国民投票とポピュリズムの危険

 先日、自分のblogに、「郵政民営化に思う」という文を書いた。その中で、  「こういう時は他の国が行っているように、ある法案についての国民投票を行い、その結果によって議会解散か内閣総辞職が行われるのが、より優れたシステムに思える。」と書いたが、この部分について、反省、補足しなければ、、と思わされる記事があったため、ここに紹介しておく。

 言論NPO ポピュリズムと小泉政治

 確かに、国民投票にはポピュリストに利用されやすい側面を持つ。その点についての認識が足りなかったように思う。

ポピュリズムの危険


  ポピュリズムの定義は、こちらを参考。 ちなみに、この例の中でポピュリズムのポジティブな面として取り上げられている「 19世紀末から20世紀初頭のアメリカ(中南米のことだと思われる)」の例についても、最終的には経済的な行き詰まり、社会的な不安定をもたらしたことを補足しておく。

 ポピュリズムの危険性は、その破壊のエネルギーにある。

 たとえば、既存の体制の中に、あるいは富裕層の中に、はたまた、国の外に、明確な「敵のイメージ」を作り出し、人々の憎悪をかき立て、それを自己の拠り所にするのがポピュリズム政治の手法である。

 このような憎悪は、安定した経済、官僚システムの破壊し、激しい民族対立や戦争を生む。ポピュリストが言うように、「xxさえ無くなれば、社会が良くなる」という事は、長期的な目で見れば、ほとんどは真実でない事が多い。

 例えば、今は「水に落ちた犬」として、どれだけ批判しても構わない事になっているヒットラー(ナチスドイツ)について見てみよう。ご存知のように「ユダヤ人さえ居なくなれば社会は良くなる」と、「ユダヤ人」いう明確な敵を設定し、同時に「アーリア民族の優越性」という、自己愛をくすぐる論理で武装。一つのスローガンを、メディアを通して繰り返し浸透させる手法で憎悪を増幅し、その力を背景に一党独裁を確立した。

 その結果、ユダヤ民族、ドイツ自身が被った被害の大きさはご存知の通りである。

 (余談ではあるが、「サダム・フセインさえ居なくなれば」と言ったアメリカの例も、ポピュリズムの一種であると言えるのではないだろうか?)

私たちは賢くなってはいない。

 それでは、第二次大戦時のドイツ人は、とりわけ愚かだったのだろうか?今の時代を生きている私たちは、当時の人達よりも、より多くの情報に触れ、常に正しい合理的な選択ができると断言できるだろうか。

 私は、そうは思わない。理由は以下の通り。

  1. 同時に考えなければならない問題が多種多様、かつ複雑になっている分だけ、「どうせ深く考えても、一緒だよ。」という思考停止に陥りやすい状況の中に居る。
  2. メディアが持つ影響力が、当時よりも大きくなっている。
  3. 情報を操作する側のテクニックが、より精巧になっている。(中公新書の「情報操作のトリック」が詳しい
  4. 人間は、本質的に合理的ではない。体調、環境の影響によって、誤った答えを出す事が極めて多い。

では、どうするべきなのか?

  1. 分かりやすすぎる説明には警戒を。
    複雑なものを簡単に説明するためには、当然、情報を削っていく必要がある。その仮定で、情報を削る人の恣意が働く。つまり、自分に都合の良い情報は削らずに、都合が悪い情報から削られていくのだ。また、これはメディアについて特に言える事だが、「大衆ウケの良い情報」が残され(誇張され)、そうでない情報は削られていく。
    与えられた情報から、削られたモノがなんなのか、逆に、誇張されたものが何なのかを推測する能力が、今後、より必要になってくると思う。
  2. 穏健派は、発言が許されるうちに発言を。
    ポピュリズム政治が進行し、その末期になると、暴力が社会を支配し中道的な意見を言うものは、それだけで「日和見主義者」「修正主義者」の扱いを受ける。そうならないうちに意志を表明すべきだと思う。
  3. プロパガンダに対する免疫を。
      理性ではなく、感情に訴えかける大衆動員法は、洋の東西を問わず、広くポピュリズム型の社会に認められるものだ。疑おう。

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