同胞とは誰か

1.発端

先日、テレビの討論番組で北朝鮮の拉致問題についてディベートをやっていた。その中で、「地域の安定が大切」という意見に対して、「同胞が誘拐されたのに、どうしてそんなに弱腰なんだ」との反論が出ていた。

この問題の是非については、ここでは取り上げない。ただ、私は気になった「同胞」という言葉について書いてみたい。

2.同胞とは誰か?

 まず、このような文脈で誰もが思い浮かぶのは「同胞=日本人」という定義ではないだろうか。ただこの定義では、「外国で生まれ育った後、日本に帰化した人」「国際結婚で日本国籍を取得した人」は「同胞」に含まれるのだろうか?

 もし、含まれるとしたら、「日本人=日本国籍を有する人」という意味になり、論理的にはスッキリしている。逆に含まれないとすると、「日本民族」というものが、いにしえから存在しており、その純血を維持しているものが日本人という事になる。

 ただ、後者についても自分の家系を無限の過去にまで遡って、「日本民族」以外の血が入っていない事を証明する事はできない。では、何代前まで遡って「純血」が証明できれば「日本人」であり、「同胞」と呼んで貰えるのだろう。頭がぐるぐるする。

 また、こんな場合はどうだろう。コントラストをはっきりさせるために、かなり極端な例にする。

  1. あなたが国際結婚をしたとする。ただし妻(夫)は、まだ日本国籍を取得していない。(通常、国籍取得には数年〜10年程度かかる。)
  2. 東京出張に行った時に、道でホームレスとすれ違った。

「同胞」という言葉が明確な境界を持った言葉で、それが、例えば「誰かを助ける際の基準」になるとすれば、あなたは、自分の妻(夫)を見捨てて、見知らぬホームレスを助けなければならないことになる。

3.当たり前の感覚

 上記の例はいくらなんでも極端過ぎると思われるだろう。私もそう思う。ごく一般的な感覚としては、もし、『同胞度』という言葉があれば、

 自分自身→家族→親戚や友人→自分の属するコミュニティ(会社、組織など)→同一「民族」

 の順序で同胞度が高いだろう。丁度、タマネギの皮のようなものだ。自分自身がタマネギの中心に居て、そこから心理的に近い順に同胞度が高く、知らない人に対しては、同胞度は0に限りなく近くなっていく。

 毎日、沢山の日本人が死んでいく。たとえば暴力団の抗争で。また、海外で犯罪に巻き込まれて。こういう人たちの死については、ただ、「自業自得だよ」「お気の毒に」で片づけられるのが普通だ。これはある意味、自然な事だ。すべての人の不幸にいちいち心を痛めていては、心がいくつあっても足りない。自分から遠い世界で起きている事は、情報をフィルターにかけ、日常生活に支障が出ないようにする、という事だ。

4.ディベートの「場」と「言葉」

 「発端」で書いた、テレビの討論番組に戻る。拉致事件が、たとえば政府官報のような事実関係を淡々と報告するようなメディアでのみ報道されていたとする。それだけが予備知識で、あのディベート番組が放送されたなら、受け手は「拉致被害者=同胞」という主張をすんなり受け取るだろうか。

 多分、そうはならない。

 ディベートという、言葉が高速で飛び交い、一つ一つの言葉の意味が軽くなる「場」があり、また、視聴者と被害者を心情的に近づける報道がすでに為されていたために、視聴者は「同胞」という言葉にそれほど違和感を持たなかったのではないか。

 言い方を変えれば、「同胞」という曖昧な概念を運ぶ言葉を、自明のものとして流通させているものは、メディアだという事になる。

 この点が、多分、私の中で違和感の根っこだと思う。

5.結語

 みんなが共通に認識できる、「同胞」という存在は無い。一人一人、「同胞」と感じる範囲は違う。

 「同胞」、さらに言えば「民族」という概念を、実体があるもののように錯覚させているのはメディアだと思う。


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