者が誰であれ、記事の最終的な責任は法人としての朝日新聞社が取るという社会的責任

 上記のような記事タイトルだと、まるで『外部の不正確な情報提供者によって、朝日新聞社も騙されました。その結果、記事が誤ったものになりました。朝日新聞社も被害者です』と言っているように感じるのは私だけだろうか。

 記者の記事が「ねつ造」であるのならば、新聞紙上で公表された記事も、当然「ねつ造」以外の何物でもない。 もしも、自社の問題としてとらえるのであれば、

  『「虚偽のメモ」で記者解雇 ねつ造記事、本紙が掲載(08/29) 』

 という表記にするべきではないだろうか?

仰天の言い訳

 続いて、毎日新聞のこの記事。

 まだ、朝日新聞社の内部調査結果が公表されていないため、このニュースソースによってのみ、コメントを述べるのは不適切かも知れない。仮に上記記事中に述べられている、以下のねつ造記事を書いた記者のコメントが正確だったという仮定で。

 社内調査に対し、記者は「知事からこれぐらい聞けるんだというのを総局長に見せたかったのかもしれない。後から考えれば功名心だったかもしれない」と話している。

 この記者のコメントで、どうしても引っかかるのが、「見せたかったのかも知れない。」「功名心だったのかも知れない」という、「、、かも知れない」語尾である。自分の言動、行動であれば、「見せたかった」「功名心だった」と言い切ってしまえば済む事を、わざと語尾をぼかした形にしている。

 これでは全く、記者が自分の事を述べているようには聞こえない。まるで部下の不適切な行動について、上司がコメントを述べているような感じである。

 上記の「巧妙な言い換え」が、「朝日新聞社による記者の切り捨てによる責任回避」だとすると、この例は、「(今現在の)ねつ造記事記者による、過去の自分自身の切り捨てによる責任回避」に感じられる。

入れ子構造の責任拡散

 結局は、このような責任を拡散する毛細管のような組織(あるいは自分自身)のおかげで、「反省しています。」「再発防止に努めます。」という耳障りの良いコメントと、減給、譴責などの処分で、事件は丸く収まってしまう。ただし、事件が収まってしまっても、組織自体の体質、構造的な原因には影響は無いために、同じような事件が発生し、事態は繰り返される。

 このような、極めて「日本的」なシステムが、良いことなのか悪いことなのか、即断は出来ないのかも知れない。少なくとも、そのようなシステムの上で、現在の社会が繁栄してる事は事実なのだから。

 ただ、メディアについては、通常よりも一段高いモラルを求めたいと思う。今回の件は、たまたま記事をねつ造された被害者が、田中知事という社会的な発言力が大きい人だったからこそ、これだけの問題になった。もしも、その対象が一般人だった場合に、はたしてこれだけの反攻ができただろうか?

 そして、ねつ造記事、ねつ造報道の犠牲者に、自分がならないという保証はどこにも無いのだから。

 2005/08/30

 

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